図らずとも、夜這いと添い寝
「氷室先生」
氷室のことを下の名前に先生と付けて呼ぶ女は、桔梗しか存在しない。
「おい、起きろって」
桔梗は女性にしては低い声で氷室を呼ぶが、男性のように地を這う声を出すことはなかった。
(桔梗は乱暴な言葉遣いはしない……)
まどろむ意識の中でゆっくりと瞼を開けた氷室は、自身の顔を覗き込む吉更と目が合う。
「あ、起きた。氷室先生、いつまで寝てんだよ。着いたぞ」
「……弟の方か……」
氷室は吉更の運転する車に乗り込み雑談をした後、うたた寝をしてしまったらしい。
顔と声、そして口調を頼りに吉更であると認識した氷室は、目元を抑えてからシートベルトを外して助手席から降りる。
まだ半分寝ぼけているようで、足取りは覚束ない。
「俺と氷室先生じゃ、体格差がありすぎて運べないからな。起きてくれて助かった。車の鍵閉めて、氷室先生が干上がっちまったら、俺も殺人犯じゃん。笑えねぇし……」
吉更の呼びかけに答えなければ、氷室は車の中に閉じ込められて、熱中症で死んでいたかもしれないようだ。
ドアの開閉ができない幼児ではあるまいし、外から鍵を掛けられたとしても、目覚めた際に内側から鍵を開けて外に出ればいいだけの話なのだが……氷室は吉更の言葉に突っ込みを入れる気にもならず、自宅まで車で送り届けてくれたお礼を告げ、彼と別れようとした。
「悪かったな。夜遅くまで付き合わせて。助かった。ありがとう……」
「……おい、待てよ。どこ行くんだ?」
「どこって、自宅だ」
「自宅はこっちだろ」
「いや、その方向は……」
「氷室先生の家って、駐車場の右側に母屋があんのか。めちゃくちゃどうでもいいな……」
氷室と吉更の話は噛み合っていない。
動きを止めた氷室は、駐車場横に存在するはずの母屋を見上げたが──そこには、氷室の実家ではない別の家が建っていた。
「俺が氷室先生の自宅を知るはずがないだろ。住所だって、教えて貰ってねぇのに」
桔梗は芸能事務所を通じて、アイドル時代は毎年ライブのチケットを実家へ送付していた。
当然実家の住所は把握しているが、吉更とはそこまでの情報共有はしていなかったらしい。
(双子だからって、秘密を何もかも共有しているわけではないのか……)
氷室は意外に思いながら、回らない頭でぼんやりとどうやって実家へ帰るか考えていた。
「どうせ明日桔梗と会う約束しているなら、泊まって行けよ。二人揃って俺と焔華さんに挨拶するまでは、帰さねえからな」
氷室は車内で自宅の住所を吉更に告げなかったせいで、吉更と桔梗が居候している神奈川焔華の実家へ連れて来られてしまった。
彼女の自宅に訪れるのは二度目だが、一度連れてこられた時は玄関先に顔を出してさっさと駅を目指してその場から立ち去っている。
氷室は胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、時間を確認した。
現在の時刻は深夜の1時。今から駅方向に向かった所で、氷室には足がない。
タクシーで帰るくらいなら、鈴瑚に連絡を入れてからこのまま吉更の言葉に甘えたほうがいいだろう。
「朝っぱらから2連続か……」
「何が2発だって?」
「……いや、なんでもない」
確認しなかった氷室が悪いのだ。神奈川焔華の実家は住宅街。
深夜に押し問答を繰り広げていれば、近所迷惑にもなりかねないだろう。
氷室はお言葉に甘えて、6時間ほど寝床を貸して貰うことになった。
「家主の許可は、取ってあるんだろうな」
「焔華さんには相談済みだから、心配しなくていいぜ。廊下で鉢合わせて、不審者と怒鳴られることはねぇから」
氷室は飄々と告げてくる吉更を疑いの眼差しで見つめる。
吉更の言葉を信じなければ、深夜の割増料金を支払ってタクシーに乗り帰宅しなければならないのだ。
(不法侵入の犯罪者と叫ばれなければ、なんでもいいか……)
桔梗と焔華が帰宅していることを確認した吉更は、2階に上がるように指示をした。
「右奥が焔華さん、手前側が桔梗、左の一部屋は俺が使っている。部屋、間違えるなよ」
「……桔梗の部屋でいいのか?」
「野郎二人で、8畳の部屋に泊まりたいわけ?」
「いや……」
男二人肩を並べて、一つのベッドで率先して寝たいと考える男は少数派だろう。
氷室は焔華と吉更に礼儀を立てろと告げてきたくせに、一つの部屋で男女が眠ることは許可するのかと驚いていた。
「どうせ桔梗も、明日に備えて寝ている頃だろ。無理矢理叩き起こすようなことさえなければ、間違いなど起きない」
桔梗が率先して氷室を誘惑することはあっても、眠っている彼女を叩き起こしてまで氷室が間違いを起こすわけがないと太鼓判を押された。
氷室は吉更に促されるまま、桔梗が暮らしている部屋へゆっくり侵入する。
(案外普通だ……)
アイドル時代のイメージカラーが、桔梗の花になぞらえて紫の彼女は、自分の存在と結びつける為に黒に近い紫色へ髪を染め、常に紫色のアイテムを身に着けている。
徹底して、日常生活に紫色を取り入れていた。
部屋もさぞかし紫色で染まっているのかと思いきや、内部はクリーム色の壁紙に何の変哲もないフローリングで、面白みがない。
(部屋の電気を付ければ、至る所から紫色のグッズが出てくるのか……?)
桔梗がベッドで寝ていることを確認した氷室は、スマートフォンのディスプレイを点灯させて明かり代わりにしている。
長々と桔梗の姿を確認して、起こしてしまっては忍びない。
氷室は壁を背にして一人分座れるスペースを確保すると、フローリングの上に腰を下ろす。
(さて、二度寝するか……)
朝起きたら。
いるはずのない氷室が部屋で寝ていることに気づいた桔梗が、悲鳴を上げなければいい。
(俺が寝ているのをいいことに、襲って来るのとどっちがマシか……)
氷室にとっては後者の方が役得ではあるが、愛を確かめる行為をしている最中に焔華や吉更が部屋にやってくれば、今日一日この家から出られなくなってしまうだろう。
(叫ばれた方がマシだな……)
氷室は余計なことはせずにさっさと焔華と吉更へ挨拶を済ませ、一刻も早く鈴瑚の説得に入りたかった。
(タイムロスが生まれたならば、天門の命が危険に晒される可能性が高まる)
桔梗が生放送で脅迫の手紙を受け取ってしまった以上、長引けばこちらの命だって、危険に晒されかねない状況だ。
(最悪の場合は神奈川焔華にも事情を説明して、勘弁してくれと頭を下げるしかないな……)
早期の事件解決が求められている以上、プライドをかなぐり捨てでも後にしてくれとみっともなくフローリングに頭をこすりつけて懇願するしかない。
人の命が掛かっているのだ。医者は基本プライドが高く、自身の診断が絶対だと考えている。
自分より下の人間に頭を下げるなど、冗談ではない。
例え出世させてやると告げられても嫌がるような人間は、頭を下げれば人の命を助けられると甘い言葉を囁かれても、けして頭を下げることなどないだろう。
(俺が頭を下げるだけで助かる命があるのならば)
氷室は何度だって頭を下げ、大切な人の命を助けようとする。
『目の前に、困っている人を見つけたら。見て見ぬふりをして通り過ぎるなどありえないわ』
困っている人を見つけたら、無条件で手を差し伸べる美月とは違うと吐き捨てたとしても。
愛する人の大切が困っていれば、氷室も見て見ぬふりなどできないのだ。
(なるようにしかならないな)
頭を下げずに済むならば、それに越したことはない。
氷室はある程度の覚悟を胸に、眠りの国へ旅立った。




