獄中手記
(7つの大罪、か……)
桔梗はキングサイズのベッドに横たわり、氷室と離れないようにしっかりと抱きついている。
彼女の寝顔を慈しむように見つめた氷室は、起こさないよう気遣いながら優しく桔梗の腕を引き剥がすと、ベッドからゆっくりと抜け出た。
(桔梗には悪いが……)
たった数分傍を離れるくらいならば、いくらでも言い訳は利くだろう。
眠る桔梗を残して部屋を出た氷室は、廊下を経由して鈴瑚の部屋へ向かった。
――12月31日、深夜3時。
良い子は眠っている時間だ。
職業柄昼夜逆転生活をもろともしない鈴瑚は、部屋のドアをノックした氷室へ勝手に入るように声だけで指示をした。
「あら、お兄様。新婚早々、真夜中に妹の部屋へ押しかけてくるとは……穏やかではありませんね」
部屋に姿を見せた氷室を目視で確認した鈴瑚は、氷室を茶化す。
美月が戸籍上の義姉となることを望んでいた鈴瑚は、戸籍上の姉妹が義姉ではなく年齢だけで考えるならば義妹になってしまった件については、どうにか折り合いをつけたらしい。
『年下のお義姉様も、悪くはありません』
機嫌が良さそうであることを確認した氷室は、鈴瑚の部屋を訪ねた理由を説明する為に口を開いた。
「天門の獄中手記。参考資料として購入していただろ」
「珍しいものをご所望ですね。獄中では模範囚として、大きなトラブルを起こすことなく生活していても、反省の色が一切見られない男の手記など読むだけ時間の無駄であると話していたのは、私の思い違いでしょうか」
院長が熱心に事件を追っていたルポライターの力を借りて、獄中手記を出版してから5年近い時が過ぎた。
鈴瑚は一言一句違わず、その本が出版された当時に氷室が口にした言葉を再現すると、本棚の一部を指出して自分で該当の本を探すように氷室へ指示する。
氷室は指し示された本棚の一部に目を向けると、目当ての本を手に取った。
「今更、その本をお読みになった所で……。何も変わりませんよ」
「そうだな。何かを変化させるつもりなど、俺にはない」
「ならばなぜ」
「……桔梗から、気がかりな話を聞いた」
鈴瑚に問いかければ、すぐにでも答えは出てくるだろう。
けれど氷室は、鈴瑚に直接話を聞く気になれなかった。
これは夫婦の問題だ。
桔梗がどのような状況に置かれていたかについて、自分の目で確認する必要がある。
(鈴瑚は不必要な情報を省くからな……)
パソコンの画面から氷室に目線を移した鈴瑚は、桔梗がどんな話をしていたのか気になるようだ。
「明日、また返しに来る」
包み隠さず、全てを打ち明けろと目で訴えかけて来る鈴瑚の目線から逃れるように、氷室は鈴瑚の部屋を後にした。
(置いていかれたと、桔梗が目を覚ましてパニックになるようなことは避けられたようだな……)
音を立てぬように自室に戻った氷室は、桔梗が寝ていることを確認してからゆっくりと布団に潜り込み直し、本を開く。
本を読むならば、仰向けの状態よりも椅子に座った方が読みやすい。
氷室が仰向けで本を読もうとしたのは、桔梗が側にいることを感じたかったからだ。
(触れられる距離に、桔梗がいる)
氷室はあまり自分から桔梗へ触れることはないが、表に出てこないように大人として自制しているだけであって、そうした欲求がないわけではない。
自らの欲望を隠すことなく、堂々と求める桔梗と同じように氷室が彼女を求めれば、見境がなくなり離れがたくなってしまうことを恐れているのだ。
彼氏彼女から夫婦となった2人の薬指に結ばれた運命の赤い糸は、より強固になった。
(あとは、どちらかの生活環境をガラリと変え……共に暮らすことさえできれば……)
桔梗は24時間365日氷室の側にいることを望んでいるが、生きていくには金が必要だ。
桔梗が主婦となれば、1週間のうち5日間は、24時間中10時間程度仕事の都合上傍を離れることにはなるが……。共に暮らすようになれば、それ以外の時間は常に桔梗と一緒に居られる。
こうして、どちらかが眠る姿を見つめて愛おしいなど、感じる必要はなくなるのだ。
それは氷室にとっても、願ってもない話だった。
『加害者を悪魔の子、被害者を天使の子など区分するなど、とんでもない話だ。私にとって天使とは、我が娘である天門紗雪ただ一人。天使の子など呼ばれる練習台こそが、悪魔の子と呼ばれるに相応しい人間なのである』
院長は手記の中で、確かに桔梗が氷室に告げた言葉と似たような話をしていた。
天使の子が悪魔の子として呼ばれるに相応しい人間であること。
7つの大罪になぞらえ、罪を犯す前に練習台として利用しようとしたこと。
今すぐに表面化することはないが、いずれ必ず、天使の子達が持つ異常性は露呈し……院長の言葉は正しかったのだと、世間が震撼することになる。
(正路直道が天使の子であると報道され、この手記が掘り起こされたなら荒れるだろうな)
7つの大罪になぞらえ、院長が集めた子どもたちは1108号室の少年と桔梗を含めた7人だ。
天使の子と称され報道されている子どもたちは、桔梗を除いた6人だけ。
かねてより桔梗の存在は抹消されて残る1人は誰なのかと騒がれてはいたが、直道の事件をきっかけに最後の一人が桔梗であると露呈することも、覚悟しなければならないだろう。
(ここまで隠し通したのならば、この秘密は墓まで持っていくべきだ)
天門総合病院臓器売買事件の名が世界に轟いてから、10年近い時が過ぎた。
院長の自供を鵜呑みにするならば、最初の違法な臓器売買が人知れず行われてから20年の時が過ぎたことになる。
比較的軽い罪で無期懲役の判決を受けたのなら、10年服役すれば仮釈放される場合もあるようだ。
重罪なら30年。
今から20年後なら、氷室は50代だ。
(仮釈放されたあいつが、俺に危害を加えて命を落とすようなことがあったとしても、仕方ない年齢ではあるか……)
忘れた頃に襲いかかって来られるのが、一番恐ろしい。
必要以上に怯える必要はないが、もしもの可能性はいつだって念頭に置いておく必要があるだろう。
「……氷室、先生……?」
桔梗に名を呼ばれ、読んでいた本を咄嗟に閉じた氷室は、ゆっくりと開いた彼女の瞳と目を合わせる。
深い眠りから目覚めたばかりの桔梗は、氷室が読んでいる本の背表紙を確認すると、本に手を伸ばした。
「それ……」
「気にするな」
「……私が……あのときのこと……お話、したから……?」
「桔梗のせいではない」
「でも……」
「眠いだろ」
「……氷室先生も、本を読むのはやめて……一緒に寝てくれる……?」
「ああ」
氷室は枕の下に本を閉じると、離れぬように腰へ手を回した桔梗と自身の手を絡め、彼女の潤んだ瞳を見下ろした。
「氷室先生の手……ゴツゴツしていて……大きい……」
「桔梗の手は小さいな。力を込めれば、折れそうなほどに」
「誰かに邪魔をされたとしても……繋いだこの手だけは……離さない……」
桔梗は寝ぼけているのだろうか。
不穏な言葉を紡ぐと、ゆっくり目を閉じた。
(二度寝するか……)
氷室は桔梗と繋いだ手のぬくもりを感じながら、思いを馳せる。
正月休みが終われば、氷室と桔梗は東京と沖縄に別れ生活することになるだろう。
桔梗にはまだ、予定している仕事が残っている。
やりようによっては予定しているスケジュールを全うした上で引退を発表することも不可能ではないだろうが、年末年始で関係各所が身動きの取れない状況で一方的に宣言をするのは、急に芸能界を引退しなければならない後ろめたいことがあるのかと勘繰られ墓穴を掘りかねない。
桔梗が芸能界を引退するタイミングは、今ではないのだ。
当たり前が当たり前でなくなる瞬間は、すぐそこまで来ている。
氷室は桔梗と一緒に居られる貴重な時間を彼女のために使おうと改めて決意し、深い眠りへ身を落としたのだった。




