土:水着姿、揺れる
紗雪は一人で診療所を抜け出し、東京に戻る愚行を侵さなかった。
桔梗は紗雪が一人で暴走し、死に急ぐのではないかと心配で堪らなかったらしい。
土曜の夜に水着を服の下から着た状態で診療所に姿を見せた彼女は、紗雪と再会できたことにホッと胸をなで下ろしているようだった。
「海だよ、さーちゃん!」
「そう、だね……」
「美月先生と私、どっちの水着姿が美しいか、さーちゃんも判定して」
「男の人目線と……女性目線だと……判定する場所が異なるような……?」
「問題ないわ。氷室はいやらしい目線であたし達を見てくるようなことはないもの。ねぇ、氷室?」
美月は氷室へ答えづらい質問を、ニヤニヤと笑顔で振ってきた。
そうだと肯定したり、そんなわけ無いだろうと否定しても。
問題にしかならない難しい質問に、氷室は口を真一文字に引き結び無言を貫く。
「からかい過ぎたかしら。物言わぬ貝になってしまったわ」
「今はそれでもいいけど。美月先生と私の水着姿を見た後、答えを放棄するのはナシだから!」
いざ浜辺で水着姿を見せつけられた所で、どちらも違ってどちらもいいとノーコメントを貫く予定だった氷室は、逃げ道を塞がれてしまった。
(やらかしたか……)
水着姿にならないことが確定している紗雪は、美月が前日の夜に那須宮と共に買い物に出かけた際、プレゼントしてもらった純白のワンピースに身を包み、麦わら帽子を被っている。
水着になるのは美月、桔梗、那須宮の3人だ。
必ず桔梗と美月のどちらを選ばなければならないだけ、まだマシかもしれない。
氷室は最悪の場合那須宮を第三の選択肢として指名することも視野に入れ、女性陣を伴い海へと繰り出した。
「さーちゃん!もっと近くまでおいでよ!」
「あまり……近くに行くと……波に飲み込まれてしまうわ……」
「大丈夫!」
桔梗は夜遅くでも元気いっぱいな様子で紗雪と手を繋ぎ、波打ち際まで駆け出した。
大丈夫だと紗雪を根拠のない自信で安心させているが、今回ばかりは紗雪の言い分が正しい。
(桔梗は海の恐ろしさをよく理解していない)
大波が砂浜に押し寄せ、二人をあっという間に飲み込んでしまう危険性だってあるのだ。
水着を着用している桔梗は助かっても、着衣の紗雪に何かあれば、桔梗は自分を責めるだろう。
氷室は桔梗と紗雪に聞こえるように、柄にもなく大声で注意した。
「何があってもいいように、パーカーは脱げ。浮き輪も付けておけよ!」
「はーい!」
桔梗はいい返事をしてパーカーを脱ぎ腰に巻き付けたが、海を眺める紗雪を邪魔したくないのか、一向に浮き輪を取りに来る様子がない。
(俺に持って来いってことか?)
人数分の浮き輪を膨らませていた那須宮は、膨らませ終えた紗雪と桔梗の分を手に持ち、途方にくれていた。
「那須宮、悪いんだが……」
「あっ。はい!で、では……僭越ながら……」
パーカーを脱いだ那須宮は砂浜に足を取られながらも、3つの浮き輪を腕に通しながら駆けて行く。
(結構あるな……)
波打ち際にいる桔梗と紗雪を眺めていれば、嫌でも那須宮の水着姿が視界によぎる。
那須宮が砂浜を全速力で走る姿を見るのは二度目だが、薄着になるとより一層胸元の揺れが強調されていた。
「水着姿など興味はないと言いながら、しっかり堪能しているじゃない」
氷室が那須宮の揺れる胸元へ目が行っていることに気づいたのだろう。
折りたたみ椅子に座っていた美月は、足を組むとパーカーのジッパーをゆっくりと下に下ろした。
パーカーのジッパーをゆっくりと下して水着を見せつけてくるだけなのに、これほど妖艶な空気を纏えるのはある意味で才能だろう。
(一体なんの才能だ)
氷室はうんざりしながら極力美月の水着姿を直視しないように、波打ち際ではしゃぐ3人を見つめていた。
「大中小と、3人揃った姿は圧巻でしょう」
「水着の話はどうでもいい。泳がなくていいのか」
「海なんて、いつでも行けるでしょう」
「ならどうして、着いてきた」
「今日と明日で、彼氏彼女ごっこも終わりよ?桔梗ちゃんの面倒を紗雪ちゃんと深緑が見ているうちに、腹を割って話すべきだと思ったのよ」
桔梗は美月と氷室が二人きりだと分かれば、すぐにでも話に割って入ろうとするだろう。
氷室には腹を割って長時間、美月と話すような時間も無ければ、話題もない。
「勿体ぶらずに本題へ入れ」
氷室は限られた時間を有効活用する為、美月へ続きを促した。
「紗雪ちゃんのことをどうでもいいと思っているはずの氷室が、あれほど強く紗雪ちゃんを引き止めるとは思わなかったわ」
「……俺を血も涙もない悪人であると称するな。不快でしかない」
「あら。実際そうでしょう?氷室の行動原理は、いつだって愛する人のため。深緑だけでは飽き足らず、紗雪ちゃんにも手を出すつもりなのかしら。恋多き男は大変ね」
「ふざけるな。俺が愛しているのは桔梗だけだ。それ以外の女などどうでもいい」
それ以外の女には、当然美月も入っている。
面と向かって、仮にも交際が続いているはずの彼女へ告げるべき言葉ではないだろう。
(……しまった。ついカッとなって……)
売り言葉に買い言葉とばかりに、美月の存在すらも迷惑だと告げてしまったことに驚き、氷室はバツの悪そうな顔をして視線を逸らす。
その様子を確認した美月は、明るい声で告げた。
「やっと、言ったわね。言い淀むことなくはっきりと」
視線を反らしていた氷室は、何事かと言わんばかりにすぐ美月の表情を窺い知ることになるとは思いもしなかったのだろう。
何を言っているのか理解に苦しむ表情で、美月を見つめた。
「迷っていたでしょう。桔梗ちゃんとあたしの、どちらを選ぶべきなのか」
「……俺の心は決まっていた。美月と繋がるはずのない電話が、繋がった時から……」
「そうね。氷室が愛しているのは桔梗ちゃん。未来をともに歩むべき存在として認めたのも。あたしではなく彼女だった……」
「……許されない恋であることは、理解している」
「気にする必要はないけれど。あたしにその気がなくて良かったわね。本気で氷室を手放す気がなければ、今頃泥沼よ」
氷室が桔梗を愛している素振りを見せなければ。
美月は氷室の彼女として、このまま添い遂げる気があったかのような発言をする。
(今更俺を揺さぶって、どうするつもりだ?)
氷室の心はすでに桔梗のものだ。
何があっても、もう一度美月に惚れることはないだろう。
過ぎ去った時へ戻るようなことがない限りは。
「もう、気は済んだのか」
「桔梗ちゃんに負けを認めることはしたくないけれど。氷室にだったら、いいわよ。負けを認めてあげても」
「上から目線だな」
「氷室が二人いれば、よかったのかしら」
自身が二人いた時のことを想像した氷室は、勘弁してくれと頭を抱えた。
(二人いた所で、考え方が同じならば意味がない)
何もかもが美月の都合通りにいくわけがないのだ。
氷室は桔梗を愛し、美月への気持ちがなくなった。
全く同じ思考を抱く二人目の氷室がいた所で、美月を好きになることなどないのだ。
氷室が二人居れば――その願望は、考えるだけ無駄としか思えなかった。




