弱音(桔梗)
氷室から折返しの電話が掛かってきたのは、桔梗が電話をかけてから数時間後のことだった。
『すまない、桔梗。何かあったのか?』
「わたし、もうやめる」
不安そうな氷室の声を電話越しに聞いた桔梗は、はっきりとした強い口調で氷室に向けて言葉を紡いだ。
何をやめるのか。
主語が抜けた言葉でも、ある程度予測はつけられる。
氷室は駄々をこねる子どもを慰めるように、優しい声で桔梗に問いかけた。
『どうしてやめたいと思った』
「……相手役が、約束を破ったから……」
『どのような約束をしたんだ』
「演技で……口づけはしないって約束しているのに……私の合意なく、してきた……」
桔梗は普段の泣き真似ではなく、本物の涙を浮かべて氷室に事実を説明し始める。
氷室に嫌われたらどうしようと思う気持ちにばかり支配され、桔梗の話が要領を得なかっただろうか。
すべてを聞き終え内容を聞き終えた氷室が口にした言葉は、桔梗が求めていた優しく包み込むような言葉ではなく──電話越しに、硬い口調で桔梗へ問いかける。
『神奈川焔華に、事情は話したのか』
「……一方的に、やめるとだけ伝えた……」
『……やめる必要が、どこにある』
「……でも、私……っ。もう、やだ。理不尽なことに耐えてまで、氷室先生と離れて暮らしながら芸能界にしがみつく理由などない。氷室先生と、ずっと一緒がいいの。氷室先生は、私とずっと一緒にいたくないから、辛くて苦しいことも耐えて、離れて暮らし続けろと命じるの……?」
『いいか、桔梗。悪いのはお前ではなく相手の方だ。なぜ何も悪いことをしていない桔梗が、すべてを投げ出して芸能界から逃げ出す必要がある』
「……私だって悪いこと、した……。仕事すっぽかして、氷室先生に会おうとしたもの……」
『だが桔梗は、踏み止まった。まだ東京に居るんだろ』
「それは鏡花ちゃんが……」
桔梗は今すぐにでも沖縄行きの飛行機に飛び乗り、氷室へ会うつもりだったが、スタジオを出る直前になって鏡花に呼び止められたせいで、それが叶わなくなってしまった。
(私が悪いとか、悪くないとかどうでもいい)
桔梗は今すぐにでも芸能人としての活動を終了して、氷室の妻として主婦になりたい。
好きでもない男から演技にかこつけて口づけをされたのはショックだったが、桔梗は結局、芸能界から去る合理的な理由を探していただけなのだ。
『芸能人としての活動をやめたいならやめたらいい』
氷室がただ一言、そう告げたら。桔梗の意志を肯定してくれたら、それだけで構わないのに。
氷室は桔梗が芸能界で活動を続けるため、相手へ罪を償わせるように桔梗へアドバイスしてきている。
『いいか、桔梗。芸能人をやめると決める前に、まずは俺に話したことを神奈川焔華と共有し、相手の男に罰を受けさせろ。一時的なメンタルケアが必要なら、週末を待たずに戻ってきてもいい』
「氷室先生……」
『神奈川焔華は自分の大事な商品であり、妹でもあるお前が加害されたことを許さないはずだ』
「氷室先生は、私とずっと一緒にいたくないの……?」
桔梗の瞳から、ポタポタと涙が零れ落ちた。
氷室なら無条件に桔梗の言葉を受け入れ、優しく慰めてくれると考えていた桔梗は、現実と妄想の境目で迷子の子どもみたいに泣きじゃくる。
(氷室先生、どうして……?)
好きでもない男と、口づけを交わしたせいで。氷室が怒っているのだと認識した桔梗は、共演者の男に憎悪を募らせた。
(あの男のせいで、氷室先生に嫌われた……)
面と向かって話をすれば、氷室は涙を流す桔梗を心配して、抱きしめ返して慰めてくれるはずだったのに。
思い描いていた光景とは程遠い言葉を口にする氷室ではなく、共演者へ恨みを募らせた桔梗は震える手で電話を握りしめながら、必死に気持ちの整理をつけようとする。
(電話だから、うまく意思疎通ができないだけ)
──早く会いたい。
『もう少しだけ、頑張ってみろ』
桔梗はその言葉を口にした所で、氷室から背中を押されるのがわかっているからこそ、その言葉を口にできなかった。
『一緒にいたくなければ、夫婦になどならなかった』
「なら、どうして……?私のこと好きなのに。愛しているなら。一人で頑張れと突き放すの……?」
『セクハラクソ野郎だけが桔梗の唇を奪った挙げ句、このまま芸能界で輝き続けるのが許せないだけだ。どうせやめるつもりなら、罪を償わせてからでも遅くないと思わないか』
「……クソヤローに罪を償わせるまでの間、氷室先生に会えないなら……泣き寝入りでもなんでもいい……今すぐ、会いたいよ……」
『大人のレディは悲しいことがあっても、泣きつくようなことはしないはずだろ』
「今だけは、子ども扱いしてもいいから……」
情緒不安定な桔梗は、自分に都合のいい言葉ばかりを羅列している。
電話越しにため息を聞いた桔梗は、ガタガタと肩を震わせながら氷室の声が聞こえないように耳を塞ぐ。
『桔梗──』
自分に都合のいい言葉ばかりを紡ぎ、氷室から耳障りのいい言葉だけを聞きたい桔梗は、氷室の苦言を呈する言葉を聞いたら耐えられなくなる自信があった。
今すぐに会いたい。
私の話を聞いてほしいと考えていたはずの桔梗が、耳を塞いで氷室の言葉を聞きたくないと考えるのだから、相当彼女の心が弱っている証拠であるのだが──。
音声だけでは、桔梗が今どんな表情で氷室の話を聞いているのか伝わらない。
(もういや)
どうして氷室は、味方をしてくれないのかと。
心の中で荒ぶる本心が、口から飛び出て来そうになるのを必死に抑え込んでいた桔梗は、これ以上氷室の言葉によって傷つくことを恐れて通話を終了しようとした。
「あ、の……!テレビ電話に、してください……!」
耳を塞いでいた桔梗の手が、スマートフォンの画面に映し出された通話終了ボタンをタッチしようとした瞬間。
聞こえるはずのない声が、桔梗の手を拒む。
『誰だ』
「う、宇都宮鏡花と、申します……!桔梗ちゃんに、酷いことを言わないでください……っ」
『酷いことだと?』
「今の桔梗ちゃん、すごく苦しんでいます。今、あなたが……っ。大切な人に否定されたら、壊れてしまいます……!」
桔梗が通話終了ボタンを押そうとしてた手を止めた鏡花は、スピーカーのボタンとテレビ通話ボタンを素早くタッチすると、一生懸命声を張り上げて氷室へ訴えかける。
桔梗と二人きりで話しているつもりだった氷室は、突如現れた鏡花に驚いているようだが、すぐに桔梗へ視線を移す。
画面いっぱいに表示された、涙でぐちゃぐちゃになった表情を見て、氷室ははっと息を呑んだ。
『……俺の、せいだな』
「ひむろせんせい……」
声を押し殺して泣いていた桔梗は、苦しそうに視線を外した氷室の表情を確認した瞬間から、声を上げて泣き始めた。
「氷室先生……っ。私達、やっと夫婦になれたのに……。ずっと離れて暮らすのは辛いよ……!」
この場に鏡花がいることも忘れてわんわん泣き出した桔梗は、普段なら心の奥底に隠しているはずの気持ちをコントロールできずに、これ幸いと気持ちを吐露し始める。
「誰もが羨む地位を捨てて、生涯私の人生を捧げられても背負い切れないって、氷室先生が思っているのもわかっているの……っ」
『……俺が?』
「私はずっと、氷室先生の為に芸能活動を続けてきたの!氷室先生へひと目でもいいから、画面越しに私を見てほしかった!氷室先生に、私を忘れないでほしかったの……っ。ただ、それだけだったのに……!」
『……それは、交際する前までの話だろ』
「そうだよ!私はやめるって伝えたのに、もう少し頑張ってみろ、やめるのはもったいないって説得したのは氷室先生でしょ!?私はたくさんたくさん頑張ったのに!もう限界だって言っているのに、どうしてまだ頑張れと突き放すの……?」
最初のうちは、我慢できた。
大きなトラブルさえなければ、これからも我慢できただろう。
3ヶ月目一杯仕事をして、2週間氷室と過ごす。
多少期間は上下するが、馬車馬のように働いたご褒美に、愛する人と穏やかな時を過ごすのは、桔梗にとって楽しみの一つでもあった。
「私のこと抱きしめてよ……っ。よく頑張ったな、もういいよって……っ。私、いつまで頑張れば……氷室先生と一緒に暮らせるようになるの……?私達は、夫婦なのに……。辛くて苦しいことがあったとき、面と向かって話せない生活をずっと続けることなんて、無理だよ……」
交際している時は耐えられたことも、夫婦となった今になって耐えられなくなったのは、桔梗が欲張りだからなのだろう。
氷室を愛しすぎて、人並みの細やかな幸せだけでは満足できない身体になってしまっていた。




