弟から祝福を受けて、悪い魔女を退治せよ
「よかったね、氷室先生。焔華さん、私達の婚姻を祝福してくれるって!」
焔華と別れを告げた桔梗と氷室は、吉更の運転する車で氷室の実家を目指している。
行きは助手席に座っていた氷室だが、帰りは桔梗も一緒のため、後部座席に並んで座っていた。
氷室のぬくもりを四六時中感じていたい桔梗は、隣に座る氷室の腕に頭をくっつけ、ごきげんな様子で大人しくしている。
桔梗が大人しくしていることをいいことに、氷室は焔華がラスボスとして立ちはだかる可能性を考慮し、頭の中でその様子を思い浮かべた。
『交際は祝福するとは告げたけど、婚姻は祝福してないわよ』
焔華が屁理屈を並べてまで、桔梗との婚姻を認めないと騒ぎ立てることはなさそうな気はするが、どうなるかはその時になってみなければわからない。
(心に留めておくか……)
氷室はもしもの可能性を思い浮かべると、喜ぶ桔梗へ硬い表情で小さく頷いた。
「氷室先生?嬉しくない……?」
「いや、そんなことはないが」
「恋の障害があればあるほど盛り上がるタイプなら、俺が恋の障害になってやってもいいけど」
「きーちゃんが恋の障害になどなったら、私のスマホを取り上げて、氷室先生など大嫌いだと叫び出すから駄目!」
桔梗は吉更が恋の障害になった場合、やけに具体的な例を口にする。
(前科でもあるのか?)
桔梗にだって、初恋の人がいるだろう。桔梗の初恋が氷室である可能性は、かなり低かった。
桔梗が氷室と出会ったのは14歳の時だ。
アイドルを志す幼い少女は顔たちが整っており、歌も上手い。
院内学級に通っていた男子に想いを寄せられていても、気づきもしない鈍感な面もあるが、恋を知らなければ美月から氷室を奪おうとするはずなどないだろう。
「そんな幼稚なことしたって、氷室先生が身を引くとは思えねぇけど……」
「氷室先生は私のことが大好きだから、大嫌いなどと言われたら泣いて別れを了承するはず」
桔梗に期待の眼差しで見つめられてしまった氷室は、黙りこくるしかなかった。
(そうだと伝えたくても、泣いて身を引く自分の姿が想像できない)
桔梗は美月に一方的に別れを告げられた際、柄にもなく泣いていた氷室の姿が印象に残っているのだろう。
当時の氷室は、美月に反論する手段がなかったからこそ。涙を流すようなみっともない反応しかできなかった。
だが、桔梗とならば。
吉更が桔梗に成り代わり、電話で別れを告げるパターンならば、まずはなぜ氷室と別れたがっているのか理由を聞くだろう。
音信不通にならない限り双方納得した状態でなければ、静かに涙を流して桔梗と別れる選択をする必要などない。
「そうかよ。おもしろTシャツバカにされて、桔梗との交際を認めないと大騒ぎされなくてよかったな」
「氷室先生は心配性だから……。勘違いされることも多いけど、焔華さんは、中身を見てくれる優しい人だよ」
「優しい人じゃなきゃ、俺たちが好きになることはなかったよな。頼ることも」
「……うん」
「なのにあいつは、逃した魚は大きいと思いやしねぇ……」
吉更は唇を噛みしめると、誰かを思い浮かべているようだ。ハンドルを握る手に、力が籠もる。
(神奈川焔華にも、色々な事情があるらしいからな……)
彼女は桔梗と吉更の親代わりとして、長年過ごしてきた。
彼女が悲しむようなことがあれば、桔梗も悲しむのだ。桔梗が泣くようなことさえなければ、氷室が彼女と関わる必要はない。
氷室は彼女のメンタルケアを吉更に任せ、深入りするべきではないと目を瞑った。
「そうだ。きーちゃん、焔華さんに許可を貰った時、話に入ってこなかったよね」
「二人揃って文句を言うようなことじゃねぇだろ」
「私と氷室先生の仲、認めてくれる……?」
桔梗は吉更から望みの言葉を引き出すために瞳を潤ませたが、桔梗の涙に弱い氷室ならともかく、吉更にはなんの効果もない。
「ノーコメント」
「きーちゃん、酷い。ちゃんと答えて……っ」
桔梗は氷室の肩に載せていた頭を浮かして前のめりになりと、運転席の後ろをポカポカと叩き始める。
そのしぐさは桔梗だからこそかわいいと思えるものだが、やっていることはタクシー運転手に食って掛かる迷惑な乗客と変わりない。
(相手が気心の知れた相手だからいいけどな……)
酔った勢いでタクシーに乗り込み、吉更にしているようなことをされてはたまらない。
一歩間違えば、傷害事件だ。氷室はポカポカと運転席を叩く桔梗を止めるため、彼女の背後に手を伸ばして胸元へ強引に引き寄せれば――桔梗とよく似た声が、前方から聞こえてくる。
「祝福してなきゃ、車なんざ出してねぇよ」
胸元に引き寄せられた桔梗は、勢い余って氷室の胸にぶつかりながら、勢いよく顔を上げた。
吉更の呟いた言葉が、信じられなかったからだろう。氷室が桔梗を安心させるように小さく頷いてやれば、桔梗は満足そうな笑みを浮かべて大人しくなった。
「さすがはきーちゃん!私の弟!」
「母親の腹から出てきたのが数分遅いだけで姉ちゃんヅラすんなよ。俺たちは、いつだって対等だろ」
「うん!」
成人を迎えても。氷室にとって桔梗と吉更は、よく似た小さな子ども達だ。
微笑ましい姉弟喧嘩を目にした氷室は、この穏やかな日常が毎日続くようにと願った。
「迎えが必要なら、俺か焔華さんに連絡しろよ」
「あ、焔華さんのスケジュール……全然把握してないや……」
「焔華さんが用事ある時は、俺が動けるようにはしてある。あいつの件があるからな」
吉更があいつと呼ぶ人間は、天門紗雪だ。桔梗に伝わっているかまでは分からないが、小さく頷くだけに留めたあたり、桔梗も気づいているだろう。
白雪家の前に車を一時停車させた吉更は、氷室と桔梗を下ろすとドアを閉める。
「悪かったな、タクシー代わりに使って」
「お礼は10倍にして返して貰うんで、いいですよ」
他人行儀な口調に戻った吉更は、ニヤリと笑みを浮かべて走り去った。
「氷室先生のご自宅、すごく大きい。地図アプリで外観を見たことがあったけれど、お金持ちは違うね」
「俺が金持ちなわけではない」
「ええ?お医者様って、年収1000万と聞いたよ」
「総合病院勤務ならな。小さな診療所の給料は、サラリーマンとそうかわりはない」
「むぅ、絶対嘘だ……」
氷室がたとえ1000万稼いでいたとしても、桔梗にとっては年収1000万ぽっちとしか思えないだろう。山ほど出演しているCM、ドラマの出演料だけでも相当稼いでいる。
1年に2度のペースでソロシングルを発売していることもあり、印税収入だけでも遊んで暮らせるだろう。
(今は、金の話より大事な話がある)
氷室が桔梗を伴い自宅へ一歩足を踏み入れた瞬間に、仁王立ちの鈴瑚と目を合わせることになる可能性だって高いのだ。
「……氷室先生?お家に帰るの、嫌だった……?」
「……いや。この家には、魔女が住んでいて……」
「……正義の味方が悪魔を携えたなら、魔女に遅れを取るはずがない」
氷室は妹の鈴瑚を魔女呼ばわりすると、言葉を濁す。
悪ノリに便乗した桔梗は、氷室の腕に纏わりつくと門を開けて引っ張り、敷地内へと誘った。
「私は氷室先生と一緒なら、どんなに悪い魔女が住んでいたとしても倒す自信があるよ」
氷室は自身を、正義の味方だと考えたことはない。
(何度言い聞かせても、桔梗は考えを改める気はないようだ……)
鈴瑚を魔女と称したのは氷室なのだから、このまま話を合わせるしかないだろう。
(正義の味方になりきる気にはなれないが)
悪い魔女を倒さなければならないのは、変えようのない事実だ。氷室はこれから敵陣に乗り込むにしてはやけに機嫌のいい桔梗を侍らせ、8年ぶりに我が家へ足を踏み入れた。
「氷室先生の自宅に悪い魔女が住み着いているのなら、やっつけてあげなくちゃ。氷室先生、どこに行けば魔女に……」
「誰が魔女ですか!」
桔梗は物珍しそうにエントランスを見渡しながら、鈴瑚の姿を探す。
自分が魔女と呼ばれていることに気づいた鈴瑚は、仁王立ちで桔梗を怒鳴りつけた。
(どいつもこいつも……)
焔華といい、鈴瑚といい。仁王立ちが流行っているのだろうか。
目を大きく釣り上げた鈴瑚は、桔梗の姿を頭からつま先まで確認すると、簡単なプロフィールを口にした。
「愛知桔梗、21歳。職業はマルチタレント。双子の弟はスケートボードの講師をしている。日本の歴史に深い名を残す天門総合病院臓器売買事件の被害者候補だったが、その情報は警察内部にすらも箝口令が敷かれており、表に出ることはない」
「悪い魔女は、よく回る口を持っているみたいだね」
「誰が警察内部に箝口令を敷いてやっていると思っているのですか」
「……焔華さん?」
「神奈川焔華に警察内部の情報統制を敷ける権限があるなど、よく言えたものですね。違います」
桔梗は白々しく、焔華さんじゃないなら誰だろうと小首を傾げている。
そのかわいらしい姿にはぐうの音も出ないらしく、わなわなと拳を震わせた鈴瑚は桔梗に向かって胸を張った。




