マリッジブルー
「お帰り」
人通りはまばらだが、いくら妻になったとは言え空港内で堂々と桔梗の名を叫び呼び止めるわけにはいかないだろう。
氷室が桔梗の姿を見つけて優しく微笑めば、空港まで迎えに来るなど想像もしていなかった桔梗は驚きで目を見開き、氷室を見上げる。
「氷室先生……!」
通路のど真ん中に荷物を投げ捨て氷室の元へ走ってきた桔梗は、よほど氷室に会いたかったのだろう。
勢いよく氷室の胸へ飛び込んでくると、離れないように強く胸元を両手で握りしめる。
「氷室先生……っ。私ね、頑張ったよ……!」
「ああ。よく、頑張ったな」
「もっと、はやくに……聞きたかった……っ」
桔梗の耳元で囁いた氷室は、優しく桔梗の頭を撫でながら辺りを警戒するように見渡した。
荷物がど真ん中に放置されているせいで、通行の邪魔になっている。
氷室の胸に縋り付き、声を殺して泣いている人物が愛知桔梗であることを疑う視線と、放置された荷物を迷惑そうに睨みつける視線が入り交じっているようだ。
(愛知桔梗だと噂になるのも、時間の問題だな……)
氷室は桔梗の許可なく軽々と抱き上げ、放置された荷物を回収して歩き出す。
「氷室先生。今日はお家で、のんびり過ごす日でしょ……?」
「のんびり過ごす日だからこそ、こうして空港まで足を伸ばす時間ができた」
「……あんまり外へ出ない引きこもりなのに、珍しいこともあるのね」
氷室がこうして空港まで桔梗を迎えに来たのは、電話越しに桔梗へ無理を強いたことを後悔しているからだ。
桔梗は顔を合わせて早々、氷室に抱き上げて貰ったせいだろうか。
ご満悦な様子で、氷室へ小言を呟いた。
(耳が痛い話だな……)
桔梗が芸能人である限り、変装をせず大っぴらに街中を歩くわけにはいかないせいで、どうしても桔梗と過ごす時間は自宅でのんびりと過ごす時間が多くなる。
病院に出勤したら最後。
朝から晩まで病院内で過ごすことに慣れきった氷室は、日に何度も自宅と外出先を往復することに慣れていなかった。
「帰りも見送り、してくれる?」
「休みの日に帰るならな」
「やった。約束よ、氷室先生」
桔梗は鼻歌を口ずさむほど上機嫌な様子を見せる。
(大泣きしていた桔梗は、どこに行ったのか……)
桔梗の泣き顔に弱い氷室は、色々な意味で極力泣き顔を目にしたくなかった。
(桔梗の泣き顔は、心臓にわるいからな……)
あの日の出来事を思い出せば、嫌でも桔梗は悲しい気持ちになるだろう。
氷室は桔梗と荷物を車に乗せると、安全運転を心掛け車を走らせた。
「むぅ。氷室先生が運転すると、ぴったりくっついていられないから物足りないのに……」
「車内で堂々と会話するには、車の方がいいだろ」
「そうだけど……」
「自宅に着くまで、桔梗の話を聞かせてくれ」
「はぁい」
桔梗は助手席に座るとウィッグを剥ぎ取り、飛行機に搭乗する際嬉しかったことを話し始める。
「搭乗手続きをする時ね、白雪桔梗様って呼ばれたの!」
芸能界では桔梗が婚姻したことを発表しても、誰と婚姻したかまでは報道されていない。
愛知桔梗として活動することを継続しており、白雪の名字で呼ばれることは日常生活の上でほとんどない桔梗は、白雪の名字で呼ばれたことを喜んでいる。
「氷室先生の、奥さんになった証……」
桔梗は喜びを表す際、独特の透明感を全身で現す。
彼女が芸能活動をしてきたその証とも呼べるオーラは、見る人を惹きつける魅力があった。
(たかだか名字くらいで喜ぶとは……)
氷室にとっては名字くらいと感じることでも。
桔梗にとっては、喉から手が出るほど白雪の名を名乗りたいと願っていたからこそ、こうして喜んでいるのだろう。
(俺と結婚しなければよかったと、泣かれるよりはマシだな)
自宅に戻り落ち着いたのならば。
芸能活動をやめる、やめないの話をするのだから、これから泣き叫ばれてもおかしくはないと覚悟するべきだ。
「あのね、氷室先生」
「どうした」
「……私、情緒不安定、かな……」
運転に夢中だった氷室は、生返事を返す前に桔梗から問いかけられた言葉を噛み締め唇を噛み締める。
この言葉へ同意しようものなら、桔梗の機嫌が急降下しかねない。
車を走らせる氷室は運転席に座る桔梗の様子を気にかけられず、どうしてそうした言葉を口にするのか、桔梗へ問いかけることにした。
「誰かに指摘されたのか」
「焔華さんが、あんまり大騒ぎするようなら精神科を受診しなさいって……」
「精神科?」
「氷室先生だってお医者様でしょう。私がお願いをしたから、氷室先生は毎日私に声を聞かせてくれた。カウンセリングしてもらっているようなものでしょ。精神科になど足を運ぶことはなかったけれど……」
桔梗は吉更と焔華から、うつ病ではないのかとあらぬ疑いを掛けられていたらしい。
あの2人が本当に桔梗の体調面を心配して精神科の受診を薦めたかどうかは怪しいものだ。
精神科の診断書があれば、芸能活動を休止する理由になる。
桔梗が体調を崩しているのだから、たとえうつ病だと診断されなくとも、マスコミに愛知桔梗が精神科を受診していたと書かせて世論を巻き込み、尤もらしい理由を作る作戦のうちではないだろうか。
(普段の桔梗であれば、神奈川焔華の企みを織り込んだ上で行動するはずだ。それをしないなら……)
桔梗の精神面が、あまりよくないことは明らかだ。
氷室が一緒にいるからこそ、時折明るい声で楽しそうに話をしているが……。
やはり、例の件に関連する話が出てくれば、露骨に声音へ陰りが生まれる。
「さーちゃんに、相談してみたの」
桔梗は氷室が難しい顔をしながら、運転していることに気づいたのだろう。
声のトーンを明るくした桔梗は、楽しそうに紗雪との話を氷室へ語り出す。
「さーちゃんも、私と同時期に婚姻届を提出したでしょう。それで、聞いてみたらね……」
「どうだった」
「さーちゃんも、旦那さんがいない間、すごく不安になったって。手術が失敗したら、ドナーである旦那さんの命も奪ってしまうから……」
天門紗雪は、悪魔の子迫害法律が撤廃された1ヶ月後に、病に苦しむ悪魔の子の希望となるべく移植手術を受けている。
手術は無事に成功し、現在はリハビリ等などを行いながら社会復帰のタイミングを窺っているようだ。
桔梗と紗雪は、世間の目に触れぬよう細心の注意を払いながら交流を続けている。
氷室と遠距離婚をした桔梗、臓器提供を受けたいが為に古賀と婚姻し共に生活している紗雪が同じ悩みを持つはずなどない。
ないはずだったのだが……。
どうやら、桔梗の話では紗雪も似通った不安を口にしていたようなのだ。
人々はその不安のことを、ある名称で呼んでいた。
「婚姻後に不安が大きくなることを、マリッジブルーって呼ぶみたい。氷室先生、聞いたことある……?」
氷室は長年ペーパードライバーだった影響で、運転が危なっかしい。
運転に集中するあまり、聞き慣れない横文字が右から左へ流れて行ってしまった。




