12月28日 7:08:趣味の悪いTシャツ
氷室は、上半身に重みを感じて目覚めた。
「氷室先生、起きた……?」
当然のように膝上へ腰を下ろし、首元に抱きつき顔色を伺っていた桔梗と顔を合わせた氷室は、とびきりの笑顔と共に紡がれる挨拶に小さく返事を返す。
「おはよう、氷室先生!」
「おはよう、桔梗……」
挨拶を交わしあったことで、氷室が確かに存在するのだと確認した桔梗は、大輪の花が綻ぶような笑顔を見せた。
朝っぱらから、破壊力の大きい桔梗の笑顔を目にするとは思わない。
氷室は目頭を抑えながら、笑顔を直視しないようにさり気なく目を瞑った。
(叫ばれることはなかったが……目に毒だな……)
寝起きの氷室は、頭がまだ回っていない。
この状態で誘惑してきたなら、大した抵抗もせず流されてしまう可能性があった。
(救援要請を送るか?)
情けないなどとは、言ってなどいられない。
氷室には、今日中に倒さなければならない敵が3人もいるのだ。
倒すべき敵の一人に頼るのは忍びないが──背に腹は代えられない。
氷室は身長差を利用して桔梗の手が届かない場所までスマートフォンを高く持ち上げると、ある人物へ救援要請のメッセージを送付した。
「氷室先生。私と会えて、嬉しい?」
「ああ……」
「私もすごく嬉しい。ずっと会いたかった……」
「3か月しか経ってないのに、大げさだな」
「3か月は長いよ。四六時中氷室先生を感じていたいのに……」
桔梗は日数に換算すると90日間もお預けだったと、妙に現実的な数字を氷室へ伝えて来る。
(90日、か……)
指折り数えて待つには、長すぎる時間だ。
(二週間だって、永遠とも思えるほどに長かったからな……)
桔梗はよく我慢したと、褒めてやるべきだろう。
耐えられなくなれば仕事を投げ出し、焔華にすら行き先を告げず氷室の元へやってくる選択肢だって、彼女にはあるのだ。
(仕事をすっぽかし、俺へ会いに来たとして。周りに迷惑を掛けた理由が男に会うためと報道されたら……)
桔梗は、芸能人ではいられなくなるだろう。
桔梗は芸能界から足を洗って一般人になるつもりならば──納得のいく状況でしっかりとファンに向き合い、芸能活動を終えてほしかった。
(衝動的に芸能活動を投げ捨てれば、いつか必ず後悔する)
理想は時限爆弾が爆発する前に、芸能界から思い残すことはないほどやりきって足を洗うことだが……。
(最終的にどうするかは、桔梗が決めることだ)
後悔しないように。
芸能活動を続けてほしいと願う氷室の考えなど、優先する必要はないのだ。
「……会いたかった」
氷室は桔梗のぬくもりを確かめるように、彼女の背中へ手を回す。
抱きしめる以上のことを求められても応じることはできないが、氷室だって愛する人と触れ合いたい。
(俺が嫌がる素振りを見せれば、桔梗はムキになって超えてはいけない一線を越えかねない)
ある人物へ助けを求めている以上、氷室が桔梗の背中に手を回している姿を見れば怒鳴られるかもしれないが、背中に手を回すくらいならば、恋人でなくてもするような些細な触れ合いだ。
きっと許されるはずだと、氷室は桔梗の誘惑に流される。
部屋に飛び込んでくる人物に許してもらえるよう願いながら、寝ぼけている氷室の目が覚めるまで二人は抱きしめ合った。
「氷室先生……」
桔梗が氷室の胸元にすっぽりと収まった状態で瞳を潤ませ、桔梗が氷室を見上げる。どこかでドアが開閉する音がしたのはzそれからすぐのことだ。
ペタペタ、と。
素足で廊下を歩くずっしりと重い足音が聞こえたかと思えば、部屋のドアが勢いよく開け放たれた。
「本当に、油断も隙もねぇな」
「あっ。きーちゃん!」
氷室を潤んだ瞳で見上げていた桔梗は、涙を引っ込めると表情を明るくして、吉更を呼ぶ。
先程の妖艶さは何処へやら。
氷室の首元から両手を離して身体の向きを反転させると、吉更へ明るい声でお礼を告げた。
「きーちゃん!氷室先生をここまで連れて来てくれて、ありがとう!」
「桔梗の為にしたわけじゃねぇし……」
「きーちゃんツンデレ。焔華さんみたい」
「ツンデレじゃねぇから」
桔梗は氷室の胸元を背に、フローリングの上で胡座をかく氷室の膝上に座っている。
桔梗は氷室が逃げられないように、こうして膝上に座ることが多かった。
(桔梗の気が済むまで、動けないな……)
氷室がどこか遠い目をしながら、双子のやり取りを聞いていることに気づいたのだろう。
吉更は気を利かせて、桔梗が氷室の膝上から退く魔法の言葉を口にした。
「朝っぱら元気だな」
「氷室先生が朝起きたら私の部屋で寝てたんだよ。どんなに疲れていても元気になる。氷室先生は、私の栄養剤だもの」
「そうかよ。焔華さんには氷室先生が着ていることを告げてある。さっさと着替えて、焔華さんに交際を認めてもらえ」
「ありがとう、きーちゃん!じゃあ早速着替えて、焔華さんにお願いしなくちゃ」
「おい……っ」
桔梗が氷室の膝上へ乗ったまま、パジャマの裾に手をかけて脱ごうとしたのを慌てて阻止する。桔梗は目を丸くしながら氷室を見上げて、問いかけた。
「私達、これから夫婦になるのに……。着替えている所を見せ合うことくらい、問題ないよ」
「問題しかないからやめろ」
「むぅ……」
氷室に強く言われて頬をむくれさせた桔梗は、先程まで満面の笑みを浮かべていたのが嘘のように、納得がいかないと全身で表している。
氷室は桔梗の腰に手を回してしっかりと固定し、ゆっくりと立ち上がった。
「わ……っ」
突然宙ぶらりんの状態で足をブラブラと揺らす羽目になった桔梗は、氷室と離れたくないと首に手を回してくる。
(このまま引っ付いていたいが……)
吉更の目が黒いうちは、未婚の男女が同じ部屋で着替えを済ませるなど許されないだろう。
桔梗に身体を覆い隠す配慮があれば、この場で生着替えが許されたかもしれないが……。
(願望を思い描いて、どうする)
氷室は桔梗の足がフローリングにつくように屈むと、首元に回った手を引き剥がしに掛かった。
「年末年始が終わるまでは、引っ付く時間はいくらでもあるはずだろ」
「……私、5秒で着替える」
氷室に囁かれた桔梗は真顔で頷くと、首元から手を離して俊敏な動きでクローゼットを漁り始める。
氷室は桔梗がクローゼットを漁る間、氷室は呆れ顔の吉更を伴って、部屋から廊下へ出た。
「氷室先生、着替えないだろ。柄シャツより趣味悪いTシャツとチノパンならあるから、これに着替えて」
「……ああ」
チェックの柄物シャツよりも趣味の悪いTシャツとは一体どんな衣服なのだろうかと疑問に感じながら着替えた氷室は、吉更が趣味悪いTシャツと称した理由をすぐに理解する。
(成人男性が着るようなTシャツでは、ないだろう……)
胸元にデカデカとスケートボードに乗って空を舞うハリネズミがプリントされたTシャツを着た氷室は、とてもじゃないが人前に出られる格好ではないことに絶望していた。
(この格好で、俺は神奈川焔華に愛知桔梗をくれと頭を下げるのか……?)
非常識と罵られてもおかしくない、酷い格好だ。着替えは実家にあるからいいか、と。
手ぶらで東京に戻ってきたら急に自宅へ連れてこられ、吉更に余っているTシャツとチノパンを渡されたのだと説明しても、その話を聞いた人々にも受け入れられるかどうかは怪しい。
(この格好で挨拶するくらいならば、後日スーツでも着てきた方が、よほど好印象だろ……)
問題は、紗雪の事件を解決するための目処が立っていないことだろうか。
この長期休暇中に何がなんでも事件を解決に導くと氷室は決めているが、休暇終わりまで掛かってしまった場合に焔華へ挨拶する時間が取れなくなってしまう。
(1年後に面と向かって顔を合わせて挨拶するのと、第一印象最悪な状態で挨拶するのは……どちらがいいんだ……?)
神奈川焔華の人となりをよく知らない氷室は、深く考え込む羽目になった。
「俺たちにはオーバーサイズでタンスの肥やしになっていたから、氷室先生が消費してくれて助かった」
「買ったのか」
「貰ったんだよ。そのハリネズミ、会社のイメージキャラクターでさ。フリーサイズじゃデカすぎて着れねぇし、デザイン的にも外へ出歩けないだろ」
「俺はこれから、実家に戻るんだが……」
「最悪桔梗に渡した白衣でも羽織って、隠せばいいだろ」
真冬にペラペラの白衣一枚で寒空の下を歩けとは、吉更も随分と鬼畜な言動をするものだ。
この上から白衣を羽織り、町中を歩けば、医者のコスプレをしようと頑張っているようにしか見えないだろう。
最悪の場合は、通報される可能性だってあるのだ。氷室はため息をつくと、吉更へお伺いを立てた。
「この格好で神奈川焔華と顔を合わせて、怒り出したりしないか」
「嫌味くらいは言われるだろうけど、氷室先生に着せる予定で取っておいた服だから。いいんじゃねぇの?怒らせたら、まぁどんまいってことで」
ドンマイですまされないからこそ、氷室は事前に聞いているのだが。
吉更とうまく話が噛み合っていないと感じながら氷室が思案していれば、超特急で着替えを済ませた桔梗が自室から出てきた。




