紗雪の後悔と婚姻届け
「正路直道の名を俺に告げなかったのは、あいつが未成年だったからか」
「はい……彼の大切な人から臓器を受け継いだ子ども達と、わたしが犠牲になることで……彼の未来が守られるのならば……。彼に命を、差し出すことこそが……わたしの贖罪であると考えていました……」
直道に銃を突き付けられた際に、紗雪は命を差し出すことなど難しいと突っぱねていたはずだ。頭の中ではそう考えていたとしても。いざ直道と対面したら、死にたくないと口から心に秘めるべき言葉が飛び出てしまったのだろうか。
(天門紗雪は美月に助けられ、生きると決めた)
死ぬべきだと考えていたのは、過去の話だ。
氷室に助けを求めてから生きると決めても、彼女は氷室へヒントを与えることはしても、変わらず犯人が誰であるかについては口を噤んでいた。
「美月先生に命を助けられたわたしが……銃で撃たれたとき……死に絶えていたのならば……。そう思うと……わたしの口からは、彼の名を口にすることはできなかったのです……」
死ぬべきだと考えているのに生きることを決め――紗雪が生きていく上で、彼が何らかの罰を受けることなく日常生活を送ることが難しいと理解していながらも、氷室へ直道の名を告げなかった。
矛盾した紗雪の行動は、けして褒められたものではないだろう。
「余計なことをしたか」
「いえ……。白雪先生が、彼に辿り着いてくださったからこそ……心臓を移植された少女の命が散ることなく……守られたのです……。これからも、彼女は……輝かしい未来を、歩んでいくのでしょう……」
紗雪は氷室の行動を非難する権利はないと、静かに語る。
それが本心であるかどうかは、顔見知り程度の関係では判断のつけようがない。
紗雪を心配そうに見つめる古賀と目を合わせることなく、視線をゆっくりと背を向ける桔梗へ向けた彼女は、直道との会話を思い出して小さな声で呟く。
「キョウちゃんが……少女の中で……生きていると告げた時……。わたしも、彼と同じであることに気付かされました……」
紗雪と1108号室の少年から臓器移植を受けた者たちが死ねば、彼の復讐は完了する。
被害を最小限に抑えられるには必要な犠牲だと考えていた紗雪は、悪魔の子を殺害しようとした。
紗雪は直接手を下そうとしてはいないが、直道の歩む道がこれ以上歪まぬように、臓器移植を受けた5人の子たちと自身の命を犠牲にしようとしたのだ。
「わたしは、美月先生に助けられ……一人だけ安全な場所で……悪魔の子を救うことなく、見殺しにしたのです……」
それはけして、許されるべきことではない。
紗雪は悪魔の子を統括する立場にある。
本来であれば、悪魔の子を守るために率先して先頭に立つべき人間だ。
美月が紗雪を救ったことで、悪魔の子と一時的に連絡を断った彼女は、その役割を放棄した。
次々に亡くなる悪魔の子達の報道を見て、仕方ないと言い聞かせては、目を背け続けた結果──5人中4人が亡くなってしまったのだと、紗雪は認識しているようだ。
「移植手術を受けた悪魔の子達には……父が殺害した被害者達の臓器が提供されています……。被害者達は、悪魔の子達の中で生きている……。とても大切なことが、わたしの頭から抜け落ちていました……」
桔梗が直道に告げることがなければ、紗雪はその事実から目を背け続けていたのだろう。
1108号室の少年から臓器を受け取った5人のうち、4人の人物が亡くなった。
1108号室の少年、直道が殺害した4人の人間、練習と称して天門総合病院の院長が殺害した被害者たちの命は、どんなに悔やんだ所で元には戻らない。
「わたしは……彼らを死に追いやった……罰を受ける必要があるでしょう……」
直接手を下すことはなくとも、紗雪のせいで数え切れないほどの人々が亡くなったのだ。
彼女はこれから、一生を掛けて償っていくのだと氷室に誓った。
「……あまり気負うな」
「わたしのちっぽけな命では……生きてる間にすべての罪を贖い続けることなど、不可能であることは……理解しています。償い切れなかった分は……地獄で、永遠の苦しみを、味わうことになるでしょう……」
紗雪の言葉を聞いた氷室は、眉を顰める。
(天使と悪魔の次は、死後の世界かよ)
氷室は天使や悪魔の存在を信じていなければ、人間に死後の世界があるなど考えたこともなかった。天門紗雪が病弱な少女でなければ。
天門総合病院の娘として生まれていなければ──臓器売買事件は起きることなく、正路直道が犯罪を犯すこともなかった。
たった一人の人間が存在しているだけで、数え切れない人々の人生に多大なる影響を及ぼしたのだ。
よくよく考えてみれば、氷室はとんでもなく恐ろしい存在と会話をしている。
(天門紗雪が悪いわけではない)
あまり気負うな。
それ以外の言葉を掛けるなら。
どんな言葉を掛けたらいいのか考えることを放棄した氷室は、当たり障りのない言葉で紗雪を慰めることにした。
「俺は死後の世界があるとは信じていない」
「……そう、ですね……」
「もし、天と地2つに別れた死後の世界があるとするならば。折笠の行き着く先は、天国以外考えられない」
「……ありがとう、ございます」
少しばかり下心のある言葉だっただろうか。
氷室は少しだけ反省すると、桔梗の座るバーカウンターへ視線を移す。
紗雪以外の女に期待させるような言葉を紡げば、黙っていないはずの桔梗は驚くべきほどに大人しく、オレンジジュースをちびちびと口にしているようだった。
(桔梗にとって、折笠は特別だからなのか……)
理由は不明だが、桔梗に問いかけて面倒なことになっても困る。
氷室は紗雪とこれ以上の対話は不要だと、後のことは古賀と吉更へ任せ、テーブル席から立ち上がり桔梗を呼んだ。
「待たせたな、桔梗」
「待ちくたびれちゃった……」
桔梗はカウンター席から飛び降りると、桔梗の胸に飛び込んできて瞳を閉じる。
(大人しく待っていたご褒美くらいやっても、バチは当たらないだろう)
氷室が頬に触れるだけの口づけすれば、パチリと閉じた瞳を見開いた桔梗は、すぐさま首元に両手を回して唇へ口づけを強請った。
「むぅ。唇がよかったのに……」
「人の目がある場所でするべきでじゃないだろ。TPOをわきまえるのは、大人として当然のことだ」
「身内しかいないのに……」
「ここには、二人きりの時だけにしたい」
氷室は優しく微笑むと、不機嫌そうに頬を膨らませた桔梗の口を人差し指でなぞる。
滅多に見れない氷室の優しげな姿を見れたと機嫌を直した桔梗は、カウンターの上に置いてあった婚姻届けをひらひらと上下に振ると、元気よく言葉を紡いだ。
「二人きりの時、たくさんしてね。約束よ、氷室先生」
「……程々にな」
「はぁい。きーちゃん、さーちゃん!婚姻届、出してから帰るね!」
「マスコミに嗅ぎつけられるなよ」
「私の変装は完璧だもの。公式に発表するまで、隠し通して見せる」
桔梗は笑顔で紗雪と吉更へ別れを告げると、氷室と共に役所へ向かい──婚姻届を提出した。




