白雪氷室の彼女
「──好きだ」
「私は氷室先生を愛しているのに。氷室先生は、私を愛しているとは言ってくれないの?」
桔梗は氷室の「好き」だけでは飽き足らず、愛しているを強要する。
いい年したおっさんが12歳も年下の女を愛している告げるには、それなりの勇気が必要だ。
大人になっても、精神的に未熟な氷室は、桔梗から気色悪いと引かれてしまうことを恐れている。
(取り越し苦労だったか)
桔梗が氷室からの愛を望むのならば、喜ばれることはあってもドン引きされることはないだろう。
「……愛知桔梗を、愛している」
氷室は好きだと告げた際、桔梗の名前を呟いていなかった。
(主語が抜けているのを、気にしているのか?)
誰に恋し、誰を愛しているのかを明確にするために。
氷室は渋々、桔梗へ愛していると告げた。
氷室の言葉を聞いた桔梗は開花間近の蕾が花開くように、普段の桔梗が魅せる満面の笑みとは違った大人っぽい、含みのある優しい笑みを浮かべると、氷室の首元へ飛びついた。
「氷室先生。好き。大好き。愛しているの」
「ああ」
「一度結ばれた運命の赤い糸は、何があっても千切れることはない。死がふたりを分かつまで。ずっと一緒にいて」
「……そう、だな。桔梗が、生涯俺と共に歩み未来を選び取ったのならば──不義理はしない」
終わった関係とはいえ、美月と氷室が双方納得する状態になるまで交際関係を結び続けた挙げ句、桔梗と浮気していた男が不義理はしないと告げた所で、どれほど信憑性があるのだろうか。
氷室がラブシーンの現場を目撃した通行人であれば、間違いなく桔梗へその男はやめろと、後ろ指を指して指摘するだろう。
『氷室の婚姻相手に相応しいのは、美月お姉様です』
氷室がどんなに否定しようとも、意固地になって事実を認めようとしない鈴瑚の意見は恐らく正しい。
12歳も年上の男と交際した所で、桔梗のメリットは金くらいしかないからだ。
悪い女に騙されていると取るか、あんなおっさんのどこがいいのかと疑いの眼差しを向けるかは、どちらの味方になるかで変わるだろう。
(周りにどう思われようとも、構わない)
桔梗と氷室は、お互いが幸せだと感じられたなら、それだけで構わなかった。
「世界中を敵に回しても。氷室先生は、私だけのものだから」
「ああ」
「もう二度と、他の女になど色目を使わないで。余所見したら、一生部屋から出してあげないからね」
氷室は医者として、患者を救う役目がある。
両手足を縛られ、一生部屋から出れなくなってしまえば、職を失うことになるのだが──。
桔梗にとって氷室が医者として誰かを助けることは、それほど重要なことではなかった。
医者としてこのまま氷室が働き続け、桔梗の知らない所で謎の女を引っ掛けてくるくらいならば――主夫として家庭に入って欲しいと考えているのだろう。
桔梗は飛ぶ鳥を落とす勢いで活動する芸能人だ。
芸能人として自分が輝き続けさえすれば、氷室を養うくらい造作もない。
(芸能人はさっさとやめて、主婦になるんじゃなかったのか……?)
桔梗の百八十度異なる言い分に理解が追いつかず苦しんでいれば、桔梗は愛しい人と身も心も結ばれようと、唇を重ね合わせて来た。
愛する人との口づけを待ち望んでいた氷室には、素直に喜べない事情がある。
今いる場所は、外から丸見えなのだ。
(世界中を敵に回しても構わないが……スキャンダルはマズイだろ)
一方的に告げた桔梗の言葉へ了承こそ返したが、氷室との関係を週刊誌にすっぱ抜かれてしまえば、恋愛リアリティショーで紗雪のドナーを見つける算段が頓挫してしまう。
「おい、桔梗」
唇が離れた瞬間に氷室は異を唱えたが、桔梗は構わずもう一度口づけを交わそうとしてくる。
桔梗と口づけを交わし合いたくないわけではないからこそ、氷室はどうやって桔梗の機嫌を損ねることなく口付けを止めさせるか悩んでいた。
あと数ミリ唇が近づけば、もう一度唇が触れ合ってしまう。
これみよがしに避けて、桔梗の機嫌を損ねるのは不本意な氷室が、桔梗の機嫌を損ねてでも抵抗し、彼女を突き飛ばすべきか考えあぐね――手を伸ばした時だった。
──プルルル。
シンプルな着信音が、甘い桔梗との空気を引き裂いたのは。
桔梗の着信音は、けたたましい音で鳴る天国と地獄だったはずだ。
シンプルな着信音を設定しているスマートフォンは、氷室のものに違いない。
氷室は口付けを断る都合のいい理由ができたと、携帯を耳に当てながら、桔梗の胸元を押しやった。
「こら、桔梗」
「……私との口付けよりも、電話が大事なの……?」
「大事なのは桔梗だが、掛け直すのは面倒だろ。するのは構わないが、安全な場所であることを確認してから……」
「あ」
桔梗は氷室に指摘され、やっと自分のいる場所が外から見える場所であること気づいたようだ。
頬を赤らめ恥ずかしそうに肩を揺らす桔梗の頭をポン、と撫でた氷室は、けたたましい音を立てて鳴り続けるスマートフォンを手に取り、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『お兄様!美月お姉様と破局し、わたくしとそう年齢の変わらない、芸能人と婚姻するとことは事実ですか!?』
「……事実だ」
『な……っ。どこの馬の骨かもわからぬ女と、お兄様の婚姻を許せるはずがないでしょう!?美月お姉様からはお兄様の助けになるようお願いをされましたが、お兄様が義理を通さない限りは協力しませんからね!』
鈴瑚は兄である氷室に、義理を通せ」と迫った。
(一体何の義理を通すんだよ……)
氷室が眉を潜めれば、心配そうに桔梗が氷室を見上げた。
「氷室先生?」
『いいですか、お兄様。電話での婚姻報告を、了承するわけには参りません。わたくしに面と向かってこれまでの経緯を報告するまでは、お兄様に協力することなどありませんからね。肝に銘じなさい!』
「はぁ……」
『返事を致しましたね?必ず、わたくしの前に婚姻相手を連れてきなさい!美月お姉さまからお兄様を奪った泥棒猫のご尊顔をじっくり拝見しなければ、わたくしは認めるわけには参りません!』
桔梗の顔を確認するだけなら、テレビでいくらでも見れるはずだ。
わざわざ面と向かって話をする必要などないはずだが、鈴瑚は義理を通さなければ桔梗と氷室の婚姻を認めるわけにはいかないと、電話越しに怒鳴りつけてきた。
氷室は桔梗がステージから転落したライブを観覧して以降、一度も実家へ戻っていない。
(東京か……)
紗雪を銃殺しようとした犯人は、東京で悪魔の子連続殺害事件を起こしている。
彼を警察に突き出す為には、氷室も東京へ顔を出さなければならないだろう。
どちらにせよ東京に戻らなければならないなら、用事がある今こそ、ちょうどいいタイミングだ。
「女の声……思いを通じ合わせて5分と経っていないのに。もう浮気……?」
「妹だ」
「血の繋がりがなければ、妹でも恋愛対象になることはありえるでしょ」
「義理妹ではなく、正真正銘の実妹だから安心しろ」
「氷室先生と同じ産道を通った、妹さん……」
桔梗は表情の抜け落ちた底冷えするような薄暗い瞳で、想像もつかない言葉を呟いた。
(同じ産道を通った?)
実の兄妹ならば、両親が同じであることは当然のことだ。
氷室にとってはそれほど重要視する必要があるとは思えないことも、どうやら桔梗にとっては重要なことらしい。
桔梗の声音は、鈴瑚を羨ましがっているようにも聞こえる声音だった。
「妹が、桔梗に会いたがっている」
「私に?」
「ああ」
氷室はスマートフォンを懐へ仕舞いながら桔梗に鈴瑚の話をしてやる。
美月を姉と慕っていたこと。
氷室と婚姻すると信じて疑って居なかったことを知った桔梗の表情が、どんどんと不機嫌になっていく。
「妹さんと会うのは構わないけれど……」
「……年末年始、纏った休みは取れそうか」
「年末年始?CD大賞に、歌合戦。元旦の生放送に特番と目白押しだから、どうかなぁ……。焔華さんに相談してみないと、わからないかも」
「俺が長期間病院を休めるとすれば、年末年始の時期しかない。天門紗雪の収録が間に合えば、すべての決着をつけたい」
鈴瑚に桔梗との仲を認めさせ、紗雪のパートナーを見つけた上で銃殺しようとしてきた犯人を突き出す。
タイミングを指定した氷室に、桔梗は床に投げ出されたハンドバッグを手繰り寄せ、手帳を取り出すと熱心に紫色のペンを走らせる。
『作戦開始』
誰かに手帳を覗き込まれてもいいようにだろうか。
クリスマスの終わりから、新年開けて5日まで。
矢印の棒線を引っ張った桔梗は、4文字を強調するように先頭へ雪の結晶マークと、最後尾へ桔梗の花弁を象った絵文字を記入してから手帳を閉じた。
「私と氷室先生の無理がない程度に、予定通りことを進められるように頑張るね」
「無理だけはするなよ」
「うん。氷室先生が私を好きで居続けてくれるなら、無理などしないから。安心していいよ」
桔梗は悪魔のような笑みを浮かべると、唇に人差し指を当て氷室を上目遣いで見つめた。
「今日から私は、氷室先生の彼女。全部終わったら、私を白雪桔梗にしてね」
図らずしも逆プロポーズを受けることになった氷室は、態度にこそ出さないよう冷静に努めてはいたが、柄にもなく内心で喜んでいた。
「ああ。わかった」
氷室が桔梗に自ら手を出すのは、美月と正式に破局してからと決めていた。
一度自分から手を出してしまえば、歯止めが聞かなくなりそうで自重していたが──この喜びを、行動で表さなくて、いつ表に出すつもりなのだろう。
考えるよりも先に動いた手が、邪魔な桔梗の髪を一房とっては耳に掛け──氷室は唇を近づけた。
「……やっと氷室先生から、私を求めてくれた」
氷室が触れ合った唇を離せば、瞳を潤ませた桔梗が満面の笑みで満足そうに告げる。
(この先で待ち受ける道は、けして平坦ではないだろう)
──たとえ傷つき、命を落とすことになろうとも。
氷室は桔梗の笑顔を、守り抜くと誓った──




