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木:診療所へ、桔梗と一緒に

 天門紗雪が幸せになる道は、長らく閉ざされていた。

 桔梗と焔華の協力により、やっと小さな光が差し込む程度の、細い道が開かれつつある。

 焔華から許可を得た桔梗は終始ハイテンションな様子で、氷室に引っ付いていた。


「氷室先生、今日一日お休みでしょう?」

「ああ。そうだが……」

「さーちゃんの所へ行きたい!」


 氷室の背にぴったりと胸を押し付け、肩越しから氷室の顔を覗いてきた桔梗は、元気よく宣言してみせた。

 桔梗が外出をすれば、氷室とひとつ屋根の下で一時的に暮らしていることが世間に露呈してしまう危険性を孕んでいる。

 氷室と暮らしていることを白日の下に晒されたならば、どうなるかなど、考えなくてもわかるだろう。

 桔梗はアイドルこそ卒業しているが、現役の芸能人だ。

 国民的アイドルImitation Queenに所属していた際、獲得したファンを山程抱えている。

 長年桔梗の活躍を見守ってきた男性ファンたちが、桔梗に男の影があることを週刊誌報道で知れば、暴徒化してもおかしくはないのだ。

 氷室は桔梗の安全を第一に考え、たとえ変装をしている状態でも桔梗が外へ出るのをよしとしていなかったのだ。


「いいわね。紗雪ちゃんも喜ぶわ」


 氷室が苦言を呈する前に、美月が桔梗の外出を了承してしまった。

 これには氷室も驚き、美月を見つめる。


「あら、氷室。文句でもあるの?」

「文句しかない」

「どんな文句があるのかしら。お姉さんに聞かせてもらえる?」


 考えれば、すぐにわかることだ。

 氷室が口にする必要など、どこにもない。


(話をややこしくするなよ……)


 先輩風を吹かせた美月が、氷室に色目を使う姿を見たのだろう。

 桔梗は氷室の首元に、強く背中から抱きついた。


「氷室先生。美月先生とお話などする必要ないから。早く行こう」

「この状態で外に出る気か」

「氷室先生の背中へ顔を埋めていれば、バレないもの」


 氷室におんぶをしてもらった状態で顔を埋めれば、変装をしていなくともへっちゃらだと語る桔梗に、変装の大切さを語るのは骨が折れる。

 氷室の自宅から診療所までは、大した距離ではない。

 桔梗を背負い休日出勤することは構わないが、氷室は桔梗が外出するに辺り条件をつけることにした。


「どんなに面倒くさいと思っても、変装はしっかりしろ」

「ええ……」

「家の外に出たら、診療所に着くまで口を開くな」

「大袈裟だよ。歌声でならバレるかもしれないけれど、話している声でバレるはずが……」

「スキャンダルになれば、天門紗雪は救えない」


 天門紗雪が恋愛ドキュメンタリー番組に出演し、臓器提供者と婚姻相手を探すためには桔梗の力が必要不可欠だ。

 男関連のスキャンダルが公になれば、桔梗のコネを使って一度は制作に携わりたいと手を上げた監督たちが、桔梗が関わっていないならば降りると言いかねない。

 桔梗は焔華がお願いを了承した今だからこそ、大人しくしていなければならない時期なのだ。


「むぅ……。じゃあ、氷室先生の言う通りにしたら。診療所にお泊りしてもいい?」

「どうしてそうなる」


 桔梗は診療所に留まりたいと言ってきた。

 理解に苦しむ氷室が眉を顰めれば、美月がくすりと笑う。


「紗雪ちゃんが診療所で暮らしているからでしょう。あたしもこの間、深緑と一緒に寝泊まりしたけれど、悪くなかったわよ。雑魚寝」


 それとこれとは話が違うだろう。


 美月から目を離せば、また無謀な事件に頭を突っ込んで行方知れずになるかもしれないが、彼女は一人で勝手に事件を解決できるだけの器量があった。氷室が心配する必要などないのだ。

 好きにさせてやった所で問題はないが、相手が桔梗ともなれば話は別だろう

 桔梗は美月とは異なり危なっかしく、身を守る術を持たない。

 紗雪と一緒になって身を寄せ合って、襲われるようなことがあれば犯人から逃げるか、物陰に身を潜めるようなことしかできないのだ。


(桔梗が診療所で寝泊まりするつもりなら、俺も泊まり込む覚悟で顔を出す必要があるだろう)


 紗雪が診療所に駆け込んできてから、那須宮が自宅に戻ることなく紗雪の面倒を見てくれていた。

 異性よりも同性の方が何かと都合はいいだろうと考えることを放棄した結果、那須宮に面倒を見てもらっていたが……。いつまで経っても那須宮に甘えるべきではないだろう。

 今日は休日だ。

 那須宮にもゆっくりと羽根を伸ばして貰うべきだろう。


「美月、那須宮に連絡してくれ」

「今日一日、あたし達が紗雪ちゃんの面倒を見るから、帰り支度を始めろって?」

「ああ」


 氷室の言いたいことを瞬時に察した美月が那須宮へ連絡を取り始めれば、存在を無視されたとむくれ面の桔梗が氷室の耳元で囁く。


「氷室先生の心はまだ、美月先生と繋がっているの?」


 チョキチョキと人差し指と中指をハサミのように動かしながら、桔梗は指先を美月へと向けた。


「早く断ち切らなきゃ。氷室先生にとって、一番大切な女が私だってわからせる為に……」


 運命の赤い糸を断ち切るだけでは飽き足らず、美月と氷室の間にある心の繋がりさえも断ち切ろうとし始めているようだ。


(俺は好きでもない女にスキンシップを許すほど女好きではないんだが……)


 桔梗はまだ、氷室のことをよく理解できていないのだろう。

 桔梗が見ているのは、自分にとって都合のいい白雪氷室だ。

 都合が悪い部分を見て見ぬふりをして、自分の理想と寸分違わぬ行動をしてほしいと願うからこそ苦しくなる。

 美月が氷室のことを理解しているからこそ、余計に腹立たしいのだろう。


(美月と比べることなく、自分は自分だと胸を張って生きられるようになればいいが……)


 今日を含めれば、桔梗の長期休みはあと4日で終わってしまう。

 桔梗があと4日で、どこまで美月に対する劣等感を昇華できるかは分からないが……。

 氷室はなるようにしかならないと、桔梗へ背中から降りるように告げた。


「明日の朝、診療開始前にはここへ戻ってこいよ」

「いいの!?やったー!」


 氷室の背中から降りた桔梗は、音を立て洗面所へ駆けていくと、外出の準備を始めた。

 Imitation Queenのロゴが書かれたナップザックがリビングに放置されている辺り、寝泊まりの準備はすでに済ませていたようだ。


「朝っぱらから元気ね」

「……そうだな。お前は準備をしなくていいのか」

「必要なら深緑と買いに行くからいいわ」

「……美月」

「どうしたの。改まって」


 氷室は桔梗が洗面所に向かったのをいいことに、美月へ問いかける。

 その表情は険しかった。


「俺は、この状況に意味を見出せない」

「氷室には意味がないことだとしても、あたしにとっては意味あることよ。8年前。あたし達は二人でいることが当たり前だったけれど……。今では、当たり前ではなくなってしまった」


 美月が氷室との当たり前が当たり前ではなくなったことを実感するためだけに、氷室へちょっかいを掛けているのだとしたらいい迷惑だ。

 美月と一緒にいても、氷室はあの日のように恋い焦がれることはない。

 美月を楽しませることよりも、桔梗の悲しむ顔を見たくないと思うことが多くなっているこの状態では、美月との関係が進展することなどまずないと言ってもいいだろう。


(美月のことが、嫌いになる前に)


 目の前から消えてほしいなど、願うべきではないと理解しても。

 氷室は口にすることはなくとも、桔梗との限られた時間を優先したいと考えていた。


「これはあたし達が前に進む為に必要なことなのよ。あたしと桔梗ちゃんを比べることで、氷室はますます桔梗ちゃんが好きになる。あたしは恋のキューピッドとして、かなり貢献していると思うのだけれど」

「冗談だろ」


 美月が目の前にいれば、桔梗は嫌でも嫉妬する。

 氷室を自分だけのものにしようと躍起になり、もっと私を見てとどんどん大胆になっていくのだ。

 美月は氷室が惚れるきっかけを作ったのだと満足げだが、氷室にとってはいい迷惑だった。


(美月が目の前に現れることなど、二度となかったとしても……)


 桔梗の存在は、氷室の胸へと深く刻まれていくのだから。


「遅かれ早かれ、俺はあいつのものになっていた」

「桔梗ちゃんが氷室のものではなくて、氷室が桔梗ちゃんのものなのね」

「そうだ」


 氷室が桔梗を捉えたのではなく、氷室が桔梗に捕食されたのだ。

 この2つには大きな違いがあった。

 氷室が桔梗を狂おしいほど求め、愛していれば。

 氷室が桔梗を捕える可能性も夢ではなかっただろうが──美月の存在があったからこそ、氷室は桔梗のものとして捕えられることを了承した。

 氷室を桔梗から救いたいと。桔梗と添い遂げた所で幸せになどなれないからと決めつけ、氷室を助けようとするのはお門違いもいい所だ。

 氷室は望んで桔梗の愛を受け入れた。

 桔梗が氷室を愛する限り、美月の手を取ることはないだろう。


「追う恋よりも。追われる恋の方が、氷室の性に合っていたのかしら……」


 追われる恋は楽だ。

 氷室が何もしなくたって、桔梗が無条件に愛を注いでくれる。

 美月の背中を追い求めていた頃の氷室は、気が気ではなかった。

 ぼーっとしていれば、美月に置いていかれてしまうから。追いついたと思ってもすぐに引き離され、やっと腕に抱けたと安心してすぐに、氷室の手をすり抜けて行ってしまう。


(あの頃は辛かった)


 美月の背中を長い間追い続けていた氷室は、疲れてしまったのだ。

 追う恋よりも追われる恋の方が楽だと知れば、美月を好きだった8年以上前の自分すらもバカバカしくなってくる。


(そうした意味では、美月と交際したことは正解だったのか……)


 美月と交際していなければ、追う恋の苦しみが分からず、追われる恋がどれほど楽であるかを理解できなかった。

 氷室が美月と交際していてよかったと思える点は、その一点のみだ。

 今ではこうして、美月と2人きりで話をすることすら落ち着かなくなっているのだから、重症だった。


(叶うことならば。ずっと触れていたいと思うなど……重症だな)


 無条件で氷室への愛を囁く桔梗は、可愛らしい。

 美月は氷室へ愛の言葉を紡ぐ機会が殆どなかったので、純粋に新鮮だと思うことが多かった。


(桔梗に美月と自分を比べるなと考える横で、俺は美月と桔梗を比べている……)


 桔梗と美月が目の前にいると。氷室あまり性格のよくない自分がもっと醜い人間に変化していくようで、気分が悪かった。


 桔梗一人が目の前に居るだけなら、恋心を自覚した今ならば。


 心穏やかに暮らせるだろうと思わずにはいられないからだ。


(誰も彼もが自分本位に行動することをやめられないから、収集がつかなくなっている)


 残り4日間は、誰もが自身の譲れない気持ちを胸に秘め、己の目的を実現するために戦う必要があるのだろう。


「愛する女が変われば、男も変わる……」


 美月は氷室に聞かせる気があるとは思えない小さな声で当然のことを呟いた。

 意志を持った人間の考えがぴったりと一致するわけがないのだ。

 人によって態度を変える必要はないが、考え方が違えば、氷室の接し方だって変化することはあるだろう。


(8年間も同じ性格のままである方が問題だ)


 8年前と変わっていない、が褒め言葉であるとしても──停滞している時間は、心の成長を阻害する。

 美月と離れていた年月を考えれば、桔梗を愛してしまったから氷室が変わったと考えるのは飛躍しすぎているような気がしてならなかった。


「あたしが愛した氷室は、もうどこにもいないのかもしれないわね」


 美月は氷室を愛していたと告げたが、今となっては本当にそうだったのだろうか、と疑問が残る。8年前──手を差し伸べてきた美月は、孤独に震える氷室に同情していただけだろう。

 困っている人を見捨てられない美月は、氷室が一人の人間として歩んでいけるように。

 氷室が望む言葉を告げただけで、そこに一切の恋愛感情がなかったのだとしたら──。


(こうして俺たちにちょっかいを掛けているのも、パフォーマンスだ)


 氷室と桔梗が結ばれる為だけに行動している。

 自己犠牲はやめると告げたくせに、結局美月は自己犠牲を辞めてなどいなかった。


(美月のことを思うなら)


 馬鹿なことはやめろと。

 もっと強く告げるべきだが、美月を気に掛けるような素振りを見せれば桔梗が悲しむだろう。


(付かず離れずの距離で乗り切るしかない)


 氷室と美月は、復縁することなどない。

 一度完成させたパズルをバラバラに破壊すれば、完成するまで長い時間が掛かるように。

 氷室と美月の間に新たな恋が今すぐに芽生えることなど、ありえないのだから──。


「氷室先生。変装完了したよ」


 美月との話が一段落ついた所で、光の反射によっては黒髪ではなく紫色に見える特徴的な髪色から、茶髪へと変化した桔梗が姿を見せた。

 変装中の桔梗は見慣れない。

 見知らぬ女の姿をしている桔梗は、口を開かなければ彼女の面影が感じられず不快で仕方がなかった。


「背中、乗るか」

「いいの?」


 変装中の桔梗が真横を歩くよりも、背負った方が顔を見ることなく済んで精神的に楽だと感じた氷室は、桔梗を背中に背負って外に出る。

 変装する必要のない美月が遅れて外に出れば、玄関のドアが自動で施錠される。

 こうしたとき、両手が塞がっていても勝手に玄関ドアが施錠されるオートロックは便利だ。

 氷室は交わした約束を守り、口を噤んだ桔梗を背負う。

 背後に美月を伴いながら、氷室は診療所に向けて出発した。

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