自己満足
「桔梗が俺に、してほしくないことはあるか」
「無視されることや、氷室先生とずっと一緒にいられないこと……」
「なら罰は……一週間別居だな」
「その条件を呑めば、私と結婚してくれる?」
「ああ。帰る前に、婚姻届を出しに行こう」
「……今すぐがいい……」
桔梗は氷室の、気が変わるのを恐れている。
悠長に打ち上げをしている間、婚姻届に判を押したことを忘れて、なかったことになどされたくないのだろう。
条件を飲む代わりに、今すぐ婚姻届を出しに行きたいと強請る桔梗を、氷室はなだめる。
店に来てからまだ、5分と経っていない。
吉更は最初からツケ払い目当てで、今すぐ金銭を支払うつもりなどなかったようだが……。
定休日にむりやり店を開けてもらったのだから、しっかりと飲み食いした上で、貸切料金と共にきっちりと金銭をバーのマスターへ支払うべきだ。
「天門……折笠にも、聞きたいことがある。マスターの作った料理を食べて、もう少しだけ大人しくしていろ」
「むぅ。子ども扱いしないで。餌がなくたって、大人しくしていられるもの」
桔梗はバーのマスターから無言で目の前に差し出されたフルーツガレットに目を向けると、ナイフとフォークを使って、不機嫌そうに食べ始めた。
(天門……折笠……)
氷室にとって紗雪は、天門紗雪の印象が強い。
婚姻して姓が変化したのだから、今後は折笠紗雪と呼べと命じられても。どうにもその名が天門紗雪の名を示すものであるなどとは思えなかった。
気を抜くと、当然のように紗雪を天門と呼びかけてしまいそうだ。
氷室は細心の注意を払いながら、2人の世界から無事に抜け出たらしい折笠夫妻が座るテーブル席に移動した。
「現場に来るとは思わなかった」
「驚かせてしまい……申し訳ございません……」
「いや、謝罪の必要はない。俺がこの事件に関わるきっかけを作ったのは、あま……折笠だ。こうなることは、想定しておくべきだった」
紗雪は氷室に助けを求め、よろしくお願いしますと頭を下げた。
(囚われのお姫様ではなかったか……)
紗雪が黙って助けを待つタイプであると考えていた氷室は、まさか古賀と共に現場へやってきて、直接直道に言葉を掛けるとは思わなかったのだ。
古賀が側にいるお陰で、気が大きくなってしまったのだろうか。
元々危険を顧みず行動するようなタイプであったのなら、氷室の見落としだ。
彼女が謝罪をするべきことではないだろう。
納得のいかない様子を見せる紗雪は、膝の上で指を重ね合わせ弄ぶ。
(口にすることが憚られるようなことでも、考えているのか……?)
那須宮は自身の意見を氷室へ告げようとすれば吃るが、紗雪は那須宮とはまた違った雰囲気を持っている。
年がら年中大慌ての那須宮とは多少的に、おだやかでお淑やかな印象を抱くオーラを纏っているのだ。話し方も、どことなくマイペースだった。
「いえ、わたしが……古賀さんの、反対を押し切り……姿を見せたのが……悪いのです……。サラくんが一緒でなければ……。白雪先生と、キョウちゃんを……失う所でした……」
氷室が紗雪の言葉をじっと待っていれば。
長い沈黙の末、彼女は自らの行いを深く反省した様子で淡々と言葉を紡いだ。
その言葉を聞いて、真っ先に反応を示したのは吉更だった。
彼はバーのマスターから提供されたガレットに、はちみつをたっぷり掛けスプーンを使って全体に行き渡らせながら、片手間に会話へ横槍を入れる。
「俺がいなくたって、旦那が居ればどうにでもなっただろ」
「距離もありましたし……。弟様がいらっしゃらなければ、プリンセスの言葉通り、僕がお二人をお守りすることは難しかったと推察致します」
「それでいいのかよ。警察官なのに」
「僕の役割は、プリンセスの安全を確保することですので」
妻である紗雪をプリンセスと呼び、絶対の忠誠を誓うくらいだ。
氷室と桔梗が、大切なもの以外にはさして興味を抱けないように。古賀も紗雪以外の人間には、一切興味関心を抱けないタイプなのだろう。
呆れ顔の吉更がはちみつをたっぷりつけたガレットを一口サイズにカットしてから口に運ぶ姿を確認した氷室は、彼が会話へ割って入ってきたのをいいことに、苦言を呈することにした。
「お前もだぞ、弟」
「何が」
「正当防衛ではあったが、殺人犯に殴り掛かる馬鹿がどこにいる」
「そりゃ、得体のしれない殺人犯だったら喧嘩なんざ売らねえけど。俺、何度かあいつと手合わせしてるし。負けたことねぇもん」
姉は殺人犯に銃口を向け、弟は殺人犯に殴る蹴るの暴行を与えた。
双子の姉弟は、どちらも悪気があったわけではないと開き直るのでたちが悪い。
氷室はどうしたものかと頭を抱えながら、すっかり冷めたコーヒーを口にした。
「絶対に勝つ自信があったから、手を出したのか」
「そうだって言っているだろ。あのまま氷室先生が桔梗を庇ってボコられる姿を見ていた方がよかったのかよ」
「……それが正解だった」
「意味わかんねぇ。氷室先生ってドM?」
吉更は氷室にあらぬ疑いを掛けて来る辺り、どんなに氷室が叱りつけても、その怒りが彼へ伝わることはないのだろう。
(神奈川焔華の名前を出すか……)
吉更は焔華を愛している。
彼女の言葉なら、氷室の言葉を聞いて納得がいかないながらも渋々頷いた桔梗のように。彼も思うことがあれども、氷室の主張を受け売れるはずだ。
「あの様子を神奈川焔華が見ていれば……俺と似たようなことを口にするはずだ」
「焔華さんはあの場にいなかったし、俺たちが説明しなければ耳に入ることもない。俺は桔梗ほどチョロくねぇから。反省はしねぇよ。俺は正しいことをした」
「正しいことをして、命を落とすようなことになれば本末転倒だ」
「氷室先生だって、若い頃は散々無茶してたんだろ。いいじゃねえか、若気の至りってことで」
「吉更」
「氷室先生は何が不満なわけ?俺と桔梗に怒って、こいつに謝罪させて。もう終わったことだろ」
もう終わったこと。
今度こそ終わったのだと安堵して、油断している隙に危機が迫るようなことなど、あってはならない。
氷室は3度目のもしもに怯えていた。
(一度目、二度目はどうにか事件を解決できた。だが、三度目も……関わっている人間全員が生きて帰る保証はない)
いつ何があってもいいように。
二度目が終わったから、もう危険に巻き込まれることはないと。
気を抜くことがないように、氷室は関わった人物達に言い聞かせたいだけなのだ。
「……俺の自己満足だ」
「言葉が足りねぇんだよ。氷室先生は。何に対しての自己満なわけ」
「またいつか、似たような状況が起きた時。命を落とすかもしれないだろ。俺は後悔したくない。あの時もっとしっかり言い聞かせておけば、と……」
「俺たちが無茶して死ぬの前提で話うを進めるの、相当失礼だよな」
吉更は物怖することなく、一回り年上の氷室へ不快であるとはっきり宣言した。
「俺たちは簡単に死ぬようなタマじゃねぇ。氷室先生は心配しすぎだ。この話はもう終わりにしようぜ。さっきからずっと、なにかいいたそうにしているそいつの話でも、聞いてやれば」
吉更はめんどくさくなったのだろう。
話に割って入ろうとするタイミングを窺う紗雪を気にかけてやれと告げると、肩を竦めて食事に集中する。
「白雪先生は……すごい、ですね……」
「褒められるようなことをした覚えはない」
「……わたしが、中途半端なせいで……。白雪先生には、たくさんご迷惑をお掛けしていまいました……」
「折笠にはまだ、やらなければならない重要なことがあるだろう。どうしても謝罪をしたいならば、それが終わってからにしてくれないか」
「……は、い……」
悪魔の子迫害法律が撤廃されたなら。
紗雪は病気を完治させるため、移植手術を受けることになる。
移植手術は、病状が比較的安定している状態でなければ受けられないのだから、必要以上にストレスを溜め込み、体調を崩すことなどあってはならない。
氷室が紗雪に協力しているのは、彼女が桔梗の大切であるからだ。
氷室自身は命を賭けてまで、紗雪を守ろうとは思わない。
そうした行いは、旦那である古賀が率先してするべきだ。




