背徳的な×××
氷室が意識を手放してから、どれほどの時間が経っただろうか。
氷室は自身の身体がずっしりと重くなっていることに気づき、ゆっくりと目を開ける。
「……き、」
氷室の上には、桔梗が乗っていた。
口元に人差し指を当て、声を出すなとジェスチャーしてくる桔梗は、氷室に覆いかぶさった状態で耳元に唇を寄せる。
「私にも、幸せになる権利がある」
氷室が眠りに誘われる前。
桔梗が紗雪に向けて話していたことを思い出した氷室は、声を落として囁いていた言葉がこの話であることに気づく。
右横で寝ている美月と、桔梗が寝ていたスペースを一つ開けた左横で寝ている紗雪に配慮してなのか。
耳元で囁く桔梗の声を聞き漏らさないよう気をつけながら、氷室は耳を澄ませた。
「美月先生とさーちゃんは夢の中……。ドキドキする、絶好のシュチュエーションだよ」
桔梗はぼそぼそと、聞き取りづらい声で氷室に囁く。
口に出すことによって、より興奮したのだろう。
桔梗の声は囁き声と相まって、艶やかに聞こえた。
「美月先生はずるい。氷室先生のことなどなんとも思っていないくせに、氷室先生がその気になれば、いつでも関係を結び直せるから」
桔梗は美月を羨ましがっている。どれほど美月になりたいと願っても、それが叶わぬ願いであると理解しているはずなのに――恋とは恐ろしい感情だ。
(吉更と桔梗の仲は悪くない)
桔梗が美月になれば。きーちゃんと慕う、双子の弟と縁が切れると理解した上での発言ならば――氷室は桔梗に言うことなど何もないが――桔梗は恐らく、美月のいい所だけを見て、羨ましがっている。
それは、あまりにも――残酷で。
叶うことがない願いが、何らかの力で叶えられた、その時は。苦労し……絶望を感じることになるだろう。
「氷室先生が、愛しているのは私だけ。唇を触れ合わせるのだって……私以外の女とは、もう二度としない」
桔梗が何をしようとしているか悟った氷室は、彼女を見上げた。
耳元から顔を上げた桔梗の瞳が、窓から差し込む月明かりに照らされて光っている。
『ひむろせんせい』
美月と紗雪に配慮した桔梗は、声に出すことなく唇だけを起用に動かして、氷室の名を呼んだ。
肩まで掛かる長い髪が邪魔なのか。ゆっくりと耳に掛けた桔梗は、ゆっくりと唇を近づける。
(真横で美月が寝ているんだぞ)
桔梗の大胆な行動に、氷室は口元を手で塞ぐか迷った。形式上、氷室の彼女は美月だ。
互いに気持ちがないとしても、正式に別れを告げていない以上は交際関係が続いていると見なされる。
(交際している彼女がいる横で、唇を触れ合わせるだと……)
少女漫画でよくありそうなシュチュエーションを実体験することになるとは思わず、氷室は限界まで彼女の唇から距離を取るように背中をピタリと敷布団にくっつける。
桔梗は、氷室にとって愛する人だ。
愛する人からの口づけが、嫌なわけではない。
これまで何度も美月の目を盗んで唇を触れ合わせて来たが、美月に申し訳ないと思う気持ちなど1ミリも感じていなかった。
(俺からはできない)
氷室から桔梗の唇に触れることがあるとすれば、美月と正式に破局した後だけだ。
氷室は桔梗が東京へ戻る日に、美月との決着がつくことを知っている。
美月の目を盗んで唇を触れ合わせる理由など、本来は存在しないのだ。
(許すべきではない)
氷室は桔梗を突き飛ばしてでも抵抗するべきだった。
唇を許してしまえば、歯止めが効かなくなる。
もっと大胆なことをすれば、美月よりも桔梗を愛してもらえると暴走しかねないからだ。
(悪魔の誘惑に屈するな)
氷室は必死に手を口元へ動かし、唇を覆い隠そうとする。
「……ふふ」
目を合わせていた氷室の瞳が揺らいでいることに気づいたのだろう。
桔梗は氷室が必死に桔梗へ抗う為に動かしていた手首を掴み、敷布団へ押し付ける。
「……っ」
氷室が反対の手で唇を抑えるよりも早く。
桔梗は勢いよく氷室の唇を奪った。
(くそ……っ)
状況がどうであれ。
触れ合った唇を強引に引き剥がすほど、氷室はこの行為に嫌悪感を懐いてなどいなかった。
(美月との関係を精算するまでは桔梗には手を出さないって決めたのは、どこのどいつだよ…)
美月が真横で寝ていなければ。
自ら決めたルールすら破り、今頃歯止めが効かなくなっていただろう。
その証拠に氷室は、自身の唇を抑えるために動かした手を桔梗の頭へ添えると、唇が離れないように押さえつけた。
(何やってんだよ……)
いい歳をした大人が、12歳も年下の女と唇を触れ合わせたことにがっついて、みっともない。
頭では理解しているのに、止められないからこそ。
人間の欲望とは恐ろしいものだ。
ちょっとだけなら、と禁断の恋に手を出せば、坂を転がり落ちるようにごろごろと。
地獄の底まで落ちていくことになる。
(美月との関係に終わりが見えているからいいものの……)
氷室は桔梗と唇を触れ合わせながら、右隣で静かに目を閉じて眠る美月のことを考えていた。
(美月と結婚した後に桔梗と出会うことがなくて、よかったと思うべきなのか……)
氷室が口づけを交わしている間、上の空であることに気づいたのだろう。
桔梗は自身の頭に触れた氷室の手へ、自らの手を重ねると、強引に引き剥がす。
何をするのかと氷室が警戒すれば、リップ音を立てて額に口付けてくるものだから、氷室も焦ってしまった。
(普通逆だろ……)
額や頬に口付けた後に、唇へ触れ合わせて欲しかったわけではないが──氷室はどうでもいいことに突っ込みを入れなければ冷静さを保てないほど、困惑していた。
(いつまでも、桔梗の好きにしてやるわけにはいかない)
美月が目を醒ませば、絶対に面白がるだろう。
『ふふ。唇を触れ合わせることくらいは気持ちがなくともできるのよ』
桔梗を揺さぶる姿を想像した氷室は、新たな惨劇の幕開けが訪れないように、手の自由を奪っていた桔梗を力づくで引き離そうとした。
「……っ!」
桔梗は意地でも氷室の身体に余すことなく口づけの嵐を降らせたかったようで、両手の自由を取り戻そうと力を込めた氷室に邪魔されないよう抵抗する。
あまり派手に揉み合いになれば、襲撃と勘違いした美月が起きてしまう。
氷室は仕方なく桔梗の右足を持ち上げるように掴むと、股下を潜り抜けて右側へ回転し、揉み合いながら体制を入れ替えた。
「……へ……っ!?」
逆に押し倒された桔梗は、驚きで目を見開きながら氷室を見上げた。
潤んだ瞳と唇が、目に毒で仕方がない。
氷室は無言でじっと桔梗を見つめた後、人差し指で額をデコピンすると彼女の耳元で囁いた。
「派手なことはするな。そのうち、嫌でも桔梗の望みを叶えてやる」
「……っ!」
桔梗にとっては、喉から手が出るほど欲した言葉であることに、間違はないだろう。
氷室の自由を奪い、無理矢理にでも口付けてよかったと。
ご機嫌な様子の桔梗が再び、氷室を押し倒してくるようなことがないように。
胸の前で両手を重ね合わせ、お休みのジェスチャーをしてから自身の敷布団に戻って横たわる。
(二度目は、ないだろうな……)
寝込みを襲われかけた氷室は、気が気でない様子でしばらく起きていたが――待てども暮せども、桔梗が再び襲ってくることはなかった。
寝返りを打って桔梗が満足した様子で眠っていることを確認した氷室が、美月の様子を確かめようと反対側へ寝返りを打った時だ。
「……ふふ」
いつから目覚めていたのかは分からないが、美月が三日月のように口を綻ばせたのは。
「詳しい話は、明日しましょうか」
耳元で囁いた美月を睨みつけた氷室は――考えることを放棄し、ふて寝することにした。




