自称元カノの新しい男
──美月と別れを告げた氷室は、柄にもなく緊張していたことに気づき、肩の力を抜いて深いため息をつく。
(話が拗れることなく、双方納得した状態で別れられたのはよかったのか……)
別れようの一言だけで済む話ならば、1週間も引っ張るような話ではない。
(無駄な時間を過ごしてしまった)
氷室は徐ろに懐へ手を伸ばし、煙草を一本手に取る。
ライターで火をつけ吸い始めた氷室は、空に向かって伸びていく煙を見つめながら思いを馳せた。
(これでやっと、正式に桔梗へ思いを告げられる……)
今日は日曜。診療所は休みだ。美月と正式に別れた氷室は、晴れてフリーとなった。
桔梗が普通の女の子であれば、今すぐに桔梗へ気持ちを伝え、午後からデートに勤しんでいたことだろう。
残念ながら桔梗は芸能人であり、変装していても大っぴらに外を出歩けるタイプではない。
桔梗は特徴的な声を持ち合わせているため、人通りの多い場所では変装していても桔梗であることを隠しきれないのだ。
(外でデートが無理なら……夜まで自宅デートか)
思考を巡らせた氷室は、残された時間をどのように桔梗と過ごすかを考えている。
愛していると告げ思いを確かめ合い、一線を超えるのは性急過ぎるだろう。
美月との破局は問題なく済んだが、氷室と桔梗が結婚まで漕ぎ着けるためには、さらなる高い壁を破壊する必要があるのだ。
責任を取れるかすら怪しい状態では、美月と破局し桔梗と交際するようになった所で、氷室から率先して手を出すわけにはいかないだろう。
(結婚するまでお預けか……)
氷室は煩悩を打ち消すように吸い終わった煙草を足で踏み潰すと、これからの戦いに備えて英気を養う為に。紗雪が暮らしている診療所の休憩室を目指した。
「あれ?しろゆきこおりひつさんじゃね?」
氷室を無茶苦茶な呼び方で呼ぶ男は吉更だけだったはずだが……裏口から休憩室を目指そうとしていた氷室は、スーツ姿の男に声を掛けられた。
美月がボディガードと称していた謎の若い男だ。
「いやー。どもども。面と向かって会話すんのははじめてだよな?長いんで、アニキって呼んでもいいか?」
「はぁ……」
「どもども!んじゃ、アニキ。姐さんとの別れは済んだか?」
明らかに年下の男にタメ口で話しかけられた氷室は、姐さんが誰を示すのかに長い時間が掛かった。
「姐さんのことは、アニキの代わりに俺が責任持って幸せにするんで!大船乗ったつもりで、任せてくれよな!」
「はぁ……」
「さっきから鼻息荒くね?」
「何なんだ、お前は一体……」
「あれ?姐さんから聞いてねぇの?オレはこういうもんだぜ!」
スーツ姿の男は、懐から一枚名刺を取り出した。フルネームと携帯アドレスが記載されたシンプルな名刺だ。
名刺を差し出されたなら、名刺を差し出さなければならないだろう。氷室は懐に手を入れ、名刺を渡した。
「よろしくな!アニキ!」
「……お前とよろしくすることはない」
「姐さんと連絡取り合いたい時だってあんだろ?オレを必ず経由すること!」
「未練がないのに、別れた彼女と連絡を取ろうとは思わないだろう」
「いやー、色々あんだろ?名無組の件とか、チャカ奪って逃げた奴の件とかさぁ?」
男は美月ではなく、天門紗雪の件で連絡先が必要になることもあるだろうと氷室に告げて来る。妹の鈴瑚は情報通だ。
裏社会の人間に話を聞かなくとも、ある程度であれば調べがつくだろう。
「ま、いーや。なんかあったらでいいからさ。気が向いたら連絡してくれ!アニキなら大歓迎だぜ!んじゃーな!」
氷室は受け取った名刺を使うことがないように願いながら、裏庭に停車していた黒のワゴン車に乗って車を動かす男を見送った。
(俺にわざわざ、声を掛ける必要があったのか?)
氷室は長い間車が停車していた裏庭をじっと眺めていたが、考えた所で無駄な時間が過ぎ去るだけだと認識したのだろう。
ため息をついた氷室は、裏口から診療所の内部へ身体を滑り込ませて休憩室を目指す。
「白雪、先生……」
休憩室のドアをノックしてから開け放てば、美月がテーブルの上へ残して行った資料を一足先に確認する紗雪と目が合った。
氷室の名を呼んだ紗雪は、先に資料を読み込み話しておきたい内容があるようだ。
「どうした」
「現役の警察官であると、記載があります……。私は……この方を選ぶべきなのでしょうか……」
手術が成功した後、誰かに命を狙われることなく生きていける保証はない。
自身の身を守るためにも。
紗雪の夫となる男性が鍛えているに越したことはないだろうが、書類上だけで愛する人を決めるのは早計だ。
「撮影中に不測の事態が起きたとき、お前の身を守るボディガードと考えればいい。一般公募はこれからだ。今すぐにその男に決める必要はない」
「……この方は……お仕事で、わたしを守ってくださるのでしょうか……」
「……番組内で聞けばいい」
天門紗雪は、美月と共に東京へ戻らなかった。
体調はだいぶいいようで、今後は診療所ではなく那須宮の自宅で寝泊まりするようになるようだ。
準備が出来次第、恋愛リアリティショーの番組内で恋の相手と生体ドナーの相手を探す手筈となっている。
大型番組の制作は、企画から立ち上げまでどんなに急いでも数ヶ月は掛かるだろう。
紗雪の体調が急変し、準備していたことがすべて水の泡となる可能性だってあるのだ。
国民的アイドルImitation Queenの人気を十年近く維持し続けてきた敏腕プロデューサーの神奈川焔華と、芸能界のありとあらゆるコネを使って有名番組へ出演許可をもぎ取ってきた桔梗の名声により、どこまで無理が通用するか見ものだった。
「番組……」
休憩室のテーブルには、シーグラスが山程積み上げられている。
シーグラスの横にはまとめられた麻紐と工具が置かれており、紗雪はじっと作成途中のアクセサリーを眺めていた。
「……拾ったシーグラスを……すべて加工し終わる前に……お相手が、見つかるといいですね……」
紗雪の言い方は、どこか他人事だった。
氷室は紗雪の言い方に違和感を感じながらも、深く追求することはない。
(自死を選ぶようなことがなければ、どうでもいい)
氷室が紗雪を助けると決めたのは、彼女に何かあれば桔梗が悲しむからだ。
紗雪が健康な身体を手に入れ生き続ければ、桔梗も喜ぶ。
誰もが羨むハッピーエンドは、もうすぐそこだ。
(鈴瑚に桔梗との婚姻を納得させた上で、天門紗雪の愛する人を探す手伝いをしながら、銃殺しようと襲ってきた男を警察へ突き出す)
一介の医者がするべき仕事では明らかにないが、桔梗を幸せにするために必要なことであるならば、やるしかないだろう。
たとえ氷室には手の余る出来事だとしても。
桔梗が氷室へ瞳を潤ませて願うならば、大船に乗ったつもりでいろと桔梗に無責任な言葉を掛けるのも、彼女を幸せにすると決めて美月と縁を切った氷室の役目であると認識していた。
「氷室先生」
美月と決着をちゃんとつけられるか、心配で仕方なかったのだろう。
氷室の部屋で待っているはずの桔梗は、変装することなく診療所の出入り口前に佇んでいる。
「変装はどうした」
氷室が問いかけても、桔梗は答えなかった。瞳を潤ませ涙を流すでも、氷室に笑いかけることすらなく。
桔梗は過去の思い出したくもない話をする際に見せる感情の抜け落ちた表情で氷室をじっと見つめていた。
「おい、桔梗……」
「氷室先生。私のこと、好き?」
美月と正式に別れるまでは待ってくれ、と。氷室が告げた言葉を覚えていたのだろう。
桔梗は今であれば望みの言葉が得られるのではないかと期待して、氷室へ問いかけて来たはずだ。
(ずっと、言いたくても言えなかった)
自室に戻ってから、完全なる二人きりの時口にしようものならば歯止めが聞かなくなってしまうと考えれば、ある意味ではこのタイミングでよかったのかもしれないと氷室は考える。
様子のおかしい桔梗に告げていいかと迷ったのは一瞬のことだ。
氷室は桔梗に問いかけられてから、それほど間を置くことなく──桔梗が望む言葉を口にした。




