予定外の口付けと、はやる気持ち(桔梗)
――連続ドラマのラブシーン。
相手役の男との口づけは、リハーサルから本番までは口づけを交わすフリで撮影を行っていた。
編集の都合上、ドラマ撮影を行う際は様々な角度から何度も同じシーンを撮影することが多いのだ。
ラブシーンのラストカット。
相手役の男が桔梗の唇を、フリではなく本当に奪ったと知った瞬間――彼女は自身が演技中であることも忘れ、相手役の俳優へ強烈なビンタをお見舞いして叫んだ。
「最低!私の唇は、氷室先生だけのものなのに……!」
「き、キョウちゃん!?」
カメラが回っている状態で、旦那である氷室の名前を出したことは明らかにマズイ。
氷室の名は、桔梗が彼と再び巡り合う為に情報提供を呼びかけたことにより全国を駆け回っているからだ。
好奇心旺盛なスタッフが彼の名を調べ、桔梗と結びつけた上で週刊誌に情報提供をすれば、桔梗と婚姻した一般男性が白雪氷室であると明らかになり、氷室は診療所で患者の面倒を見るどころではなくなってしまうだろう。
(氷室先生に迷惑を掛けるつもりはないけど……)
桔梗は自分でも、よく理解していた。
たかだか唇を奪われたくらいで、大袈裟だと。
氷室と桔梗は長い時間をかけて夫婦となった。
口づけを交わすよりも先の行為をいつでもできるようになったのだから、唇くらいは他の男にくれてやると、焔華のように割り切るくらいでは女優業など続けられない。
既婚者となった今は、特に。
「このドラマが放送されて。氷室先生が私のことを嫌いになったら……」
けれど桔梗は、どうしても。
氷室を手放すわけには行かないのだ。
このドラマが放送された際、氷室に浮気を疑われたら――桔梗は死んでしまう。
「ち、違うんだ。キョウちゃん。落ち着いて。これは事故で、」
「うるさい!氷室先生の仲が拗れたら、地獄の果まで追いかけ回してやる……!」
「ひっ」
相手役の俳優はまさか、桔梗がこれほど大騒ぎをするとは思わなかったのだろう。
相手役の男は顔に自信があり、共演者キラーとしても有名だった。
たとえ既婚者だろうが関係ない。
共演した女優は全員一夜を共にしたことがあると称しても過言がないほどの女好きが、ここまで大人しくしてこれた方が奇跡と呼べるだろう。
鬼の形相を見た男は、さすがにこの状況で桔梗を口説く気にもなれないのか、床に座り込み頭を下げて謝罪をする。
「ご、ごめんなさい!許してください!」
「あなたの謝罪は受け入れない。残りのカットを撮影するなら、申し訳ないですけど、代役を立ててください。こいつの顔は金輪際ない見たくないので」
「桔梗ちゃん、落ち着いて……」
「ここまでみんなで作り上げてきた作品を、私のわがままとあいつのセクハラで台無しにしたくない。撮影したなら、きちんと責任持って最後まで放送する代わりに、あいつを私に近づけないで」
「愛知さ……」
「後のことは事務所を通してください。どうしてもセクハラ男と共演し続けろと命令するなら、女優業なんてやめてやる」
フリの予定だった口づけを数秒間交わしただけで、主演女優が芸能界を引退するとまで宣言した。
制作スタッフは頭が痛いだろう。
どちらが悪いなど明白だが、桔梗も制作スタッフにとっては、迷惑な出演者であると印象付けられたのは間違いない。
(最悪、最悪、最悪、さいあく……っ!)
桔梗は今まで、必死に努力をしてきた。
自分を悪魔と呼んだ両親。
関わる人間を狂わせ不幸にする悪魔が、芸能界で天使のように光り輝き、人々を幸せにしている姿を目にしたなら――いつかあのときは悪かったねと、両親が謝罪しに来てくれるのではないかと。
桔梗はずっと期待している。
(結局、10年経っても両親は連絡すらよこさず、なんの反応も示さなかったけれど)
桔梗は氷室と結婚した以上、家庭に入り朝から晩まで氷室を待ち続ける主婦として生きるつもりだった。
桔梗が努力して築き上げてきた地位を、捨てるべきではない。
そう氷室に説得されたから。
桔梗は人妻となっても、女優として芸能界の片隅で輝き続けていたが──もう、限界だ。
「焔華さん……っ」
焔華は最近、Imitation Queenのプロデュースに忙しい。
Imitation Queenの1期生で不動のセンター、七色虹花の息子が、兄弟ユニット、invisible kingに加入すると決めたからだ。
正式なデビューはこれからだが、invisible kingをスターダムに押し上げ、Imitation Queenをさらに発展させるため、焔華は昼夜問わず走り回っていた。
『桔梗?この時間はまだ撮影の時間でしょ?迎えなら吉更に……』
「私、引退する」
『……はぁ?』
「もうやだ。私の唇は氷室先生のものなのに……今すぐ氷室先生と会って、消毒してもらわなきゃ……。このあとのスケジュール、全部キャンセルして。氷室先生の所にいる。違約金は全部私の口座から引き落として。ごめんね、忙しいのに。私、もう無理……」
『ちょっと、何言ってんの?あんたは無責任なこと、するような子じゃないでしょうが!』
焔華は考え直せ、今日一日だけは我慢しろと叫んでいるが、桔梗にはこのまま撮影を続ける元気などない。
(CM撮影すっぽかしたら、違約金が凄そう……)
CM撮影以外は、代役を立てても問題なさそうなものばかりだ。
桔梗である必要もなければ、意味もない。
彼女が辞退すれば、我先にと後輩たちが喉から手が出るほど仕事を欲しがっているのだから。
「愛知桔梗です。よろしくお願いします」
「ああ、よかった。焔華からドタキャンの連絡が来て、困っていた所なんだ。体調悪いのに大丈夫?」
「……はい。ご心配をお掛けしました……」
焔華には全部キャンセルしろと言ったが、さすがに数百億円単位のCM撮影を飛ばすわけにはいかないと。
既の所で、桔梗は予定を変更した。
ドラマの撮影はすっぽかしたが、CM撮影だけは気持ちの整理がつかないまま、どうにか撮影を終了する。
(あとはモデル撮影だけ……)
焔華のことだ。
すでに代わりのモデルを手配して、撮影現場へ到着させている頃だろう。
桔梗が予定通り、モデルの現場に向かう必要はない。
「お疲れ様でした……」
「お疲れ様。具合悪そうだけど大丈夫?」
「はい……」
「よく頑張ったね。このあとはゆっくり休んで」
「……はい……」
桔梗はどうでもいい相手と、会話する元気すらなかった。
(氷室先生、氷室せんせい、会いたい。たすけて)
やはり、東京と沖縄は遠すぎる。
お互いすぐに会いたいと思い立っても、すぐに会えないのがもどかしくて――繋がらない電話を何度も鳴らしながら歩く桔梗は、溢れ出る涙を止められなかった。
「ふ……っ、う……」
「き、桔梗ちゃん!?どうしたの!?泣くほど具合が悪い!?」
男性スタッフがぎょっとした目をして桔梗を慰めようとしたが、今の桔梗には逆効果だ。
伸ばされた手を強い力で弾き飛ばした桔梗は、スタッフを涙目で睨みつけた。
「触らないで」
桔梗を心配した人物が女性であれば、こうして再び桔梗が手を上げるようなことはなかっただろう。
まさか心配した手を跳ね除けられた上、睨まれるとは思っていなかった男性スタッフは、思わず両手を上げて無実をアピールした。
まるで痴漢ですと電車内で叫ばれたような男性スタッフの反応を見た桔梗は、涙を拭うと足早にその場を立ち去る。
(今ならまだ、最終便……間に合う……)
桔梗はこのあと撮影予定だったモデル撮影と、むりやり口づけをされた作品とは別のドラマ撮影をすっぽかし、羽田空港から那覇空港行きの飛行機へ搭乗しようと行動に移す。
最終便は比較的空きがあり、事前に予約をしなくとも受付時間内に滑り込みさえすればどうとでもなることを知っていたからだ。
(はやく、早く。はやく、速く……)
スタジオの廊下を歩いていた桔梗は、やがて早足になると駆け出した。




