日:愛する人に言えない気持ち(美月)
「美月先生……。ありがとう、ございました……」
――日曜日。
東京へ戻る前に診療所へ顔を出した美月は、お世話になったお礼にと、昨晩拾ってきた茶色のシーグラスで作成されたペンダントを紗雪から受け取った。
休憩室のテーブルに山積みとなったシーグラスは、一つずつ紐で結ばれペンダントとして活用されている。
聞く所によれば、紗雪は美月と桔梗が旅立つ前まで間に合わせる為に、徹夜をしたそうだ。
「身体は大切にしなさい」
病に冒された身体でかなり無理をしていると知った美月は、桔梗に母親のような小言を伝えてから別れを告げた。
(ついに、この時がやってきてしまったのね……)
氷室と過ごした思い出が、走馬灯のように頭の中へと駆け巡っていく。
もっとうまく立ち回り、手段を選ばなければ。桔梗を蹴落とし、氷室の隣で笑っていたのは自分だったのに、と。
そう思うだけで、悔しさが募る。
(しっかりなさい、空島美月)
氷室と8年も離れていれば、すっかり年齢を重ねておばさんになってしまった。
若い頃のように氷室へみっともなく縋り、愛してほしいと口にできないなら。
(立つ鳥跡を濁さずと、よく言うもの……)
美月はすべての言葉を飲み込んで、氷室へ別れを告げるつもりだった。
「美月」
氷室の心に、美月はいない。この一週間で、美月は痛いほどに理解した。
再会など、するべきではなかったと。互いのことは忘れ、それぞれの道を歩んでいく選択を。
もっと早くに選択出来ていたならば──二人の未来は、また違ったものに変化していたかもしれない。
「紗雪ちゃんのお相手候補に仕込む話は、藤井さんが手配してくれている。簡単なプロフィールは印刷して休憩室のテーブルに置いたから、後で確認して」
「ああ。わかった」
重苦しい空気が続く。
美月は氷室が話を切り出してくれやしないかと待っていたが、いつまで経っても言葉が聞こえてこないことに痺れを切らし、ずっと先延ばしにしていた言葉を述べた。
「別れましょうか」
──8年前。
美月が行方不明にさえならなければ、今頃氷室の隣で笑い合っている未来こそが、美月と氷室の正しい未来だっただろう。
美月と氷室が結ばれた後、桔梗と氷室が出会ったとしても。
付け入る隙がないほどに、美月が氷室を骨抜きにさえしておけば、二人の道は別れることなどなかったはずだ。
「……そうだな。それが俺たちにとっての最善だ」
「これからのことは心配しないで。あたしにだって、あたしを愛してくれる人がいるもの。申し訳ないなど思わず、氷室は桔梗ちゃんと幸せに暮せばいいわ」
美月はできるだけ明るい声を出すように努めた。
少しでも気を抜けば。声が震え、泣きそうになってしまう。
(本心ではないことを、本心のように取り繕うのは辛いわね)
氷室がすでに、美月のことなどなんとも思っていないのがひしひしと伝わってくるからこそ、余計に胸が痛いのだ。
「お互い、別々の人と幸せになりましょう」
このまま氷室と一緒にいたら、泣いてしまう。
美月は氷室の答えを待たず、一方的に背を向け歩き出した。
「俺とお前の道が交わる可能性は……もう二度と、ない」
足を止めて、今すぐ好きだと伝えたいのに。
空白の8年間と彼の存在が、氷室へ縋ることを拒んでいる。
(そうね。あたしが一番よく理解している。今すぐ氷室へ縋った所で、手に入るわけがないのだから)
氷室がまだ、美月と桔梗を選びかねていれば――美月にだって、チャンスはあったかもしれない。
「遅かったんだよ。行動すんのが。来世、また同じような出来事が起こるなら……安全が確認できたら、すぐに俺へ連絡してこい」
氷室はその気がない女を、その気にさせる天才だ。
美月が間違えた選択肢を、過去に戻れる機会があれば、正しく選び直せるヒントを与えてくれるのだから。
(大好きだった。愛していた)
氷室の隣にいるべきは美月ではなく自分だと胸を張っていた桔梗を蹴り飛ばし、美月に縋る男をぶん殴って。
氷室に対する気持ちだけを貫き通し、桔梗のように──狂おしいほど氷室を求めることなど、美月にはできなかった。
「そうね。来世があるなら、あたしは氷室との約束を全うするわ」
美月は氷室と結婚するのだと、信じて疑っていなかった。
桔梗と出会うことがなければ、氷室だって同じ気持ちだったはずだ。
全員が今世の記憶を持ったまま、もう一度人生をやり直すことができたなら。
氷室は美月と交わし合った結婚の約束すらせず、桔梗を追い求めるかもしれない。
それでも、美月は構わなかった。
(運命の赤い糸が、桔梗ちゃんに繋がっているのだとしても)
今度は美月が、決められた定めを引き千切り、自らの都合がいいように人生を歩んでいくから──コツコツとハイヒールを響かせた美月は、その場を颯爽と立ち去った。
(氷室と会うのは、これで最後)
問題が起きない限り、もう二度と。
美月は、氷室の前へと姿を現すべきではない。
(最後にしなければ……私は、一生氷室と桔梗ちゃんにとっての邪魔者だわ)
美月の瞳から、はらはらと涙が零れ落ちていく。
一回り近く年下の女に愛する男を奪われただけでも屈辱的なのに。
天門総合病院で勤務していなければ、正義感を振りかざし余計なことをしなければ。氷室は美月のものだったと考えれば考えるほど、悔しくて堪らなかった。
(追いかけてきて、抱きしめなさいよ……)
昔の氷室ならば、背を向ける美月に何故だと問いかけ、抱きしめて来ただろう。
美月に思いが残っていれば、氷室は美月を諦めきれなくて追い縋るはずだと頭では理解していても、心ではまだ現実を理解できていないのかもしれない。
氷室は美月を追いかけてはこなかった。
それこそが氷室の答えだと。
静かに涙を流す美月は、自分が思っていた以上に氷室を愛していたことや、氷室が美月ではなく桔梗を選んだことにショックを受けていた。
「氷室先生だと思った?ごめんね。氷室先生ではなくて」
氷室は別れを告げたあの場から、歩みを進める様子はない。
氷室から自身の背中が見えない場所であることを確認した美月が、曲がり角の壁を背にしゃがみ込む。
息を殺して涙を流す美月に、低い声で声を掛ける女の姿があった。
彼女の名前は愛知桔梗。
美月と同じく、氷室を愛する女だった。
「いい年をした大人がみっともない……」
桔梗は美月を冷たい瞳で見下しながら辛辣な言葉を向けてくる。
「氷室先生の前で泣いたら、どうしてやろうかと思った。氷室先生はは美月先生ではなく私を選んだの。もう二度と、氷室先生の前に現れないで」
桔梗の瞳には、憎しみの色が隠しきれていない。
誰かから感謝をされることはあっても、憎悪を向けられるような機会がなかった美月は、面食らってしまい、絶え間なく流れていたはずの涙が引っ込んでいく。
(……この子は自分が利益を得るためなら、他人を蹴落とせるのね……)
困っている人を見捨てられず、自分を犠牲にしてでも他人の命を助けるために尽力し続けた美月には、誰かを蹴落としてまで自分の利益を追求すると口にはしても最後まで貫き通すようなことはできなかった。
「……私は美月先生が嫌い。氷室先生が好きなくせに、嘘をついたから」
桔梗はどうやら、氷室へ本心を告げた美月と戦い勝利をしたかったようだ。
身長差の関係で見上げるように睨みつけてくる桔梗は、年若い少女ではあるが美月にとって畏怖を抱かせる存在でもある。
(悪魔か、小悪魔か……)
桔梗はアイドル時代に天使と持て囃されていたようだが、美月は絶対嘘だと胸を張って言える。
天使などとんでもない。桔梗はどう見たって悪魔だ。
愛する人を手に入れる為なら、手段を選ばない悪魔。
「あたしを愛してくれる人がいるのは事実よ。年下の彼に迫られて、行方不明の間ずっと一緒に暮らしていたの」
「見え透いた嘘をつくのはやめて」
「嘘ではないわ。彼との写真、見る?今一緒に住んでいる部屋で撮影したのよ」
彼に「氷室と決着をつける上で必要になるから」と言って無理矢理撮影したツーショット写真を桔梗に見せた美月は、涙を拭うと自信満々に微笑んで見せた。
(空島美月は強い女よ。誰にも負けない……)
相手が年下であろうが、なんだろうが……付け入る隙など与えないのが美月の真骨頂だ。
一度口から出た嘘を真実にする為、さらなる嘘をつくことになろうとも。
美月一人の犠牲で全員が幸せになれるのならば、美月は喜んで罪を重ねる。
『俺が好きになった美月は、そんなことを言わない』
たとえ桔梗に嫌われ、氷室に泣かれたとしても……。




