もしもの時は?
「本当に、私でいいの?」
「俺は桔梗以外の女と、婚姻するつもりはない」
「私は、あの人を撃ち殺そうとしたのよ」
「……あぁ……」
氷室は紗雪達を連れて、わざわざ場所を移動した理由を思い出す。
桔梗は正路直道の手から離れ、道端に転がった銃を手に取り銃口を向けていた。
相手は殺人犯だ。
なぜそんなことをしたのかと、温厚な氷室が怒鳴りつけてやってもいいと考えていたほど。
危険な行動をした桔梗を妻にするのは、ある意味ではかなりのリスクだろう。
いくつ命があっても足りない。
もしものことがあったらと気が気でないのは、美月と交際していた時とそうかわりはないと気づいた所で。今更、彼女を失うのが怖いからと──桔梗に別れを告げることなど、ありえないのだ。
氷室は彼女が、二度と危険な行いをしないように。
監視も兼ねて、傍で見守っていきたいと考えたからこそ、婚姻すると決めたのだ。
殺人犯に銃口を向けた女と結婚するなど正気ではないと告げられた所で、氷室はだからどうした、としか思えなかった。
「……桔梗が引き金を引くことなく。踏み止まってくれたからこそ、今がある」
「私が引き金を引いていたら。氷室先生は、私のこと嫌いになった?」
「……そうだな」
好き嫌いどうこう以前に、警察官の前で引き金を引けば。殺人犯として彼女は、逮捕されていただろう。
殺人犯となった桔梗と獄中結婚をすることは不可能ではないが、現役の芸能人である桔梗が殺人犯となり、一般男性と獄中結婚したなど報じられたなら。世間を大きく騒がせることになるはずだ。
「私……あのままあの人を、始末するつもりだったの」
「暴かれてはならない秘密でも、握られていたのか」
「……許せなかった」
桔梗はバーのマスターから差し出された、透明なグラスに注がれているぶどうジュースを手に取ると、氷がカラカラと音を立てて揺れる姿をじっと見つめている。
彼女の口から紡がれたのは、心のうちに秘めた醜い感情だった。
「あの子を助けられなかったと氷室先生に謝罪させて、私を脅す手紙を生放送のファンレターに紛れ込ませたこと。そのせいで、氷室先生は体調を崩した……」
「大したことではない」
「大したことだよ!私のことを心配して、ゾンビのような顔色で……ずっと、眠れていなかったんでしょ。那須宮さんから私に連絡してくるほどだもの。何日、徹夜したの」
「仮眠は取っていたからな。徹夜ではないぞ」
「数分目を閉じただけでは、仮眠とは言えない……」
桔梗は瞳の奥底に、メラメラと炎を燃え上がらせた。
こうして氷室が生きて桔梗の前にいるからこそ、この程度の怒りで収まっているのだろうが──桔梗のことが心配すぎて、過労死ラインに到達していたならば。彼女の怒りがこの程度で済むはずもない。氷室は納得いかない様子の桔梗に、苦言を呈した。
「だからって、殺人犯から銃を奪って脅し返すようなことはないだろ」
「氷室先生は、よくやったと。私を褒めてはくれないの……?」
桔梗が銃口を直道に向けたからこそ、事件が早期に解決できたわけではない。
銃口を直道に向けることなどなければ、肝が冷える思いをすることもなく――もっと安全に事態を収束に導けたと考えるのは、平和ボケしすぎているだろうか。
人生、何が起きるかなどわかったものではない。
誰かの行動が一つでも異なれば、桔梗の行動が最善だったと感謝する時が来るかもしれないのだ。
「二度としないでくれ」
「氷室先生が困っているのなら。旦那様をサポートするのが、妻の役目よ」
「桔梗」
「約束はしたくない。氷室先生の為なら、私は命だって……」
「……俺の妻になるなら、命を安売りするようなことを認めるわけはいかないな」
桔梗は危うい。
幼少期、両親から迫害を受けていたせいだろうか。
愛する人を助けるためならば、自分の命など喜んで氷室へ捧げると、身体が勝手に動いてしまうのだ。
美月との違いは、不特定多数か、氷室のみに限定されることだろうか。
(愛する人を失う悲しみが、桔梗には理解できないのかもしれない……)
氷室が桔梗を庇って命を落とせば、桔梗は当然悲しむだろう。
自分が氷室を失いたくないから、命を賭けて守ろうとするのだ。
自分と氷室の立場が逆になった時、同じ思いを抱くのだと、よく理解できていないからこそ──桔梗は、簡単に命を投げ出すような行いをするのではないだろうか。
「私が氷室先生を庇えば、氷室先生は助かるのよ」
「その代わり桔梗は死ぬのならば、意味などない」
「私が何もせず、氷室先生に何かあれば……後悔する」
「それはお互い様だろ。どちらも生きて帰ることこそが、最優先事項だ。いいか、桔梗」
氷室は納得がいかない様子で不貞腐れる桔梗へ言い聞かせる。
片方が死に至れば、残された方は必ず後悔するだろう。
復讐のため犯罪に手を染めた正路直道だって、友人に先立たれたことを後悔してあのような暴挙に出たのだ。
美月は生きていたが──長年置いてけぼりにされた痛みや苦しみを知る氷室の言葉は、桔梗からしてみれば肩代わりできぬほど重い。
「今後再び事件に巻き込まれるようなことがあったとしても。お互いのために、命を賭けるようなことはしないと誓ってくれ。それが、婚姻の条件だ」
「……氷室先生も、私に誓うの?」
「善処する」
事前に誓った所で。
その時になれば身体が勝手に動くのだから、誓う必要などないのかもしれない。
それでも。
桔梗がこの約束を思い出して、いざと言うときに踏み留まることを期待し、氷室は桔梗に約束を迫った。
「むぅ……」
結婚の条件と氷室から提案されたのならば、桔梗はその約束を誓う以外の選択肢がない。
桔梗は氷室の返答に納得がいかないのか、頬を膨らませて黙り込んでしまった。
「もしも、なにかあった時。氷室先生を見殺しにするなど……」
「お互いに、恨みっこなしだ」
「私が目の前で暴漢に襲われたとしても、助けてはくれないの?」
互いに危険なことはしないと約束をしたのならば、桔梗の例え話に氷室はそうだと頷かなくてはならなくなる。
(愛する女が目の前で襲われて居たとしたら。黙っていられるわけがないだろ)
桔梗に約束をさせるためには、何が何でも彼女を納得させる必要があった。
(嘘をつかない範囲で、桔梗を納得させるような回答か……)
氷室は長い間考えた末、重苦しい口を開く。
「仮に、そうしたことが起きたと仮定して……誰もが重火器を所有しているわけではない。命が脅かされる状況ではなければ、見殺しになどするわけがないだろ。必ず助けると誓う」
「暴行現場を止めに入るのはいいけど、凶器を持ち歩いている場合は危ないから駄目……。線引きが難しい」
「そう、難しいことでもないだろ」
桔梗はただ一言、約束を守ると口にすればいいだけだ。
本来であれば、一般人が大きな事件に巻き込まれるなど、一生に一度あるかどうかの話だろう。
事前に話を擦り合わせる必要などないのだが、事前に詳細な打ち合わせを行うことなく、独断で行動した結果があれだ。
桔梗の行動は見ていて、とても危なっかしい。
氷室が鈴瑚の手綱をしっかりと握って情報収集をさせていたように。彼女と婚姻するならば桔梗の手綱をしっかりと握って、管理していく必要があるだろう。
「一度了承したとして。約束を破ったときは……離婚になる……?」
「俺たちが婚姻するのは、愛し合っているからだろう。約束を破った所で、離婚理由にはならない。それなりに罰は受けてもらわなければならないが」
「……たとえばどんな?」
どんな罰を受ける必要があるのかと問いかけられても、氷室は何も決めていなかった。
これから夫婦になるのだから、氷室が罰を一方的に決めるのではなく、桔梗と相談の上決めるべきだろう。
そう考えた氷室は、桔梗へ問いかけることにした。




