テレビ電話の約束(桔梗)
24時間365日、氷室と同じ時を過ごしたい。
365日の間、共にいる時間が100日にも満たない期間ならば、夫婦である必要すらもないだろう。
半年間我慢してきたが、桔梗はトラブルに引っ張られるようにして、張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまった。
『無理だと思うから、できないんだろ』
「根性論は嫌い。私ができないと言ったら、できないの!」
『俺が沖縄で暮らすと決めたせいで、桔梗に迷惑を掛けている』
「私が欲しい言葉は、謝罪じゃない!氷室先生ならわかるでしょ……!?」
一緒に暮らそう。
その言葉さえ氷室が桔梗へ伝えれば、桔梗は喜んで身一つで氷室の元へと向かうのに――氷室はどうしても桔梗に芸能人をやめて欲しくないらしい。
どれほど待ち続けても、その言葉は聞こえてこなかった。
『俺たちは、住む世界が違う。最初からわかっていたことだろ。それでもいいから婚姻したいと縋ったのは、桔梗だ』
「私が……悪いの……?」
芸能人をやめたいと大騒ぎしている桔梗が悪いと――責めるような発言を聞いた彼女は、声を上げて泣くのをやめる。
(どうして突き放すような言葉ばかり口にするの?私が他の男と口づけをしたこと、氷室先生も怒っているから……?)
桔梗は茫然としながら、テレビ電話を通じて気持ちを伝える氷室の声を聞く。
『いいか悪いかで判断するなら、どちらでもない。桔梗が抱いている思いは、同じ立場の人間なら誰もが抱く思いだ』
「だったら……!」
『予定していた仕事を、それだけのことを理由に投げ出すべきではない。いくらでも話は聞いてやるから、まずは予定していた仕事を片付けろ』
「それだけのこと……?」
それだけのことだと言われてもおかしくないようなことで、仕事をやめたいと泣き叫ぶ桔梗の方がおかしいのだと理解していても。愛する人から否定されたことがショックで、桔梗は待ち望んでいたはずだった後半の言葉をうまく聞き取れていなかった。
「好きでもない男の人と、妻が口づけを交わしたのよ……?氷室先生はそれだけのことだと、簡単に片付けられるの……?」
『桔梗が率先して誘惑したならば問題だが、相手が無理やり襲って来たのなら、避けようがないだろ。気にする必要があるとは思えない』
「氷室先生は私が……知らない男に言い寄られても、なんとも思わないのね」
『そんなわけあるか。例え話であろうとも不愉快だ』
「……っ!」
桔梗が拳を握りしめようと手を握れば、自信の手の甲に鏡花の手が重なったままであることに気づく。
桔梗は画面を睨みつける氷室から逃れるように視線を彷徨わせ、鏡花を探した。
「鏡花ちゃん」
「はい。わたしは、ここにいます……」
『今、桔梗の隣にいるのが女ではなく男であると考えるだけでも、腸が煮えくり返る』
「だったら……」
「あの……」
桔梗と鏡花が声を出したのはほぼ同時だった。
桔梗は氷室へ再び一緒に居たいと告げるタイミングを失い、気まずくて仕方がないのだろう。
肩身の狭い様子を見せる鏡花の言葉を待つ。
「間に入って……双方の言い分を、まとめてもいいでしょうか……」
『あ、あ……』
思いがけない鏡花の提案に、氷室と桔梗は断る理由などない。
その場に存在しているのに、その場にいない透明人間としか思えない鏡花は、口を開くことで初めて存在感が生まれる。
鏡花はか細い声で、桔梗と氷室の主張を纏め始めた。
「桔梗ちゃんは……芸能人をやめて……お兄さんの所に行きたがっています……。無理矢理唇を奪われた事件により、お仕事にも身が入らない状態でした……。顔色も悪く……落ち込んでいます……」
現状を鏡花の口からまとめ上げられたことにより、桔梗は少しだけ冷静さを取り戻す。
(氷室先生をお兄さんと呼ぶのは、鏡花ちゃんが優しいから……)
氷室はどこからどう見てもおじさんへ片足を突っ込んでいるのに、鏡花が桔梗ちゃんの旦那さんではなくお兄さんと呼び続ける理由は、鏡花が優しいからだ。
桔梗と氷室の仲をこれ以上拗れさせないように、気を使っているのだろう。
鏡花は、氷室側の主張を口にした。
「桔梗ちゃんは……お兄さんが、そちらへ来てほしくないと拒絶しているように聞こえているようですが……予定通りお仕事を全うしたら、桔梗ちゃんを受け入れるとお話していました……」
『帰ってくるなと、口にした覚えはないぞ』
「……はい……。桔梗ちゃんが望まぬ相手と口づけを交わしたことも、怒っていらして……泣き寝入りはよくないと……」
『最大限歩み寄っているつもりだった。不満があるなら、面と向かって顔を合わせた時に話し合えばいいだろ。あと一週間すれば、予定していたスケジュールをこなせるはずだ』
「あと7日も、氷室先生と会えないの……?」
『制作スタッフに余計な恨みを買い、週刊誌に暴かれてはならない秘密まで芋づる式に暴かれたら、共に暮らすどころの話ではなくなるぞ』
「そうかも、しれないけど……」
桔梗はそれでも構わないから氷室に会いたい瞳に涙を潤ませる。
涙に弱い彼も今回ばかりは、桔梗の言い分を無条件で鵜呑みにするのは難しい。
桔梗には、知られてはならない秘密が山程存在するからだ。
鏡花は氷室と桔梗の不穏な会話問いただすようなことはせず、ある提案をした。
「……お兄さん。桔梗ちゃんと面と向かってお話できない代わりに……もう少しだけ、桔梗ちゃんの心が軽くなるようなお願いを、聞いていただけませんか……」
『いいだろう。桔梗、今すぐに会う以外で、俺にしてほしいことは』
「氷室先生に、してほしいこと……」
桔梗はこうして氷室の顔を見て、声を聞くだけでも随分と心が軽くなったことに気づく。
長期休みを取得するためには、毎日適度に割り振っていた仕事を無理矢理偏らせる必要がある。
朝起きて家を出たら、帰宅した頃には風呂に入る気力すらもなくベッドに倒れ込む生活を繰り返していた桔梗は、氷室とまともに話す時間が確保できていなかった。
「毎日、3分だけでもいいから……テレビ電話……してほしい」
『それだけでいいのか』
「好きって囁いて」
『わかった』
「私が氷室先生と面と向かって顔を合わせたら、抱きしめてね。よく頑張ったって、褒めてくれると約束してくれるのなら……頑張って全部、こなす」
桔梗は涙を拭うと、ぷっくりと頬を膨らませ不貞腐れた様子で、渋々もう少しだけ芸能人として予定通りの仕事に取り込むことを氷室へ宣言する。
多少氷室の負担や手間が増えるだけで、実現不可能なお願いではないことを確認した氷室が了承し、この件はどうにか収まった。
『神奈川焔華にも、話を通しておけよ』
なにか言い残した言葉でも、あったのだろうか。
氷室はしばらく画面越しに桔梗の様子を窺っていたが、結局桔梗を心配するような言葉が口から出てくることはなく通話を終えた。
「……焔華さんに、言いづらかったら……。私から、話しても……」
「ありがとう、鏡花ちゃん。大丈夫だよ。ちゃんと私から、全部話す」
鏡花の方が歳上なのに、彼女は恐ろしく影が薄い。
その為何かと年下の桔梗が面倒を見ることの方が多かったので、鏡花がお姉さん風を吹かせて桔梗の面倒を見るのは珍しい光景であった。
「力になれて、よかった……。少しは、恩返し……。お姉さんらしく、振る舞えた、かな……」
「うん。鏡花ちゃんがいなかったら、今もまだ、みっともなく泣き叫んでいたと思う……」
鏡花にお礼を告げた桔梗は、借りはあとでちゃんと返すと約束して、帰路に着いた。




