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もう遅いと諦める前に

 ──連続ドラマの撮影中に、相手役から強制的に口づけをされた。


 そう氷室に泣きじゃくり電話を掛けてきた桔梗は、芸能人をやめるだとか氷室に会いたいだとかテレビ電話越しに大騒ぎして、氷室を悩ませる。

 元Imitation Queenのメンバーであり、桔梗と何かと縁のある宇都宮鏡花が割って入り、どうにかその場は収まったが──。


(……トラブルが起きた時、すぐ会いに行けないのが仇になったな……)


 桔梗が輝かしいステージの上で、一人スポットライトを浴びて輝き続けられないほどに、弱っているのは明らかだ。

 桔梗が望むままに抱きしめて、今すぐ戻ってこいと優しい言葉を掛けて受け止めてやることこそが、旦那である本来の役割だろう。

 結果的に氷室は、桔梗を突き放した。

 冷静になった桔梗がショックを受け、離婚してやると騒ぎになってもおかしくはないほど、氷室が口にした言葉は悪手であることをよく理解している。


(鬼だ、悪魔だと罵倒されようとも……)


 桔梗の心と身体を奪った氷室が、軽率な言動により活躍の場まで奪えば、彼女のファンはきっと悲しむ。

 アイドルとしてデビューしてから、女優をメインに活動することになり、結婚してからも変わらず桔梗を愛するファンから、芸能人としての愛知桔梗を奪うわけにはいかないのだ。

 桔梗は子どもを欲しがっている。

 高齢出産がハイリスクなのは、女性だけの問題ではない。

 氷室だってもう若くはないのだから、子どもの健やかな成長を願うならば、早く作るに越したことはないだろう。

 子どもを生み育てるには、女性のキャリアが一時的に犠牲となるのは避けて通れない道だ。


 芸能界は名の知れた著名人であれば、比較的復帰がしやすい。


 産休明けから意欲的に活動し、ママタレとして名を馳せる先輩芸能人の姿を目にしたことのある氷室は、そう遠くない未来に桔梗が芸能人をやめることに異論はなかった。

 問題は、桔梗が芸能界から一時的に足を洗う理由だ。

 よくよく桔梗から話を聞けば、事件当初スマートな対応ができずに一般男性としか報じられていなかった氷室の名前を出して、相手役をひっぱたいてしまったらしい。

 相手役の男は甘いルックスが売りの、実力派演技俳優と名高い人物だ。


 彼の売りを力いっぱい引っぱたいて紅葉型の痕をつけた件を、身内だけで内々に処理できるはずもない。

 芸能界のゴシップに飢えている週刊誌が嗅ぎ付け、たった3日で裏取りを済ませた週刊誌の記者は、記事のゲラを上げて焔華の元へ持ってきた。


「事実なのか」

『今回の記事は嘘偽りなどないわよ。すべて事実で構成されている』


 珍しいこともあるものだ。

 氷室の元へ送信されてきた記事のゲラには、愛知桔梗が相手役の俳優を力いっぱい引っ叩いたことやその理由が記載されている。

 芸能人には、演技を行う上において事件を守るためにコーディネイターがつけられるらしい。

 性的な表現がある場合は、必ず双方に確認した上で演出プランが決定されることが丁寧に説明されており、桔梗が相手役を引っ叩いたことは咎められるようなことではないと記載がある。

 記事は全面的に桔梗を庇うようなもので、手の早い相手役俳優が共演者へ手を出し、複数人の被害者が泣き寝入りしてきたことを詳細に語っていた。


(撮影は再開されたが、愛知桔梗はラブシーンを拒否。手を引っ叩いたシーンをそのまま使用し、別々の道を歩んでいく光景が描かれる予定……)


 問題が起きた撮影中のドラマは、脚本を大幅に変更して桔梗と相手役のラブシーンを大幅カットした上で、現在も収録を続けているらしい。


「ドラマの脚本を大幅に変更したと記載があるな……大丈夫なのか」

『脚本家としては問題しかないでしょうね。描き終えていた最終話までの脚本はすべてボツ。残り2話で新キャラクターを登場させて、初回放送から積み重ねてきた感動シーンが台無しになったのだから』


 この記事を見れば、誰だって現場の状況が地獄としか言い表しようのない状況であることは明らかだ。

 焔華は桔梗の現状を心配する氷室へ、電話越しに含みのある声で話しかける。


『いいことはあったわよ。純愛と称して無難にまとめたお涙頂戴の感動ストーリーよりも破天荒で刺激的なものである方が受け入れやすい。批判は免れないでしょうね。被害女優が桔梗の味方をすればあまり大きな声で批判されることはないもの』


 どうやら、すべて焔華が想像する範囲内に収まったらしい。

 さすがは敏腕プロデューサーだ。

 素人からしてみれば細かな調整がどの程度必要だったのかなどよくわからないが、関係各所に謝罪をして、桔梗が全面的に正しいことを証明するための記事を週刊誌記者に書かせるのは、並大抵のことではない。


(週刊誌記者が味方になれば、これほど心強いことはないな……)


 週刊誌記者といえば、弱みに付け込み地獄の果まで追いかけ回すイメージしかない氷室は感心していた。

 あとは桔梗が芸能活動を一時的に休止するなり引退するなりした際に、暴露記事が掲載されないことを願うだけである。


『芸能界から足を洗うつもりなら、結婚を発表するタイミングでするべきだったでしょうね』

「そうだな」

『やる気のないあの子に無理矢理芸能活動をさせるくらいなら、さっさとやめさせた方がいいんじゃないの?なんで受け入れてあげないんだか……理解に苦しむわ』


 焔華は桔梗に芸能人として輝き続けて欲しいと勘違いしていた氷室は、こちらを非難するような言葉を紡がれ眉を顰める。


 問題が起きれば、いつだって氷室は悪者だ。


 桔梗のためを思うなら。

 どんなに苦しいことがあっても、輝き続ける姿を応援し続けることこそが、氷室のしてやれる唯一のことではないのだろうか?


「甘やかしてやるべきだったか」

『あのね。あんたは桔梗の旦那でしょうが。妻にとって、旦那が一番の理解者でなかったらどうするのよ。それこそ結婚した意味がない』


 氷室はあんたに桔梗を任せたのが間違いだったと焔華から告げられるのではないかと警戒したが、彼女が恨み言をぶつけてくることはなかった。

 直接口に出さずとも、そうした意図が言葉の節々に込められているのは間違えようのない事実だ。


(今更手のひらを返して優しい言葉をかけた所で白々しいだけだ)


 病院に入院している間、ずっと一人だった桔梗は天門総合病院の事件が解決してから吉更や焔華と暮らし始めた。

 全員社会人として忙しい日々を送る3人が共に過ごした時間がどれほどのものなのかは、氷室には計り知れない。


 氷室が沖縄の診療所で働き、桔梗が芸能界を引退するなら。

 桔梗は一日の大半を自宅で一人過ごすことになるだろう。


 氷室と四六時中一緒に居たいと願う桔梗は、共に暮らしたとしても対して一緒にいられない暮らしに耐えられるだろうか。

 芸能界から引退すると一度発表したなら、「こんなはずじゃなかった」と桔梗に泣かれても後戻りなどできないのだ。

 桔梗が芸能界から足を洗うことなど許さないと氷室が強く口にするのは、最終的に桔梗が苦労する姿が目に浮かぶからだった。


『あの子が音を上げるかどうかは、散々確認したことでしょうが。今更何を言っているのよ。あんたが沖縄からこっちに出てくれば、今以上にあの子とすれ違う生活を送ることになる。あの子の幸せを第一に考えるなら、拒む必要なんてないのよ』

「……そうだな」

『あんた、桔梗と同棲したくないだけなんじゃないの?』


 焔華は他に女がいるのではないかと、氷室を疑っているようだ。

 氷室と桔梗は仕事の都合上離れて暮らしているが、書類上はすでに夫婦となっている。

 美月と交際しながら桔梗と浮気した氷室が言えたことではないが、同じ轍を踏むほど氷室も若くはない。

 桔梗以外から求められることは、小さな患者に先生のお嫁さんにしてと、迫られるくらいだろうか。

 桔梗を幸せにする自信がなければ、氷室は婚姻届に判など押さなかっただろう。


「馬鹿言うな。結婚式を予定しているのに、同棲したくないと考える旦那がいるわけ無いだろ」

『結婚式ね……。盛大にやるなら、芸能界からは足を洗った方がいいと思うけど』


 元Imitation Queenのアイドルで結婚を発表し、結婚式まで大々的に執り行ったメンバーは2名だけ。

 どちらもアイドル卒業後、芸能界からも足を洗った上で結婚式を上げている。

 Imitation Queenで真っ先に結婚が報道された絶対的センターは、アイドル卒業と同時に芸能界を引退し、愛する人のものになった。

 伝説のセンターへ右に倣えとばかりに、グループ内では暗黙の了解として語り継がれているようだ。

 彼女は結婚式を挙げなかったが、最近婚姻した元メンバーの結婚式では、余興として交流のあるメンバーが毎回1曲披露しているらしい。

 参列者の中には週刊文冬の記者がいて、独占記事を書かせる代わりにメンバーのゴシップ記事大々的に掲載しないよう、裏取引がなされていると聞くから驚きだ。

 桔梗は3か月後に控えた結婚式で、旦那と幸せな生活を送る元メンバー達や焔華から祝福される日を心待ちにしていた。

 もしも桔梗が芸能界から足を洗わずに結婚式を上げれば、元Imitation Queenとしてはじめての例となるだろう。


「伝統が途切れるからか」

『伝統なんてないけど』

「婚姻したメンバーは、芸能界を引退してから式を挙げているはずだ」

花恋(かれん)椿(つばき)はそうね。別に、結婚式がしたいから芸能界を引退したわけではないのよ。芸能界に未練がなかっただけ』


 愛する人と添い遂げる権利を得た女は、気味が悪いオタクに愛敬を振りまく理由など金くらいしかない。

 焔華は元アイドルとして、ファンが聞いたら卒倒しそうな持論を赤裸々に語る。

 氷室は焔華のファンでもなんでもないため、ショックを受けるようなことはないが……。

 アイドルにとってファンとは、やはりその程度の認識なのかもしれない。


(神奈川焔華が無条件で応援してくれることを感謝していないあたり、金蔓としか認識してないな、これは……)


 桔梗にとって焔華は、尊敬する人であり目標でもある。

 その焔華がファンを金蔓としか考えていないなら、当然桔梗もそうした認識であると考えるべきだろう。

 結婚を発表した直後に芸能界を引退するのは、応援してくれるファンに悪いと思わないのかと氷室が桔梗へ問いかけた所で、お門違いもいい所だ。


(桔梗が泣き叫ぶのも当然だな……)


 桔梗はファンのことなどどうでもいいと考えている可能性が高いのだから、桔梗を突き放すような態度は取るべきではなかったのだろう。


「桔梗にも、未練はないと思うか」

『あたしに聞かなくたって、わかるでしょ。書類上ではとっくの昔に夫婦なんだから。ちゃんと桔梗と話し合いなさい』


 氷室は通話を終える直前、焔華から紡がれた言葉に目を見開いた。


『どんな選択を選んだとしても、カバーできるようにしておくわ』


 焔華はアイドル時代、焔のように炎を燃え上がらせいつも怒鳴り散らしていると有名だったが、彼女も大人になったのだろうか。


(桔梗を大切だと考えていなければ、出てこない言葉だ)


 桔梗が芸能界から足を洗えば、悲しむ大勢の人がいるなど、氷室が考える必要はなかったのだ。

 氷室が次に桔梗と顔を合わせた時には。

 頑なに桔梗の意志を無視して、突き放すような言動をしたと謝罪し、望む通りの言葉を掛けてやればいい。


(どうせ、口にするなら)


 最初から、桔梗を優しく包み込んでやるべきだった。

 氷室は焔華と通話を終え、スマートフォンを握りしめる。


(俺はいつだって後悔ばかりだ……)


 もう遅い、もう遅いと。


 何度後悔すれば、学習するのだろうか。

 2度あることは3度あるとはよく聞くが、もう遅いと後悔するのが5度目を超えるとなれば、学習能力がないと桔梗から思われてもおかしくはない。


(愛する人を失う悲しみは、もう充分味わった)


 美月が行方不明になったからこそ、氷室は桔梗と運命の赤い糸で結ばれた。

 美月で練習できて、よかったと考えるべきだ。


(二度とあのような悲しみを味わうわけにはいかない)


 桔梗を失うようなことがあれば、今度こそ氷室は立ち上がれないだろう。

 愛する妻を失うくらいならば、多少のわがままには目を瞑るべきだ。

 氷室は取り返しのつかなくなる前に自分が悪かったと反省し、桔梗を那覇空港へ迎えに行くと決めた。

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