桔梗以外愛さないと、誓うから
勢いに任せて、プロポーズに応じてしまった。
桔梗にとっては冗談のつもりで、普段の何気ない会話だっただろうに。
ただの雑談をプロポーズの現場に変えてしまった氷室に、現場へ居合わせた吉更は頭を抱えた。
「氷室先生……それはねぇわ……」
「何言っているの!?氷室先生が、私のプロポーズを引き受けてくれたのに!氷室先生にやっぱり冗談だと撤回させるような発言は許さないから!」
「焔華さんにはタワマンで食事したとき、プロポーズしたってことにしておけよ……」
焔華は交際こそ許可したが、婚姻を許可したわけではないと駄々をこねると氷室は予想している。しかし桔梗の中では、すでに焔華と鈴瑚へ結婚の挨拶を済ませたことになっているらしい。
タイミングがいいことに、保証人の欄へ記載可能な成人済みの他人が4人も集まっているのだ。
桔梗はこの瞬間を逃す手はないと躍起になっているようで、婚姻届にサインを迫った。
「私ね、いつでも氷室先生がその気になってくれた時結婚できるように、鞄へ忍ばせていたの」
「うわ……気持ち悪ぃ……ストーカーかよ……」
「きーちゃん!どうして酷いこと言うの!?彼氏と結婚する為に必要な届け出を、事前に用意しておくことは妻として当然のことだよ!」
「まだ妻じゃねぇし……」
吉更は用意周到な桔梗の様子を見て、ドン引きしている。
(俺なら絶対にこんなやつと結婚したくない……か……)
相手が双子の弟である吉更だからこそ、氷室は桔梗を庇うような発言をしなければ、吉更を攻撃するような言動もしない。
桔梗が吉更に酷いと口にしても、それが本気で嫌がっている言葉ではないと知っているからだ。
吉更だって表向きドン引きこそしているが、双子なのだから焔華に対し似たようなことをしていてもおかしくはない。
(結婚を迫る男と女……気味悪がられずに済むのは、どっちだろうな)
大昔の日本では、プロポーズは男がするものであると相場が決まっていたらしい。
その前提から考えるに、男の鞄から記入済みの婚姻届が出てきたのなら、スマートで素敵な方と喜ばれる可能性がないわけではなかった。
(神奈川焔華が記入済みの婚姻届を弟に差し出されて、喜ぶかどうかは別の問題だが)
焔華が喜ぶとは到底思えない氷室は、どっちもどっちだと結論づけた。
「おい」
「あ、マスターさん!こんにちは!」
「騒ぐなら、中でやれ」
「大丈夫なんすか、俺たちが騒いでも」
「困るのはお前らだ。大人しくしていれば、軽食くらいは作ってやってもいい」
「ほんと?やったー!マスターさんのお料理、美味しいから大好き!」
「お前、ほんと現金なやつだよな……」
地下駐車場からバーの出入りまでやってきて、扉の前で言い争っていた双子を見かねたのだろう。
近隣の迷惑になると、急遽呼び出されて店を開けることになったバーのマスターが、店の中から顔を出す。
桔梗と吉更に苦言を呈した彼は、氷室の存在を認識して会釈をすると、室内に入ってしまった。
「保証人の欄、誰に書いて貰おう……」
「俺とあいつでいいだろ」
「きーちゃん、書いてくれるの?」
「……まぁ……氷室先生との結婚は、反対してねぇし……」
「きーちゃん……!」
「おい、桔梗!くっつくなら氷室先生にしろよ!またうるせーって、マスターに怒られるぞ!?」
一仕事終わっても元気が有り余っている双子は、ああでもないこうでもないと大騒ぎしている。
氷室が元気の有り余る若者たちを横目にバーの店内に身体を滑り込ませれば、すでに紗雪と古賀はテーブル席へ肩を並べて落ち着いていた。
(あの空間だけ、二人の世界が広がっている……)
前を向けば天門夫妻が二人の世界を作り上げ、後ろを向けば双子が口喧嘩をしているこの状況で、正路直道の件を話す気にもなれない。
氷室はひとまずカウンター席に座り、様子を見ることにした。
「酒か茶。どっちにします」
カウンター席に座り、ぼんやりと双子が婚姻届に署名している姿を見守っていた氷室に、バーのマスターがメニュー表を差し出してきた。
はじめてこの店に来たときも、彼と同じようなやり取りをしたことがある。
氷室は迷うことなく眠気覚ましも兼ねてコーヒーを頼めば、メニュー表が下げられた。
桔梗と吉更が突然呼び出した影響もあるのだろう。
バーのマスターはラフな格好でカウンター内で作業をしている。
確かはじめて顔を合わせた際は、スーツに見えるきちんとした服装をしていたはずだ。
氷室とそう年齢が変わらないはずなのに、彼には大人の色気があった。
「氷室先生。マスターにも惚れたの……?」
かったるそうにコーヒーを作るマスターの様子を眺めていれば、真横から桔梗の沈んだ声が聞こえる。
思わず桔梗の姿を映せば、潤んだ瞳で氷室の腕にしがみついて婚姻届をカウンターの上に置いた桔梗と目が合った。
「俺が愛するのは、桔梗だけだ」
「美月先生のこと、長い間愛していたくせに……」
美月の名前を出されると、氷室は口ごもるしかなくなる。
氷室は桔梗に向かって、啖呵を切ったことがあるからだ。
『俺が美月以外の女を愛することはない』
『絶対に、氷室先生を私のものにしてみせる』
氷室は桔梗の涙に絆され、長い間一途に思い続けた美月と関係を精算し──桔梗を選んでいる。
愛しているのは美月だけ、他の女に目移りなどしないと豪語しておきながら、桔梗に心を奪われ、社会的に見れば浮気をした上で結ばれているのだから。
桔梗が氷室の言葉を信じられないと声を上げるのは当然なのだ。
異性ならともかく、同性に惚れたと勘違いされて失望されるのは話が違うだろう。
氷室はどうしたら疑いの眼差しを向けることがなくなるのか、頭をフル回転させて思考した。
「桔梗と交際するようになってからは、桔梗以外のことを愛するはずがない」
「私以外の女を愛しているなら、大問題だよ!氷室先生は、私とこれから婚姻するの。旦那様になるのよ。もし、氷室先生が私以外の女を好きなら……不倫……」
「金輪際、桔梗以外の女を愛することはないと誓う。サイン、すればいいんだな」
「あとでやっぱりやめる、誓いは嘘だったと告げても、簡単には撤回できなくなるのよ。氷室先生は、それでもいいの……?」
「構わない」
覚悟がなければ、結婚しようなど口にはしない。
桔梗は氷室を、どう思っているのだろうか。
同時に複数人の女を愛せるプレイボーイと勘違いしているならば。その思考を正すべく、たっぷりと愛を注ぐ必要があるだろう。




