かつての婚約指輪を捨て去って(美月)
「浮気、していたの」
「桔梗ちゃんが氷室との関係を浮気だと思うなら、そうなるわ」
「──氷室先生はあなたに対する憧れを恋と勘違いすることで、あなたに依存してきた。8年間も裏切り続けていたことを伝える為に、ここへ来る必要があったとは思えない」
「紗雪ちゃんを安全な場所へ送り届ける必要があるのだから、疑問を抱く必要はないでしょう。ああ、あとそれから。これを、返さなくてはいけなかったのよ」
美月は自身の指に嵌められていた婚約指輪を引き抜くと、手のひらの上へ置き――桔梗へ差し出した。
8年以上前に、将来を誓い合った美月と氷室が購入した婚約指輪だ。
氷室と美月が交際している限り。その指輪は、氷室の薬指に嵌められているはずだった。
(本当は……思い出として、ずっと持っていたかったけれど……)
お互いに新しいパートナーがいるのならば。未練を断ち切るためにも、この指輪は手元にない方がいいだろう。
「氷室先生に自分で返して」
「二度と会うなと言ったのは桔梗ちゃんよ。預かってくれないかしら」
「……どうして私が。美月先生が肌見放さず身につけていたものを、氷室先生に返さなければならないの。絶対に嫌」
桔梗はこの指輪を美月から預かったことにより、氷室の心が美月に囚われてしまうのではないかと恐れているようだった。
美月が別れを告げた手紙を、大切に保管していた氷室だ。指輪を返せば、ことあるごとに指輪へ思いを馳せることになってもおかしくはない。
桔梗は自信がないのだろう。
氷室の心は美月よりも桔梗を求めていることを認められないからこそ、こうして美月に牽制をしてくるのだ。
「それなら、仕方ないわね……」
美月は指輪を一度握りしめると、手のひらをアスファルトの上に向け、指輪を地面に落とす。
指輪がアスファルトの上に叩きつけられカランと音を立てたのを確認すると、ハイヒールで指輪をガツガツと叩き始めた。
「これを拾って氷室に届けるか、このままここにおいておくかは桔梗ちゃんが決めていいわよ。好きにして」
「……無責任な大人の尻拭いをさせられるのは、いつも私……」
桔梗は指輪を足で踏みつけ微笑む美月を憎しみが籠もった瞳で睨みつけた。
(恐ろしい憎悪を、15歳も年下の桔梗へ抱かせてしまったあたしは……なんて罪深い大人なのかしら)
反省した美月は、ここまできたならとことん嫌われ役を買って出ようと氷室の話題を提供してやる。
「氷室は迷子の子どもなのよ。いつだって、道標となる大人を探しているの」
「……だから、何」
「年下の桔梗ちゃんに、氷室の道標となることはできるのかしら」
「……年齢など関係ない。私は氷室先生の望む私になると決めた」
「そう。苦労するわよ」
愛する人に自分を合わせると宣言して見せた桔梗は、愛知桔梗を愛してほしいと思うよりも、白雪氷室に愛される自分になりたいと考えているようだ。
嘘をついてでも、氷室が望む人間になろうとするなど……常人では耐えられない。
(その考えが、いつまで続くのか見ものね)
美月は少しだけ、桔梗のことが心配になってしまった。
「心をすり減らす前に、氷室のことは諦めなさい」
「……私が氷室先生を嫌いになったとしても。美月先生に氷室先生は渡さないから」
「桔梗ちゃんが氷室を諦めたとしても、私のものになることはないわ。言ったでしょう。気になっている人がいると。私はその人と生きていくの。桔梗ちゃんが氷室を諦めるなら──最有力候補は深緑になるわね」
聞き覚えのない人物名が出たせいか、桔梗は眉を顰めて考え込む。
美月は口に出した人物が誰であるかを告げることなく、再び歩き出した。
「氷室先生は誰にも渡さない。何があっても、絶対に」
「氷室の心まで、手に入るといいわね」
「ご心配なく。氷室先生の心は、すでに私のものだから」
本当にそうだろうか?
氷室の心に美月はいない。それは確かだが──美月の代わりに桔梗がなれるかどうかは、また別の問題だ。
桔梗は美月の代わりにはなれない。
氷室が桔梗を美月のかわりとしてではなく──愛知桔梗本人を愛するようになるまでは、長い時間が掛かるだろう。
(あたしにはもう、関係のない話ね)
桔梗とこれ以上話していても意味があるとは思えずその場を後にすれば。
美月のことを心配してくれたのだろう。先程話題に出た深緑が、美月を出迎えてくれる。
「み、美月さん!どうでした……?」
「話がついたわ。もう二度と、氷室とは会わない」
「え……っ!?」
深緑は美月と氷室が添い遂げることを心の底から願ってくれていた。
今回の話し合いも、美月の口から「氷室と結婚することにした」と聞こえてくることを待ち望んでいた深緑にとって、寝耳に水だったことだろう。
「ほ、本当に……?いいんですか……!?美月さんは、し、白雪先生のことが……!」
「私が氷室と婚姻すれば、あなたの大切な彼が傷つくことになるのよ」
「そ、それは……っ」
深緑が愛しているのは氷室ではなく彼であることを知っている美月は、美月のことを心配してくれる深緑に申し訳ないことをしている自覚があった。
美月と氷室が婚姻すれば、深緑は彼に思いを伝えられる。
けれど、彼の心は美月にあった。深緑が告白した所で、深緑の気持ちが彼に受け入れられることなどない。
「重婚できるなら、全て解決できるのだけれど……」
複数の女が一人の男を欲しがった所で、婚姻できるのはたった一人だけ。
恋愛の勝者と敗者が生まれるのは当然のことだと理解していても、誰かの幸せになる権利を踏みにじり、自分が幸せになる権利などないと考える美月はどうにか深緑と彼を、結婚まで導けないかと藻掻いていた。
「わ、私は……。美月さんが幸せになれる道がこの道しかないと言うのなら、文句は言いません……!でも!あの件がなければ美月さんは白雪先生と……っ!」
「それはどうかしら」
深緑には口が裂けても言えないが、美月は氷室に向ける桔梗の異常なまでの愛を間近にすれば、身を引いていただろう。
彼女の異常なまでの氷室に向ける愛は、簡単に真似などできるはずもない。
愛の重さだけで勝敗が決まるのだとしたら、美月に勝ち目はなかった。
「婚姻する前でよかったわ。不倫か浮気なら、浮気の方がマシよ。お互いに」
「美月さんっ、でも……!」
「氷室にとって深緑はすでになくてはならない存在よ。困らせたいと思うほど憎いと思わないなら、今まで通りサポートしてあげて」
「美月さん……!」
深緑は人の気持ちを思いやれる優しい子だ。だからこそ幸せになって欲しいと思う。
氷室の件は片付いた。
氷室が桔梗の愛を受け、これからどうしていくのかは氷室が決めるべきことだ。美月には関係がない。
(あとは深緑と彼の件だけね……)
氷室や桔梗に結婚すると言って置きながら、将来独身を貫いているなどと知られたら氷室が美月に思いを募らせてもおかしくはないだろう。
美月以外の人間が幸せになる為に。
うまくやらなければと、悲しみに暮れている暇のない美月は涙を拭い、颯爽と歩き出した。




