第二十八話 龍翼の記録者
眼前の少女を、その化物は揺れる視界で捕らえた。
震える手足を観る。──あの少女は化物を恐れていた。
爛れた五体を視る。──あの少女は瀕死だった。
浅い呼吸を耳にする。──あの少女は己を出し尽くしていた。
萎えることない、黄金の瞳を見る。──それでもあの少女は、化物を信じていた。
思いが募る。
想いが燃える。
虚ろな視界で、気配の薄い彼を見る。
彼が何者かを、化物は知らなかった。
彼が何を目指しているかも、化物は知らなかった。
それでも、一つだけ、化物は理解していた。
彼は、化物と同じなのだと。
他人に搾取され、使われ、捨てられたのだと。
『精霊……イグニス・ファトゥスが、こんなとこでなにしてんだ?』
彼が掛けてくれた、狂気から繋ぎとめる言葉を、化物は覚えている。
出会ったのは廃れた街の暗い場所。
狂気に堕とされてから、毎日が凍える日だった。
それでも化物は、彼と居るときだけは寒くなかった。
だから化物は、彼と共にいることを決めた。
何故なら彼は恩人だから。
化物を狂気の渦から繋ぎとめる、唯一の楔だったから。
そして、あの奮える少女もまた。
彼と同じように、化物の意識を繋ぎとめる楔だった。
かの者は化物が立ち上がると信じている。
伝播する思いが、彼女の信じる英雄譚が、かの化物はこんなものじゃ倒れないと定義付けている。
狂乱を極める思考に、一つの言葉が稲妻のように駆ける。
彼の瞳と、化物の瞳が交錯する。
"嫌だ"と思った。
それが引き金だったように、化物の思考が一気に晴れる。
これまで朧になっていた、感情の波が濁流の如く身体中を廻り回る。
化物は彼を愛していた。
化物は自分たちに過酷を強いる世界を憎んでいた。
化物は、猛る少女に怯えていた。
故に、化物は再燃する。
守らねば。
彼に迫る脅威、その悉くから。
助けねば。
彼を襲った、あの災厄から。
立て、立て、立て!
まだ死ねない。
まだ終われない。
この時初めて、化物は少女を倒すべき『敵』であると認識した。
消えゆく炎を奮起させる。
長い間狂気を彷徨っていた化物が今──業火の下に覚醒した。
♢
波紋状に広がっていく炎は、家屋を、畑を、思い出を、撫でるように灰と化していく。
次第に霧散してく炎の中で、全身を黒く爛れさせた人影がポツリと、凹みだらけの刀を支えに立っている。
火傷で瞼が瞳に張り付いているのだろう。
歪に開いた相貌で、アイラは辺りを見回した。
見る。
ガタガタと鳴る奥歯を噛み締めて、アイラは猛火の跡を凝視する。
身体は芯まで燃焼した。
もう一度あの炎が吹き上がれば、最早太刀打つ術は欠片だってありはしない。
待つ。
祈るように、願うように。アイラは静寂に耳を澄ませる。
魂は髄まで摩耗した。
もう一度あの声が鳴り響けば、最早奮える闘志は僅かだってありはしない。
数秒、数十秒が経過しただろうか。
再び炎が起こる気配は……未だない。
ようやくアイラはほっと息を吐き、開きっぱなしだった目を細め、そのまま眠るようにゆっくりと瞼を閉じ──
「──イム」
──見開いた。
鳴いた。
あの声が。
干からびた瞳が映す虚ろな視界の先。
驚愕に震える瞳孔が呆然とそれを捉える。
一段と強い熱が、抉れた土壌の中心で──雷の如く噴き上がった。
「嘘だ……嘘だなんで……ッ!?」
全身から汗が噴き出す。
焦げた土に立てた刀を力任せに強く握った。
見るな。
聞くな。
感じるな。
あの影は幻覚だ。
あの声は幻聴だ。
あの熱は錯覚だ。
あの大敵は討たれたのだ。
もう一度立ち上がるなど……あってはならないのだ。
「ライム ハ……殺サセナイ……アノ子ハ……アノ子ダケハ……!!」
悲鳴を上げる思考に逆らって。
魅入るように。
食い入るように。
アイラはその誕生を認めてしまった。
「ふざけるな……ふざけるなぁああああああ──!!」
───睨む。
一層激しさを増してく炎を、熱く乾いた双眸で。
───叫ぶ。
一層高まる魔力を、とうに擦り切れた血を吐く喉で。
あれを羽化させてはいけない。
あれを立ち上がらせてはならない。
倒せ。
まだ間に合う。
早急に。
あの化け物を倒せ。
思考が、弾ける。
「立つな! 立つな! ……ッ!! 立つなって……言ってんだよぉおおおおお──ッッ!!」
狂ったように吠え散らし、焼け爛れた掌で得物を振るう。
もう一度。
もう一度、斬るのだ。
もう一度、吹き散らすのだ。
そうしなくてはならない。
そうしなくては、アイラのなけなしの闘志は──
「そんな……」
──いとも容易く、折れてしまうのだから。
アイラは見た。
撃ち出した無数の風の刃が焼け落ちる光景を。
アイラは見てしまった。
燃え上がる炎の中心に立つ──人型の影を。
『無駄ダ。其ノヨウナ意思ナキ刃デハ、我ガ肉体ハ斬リ裂ケヌ』
見るなと。
聞くなと。
本能が激しく警鐘を鳴らす。
それを聞いてしまえば、その涙を見てしまえば、アイラは自身を保つことが出来ないと理解していたから。
炎が止み、影しか見えなかったものが顕になる。
炎に靡く狐の耳と三股の尾。
秀麗な羽織りに身を包んだ女性の風貌は、さながら狐獣人を彷彿とさせる。
「ナア人間。人間ノ娘ヨ。何故、何故童達ヲ滅ボサントスルノダ」
「……は?」
精霊が、村を滅ぼしたイグニス・ファトゥスが問うのだ。
何故我々を殺そうとするのか、と。
そんなの聞き入れられる筈がなかった。そんなの認められる筈がなかった。
全てを奪われた人間が、全てを奪った化け物の涙を受け入れる。
そんな残酷な現実は、アイラには到底受け入れられる筈がなかった。
「その言葉を……お前なんかが語るな! 奪われたのは私たちの方だ! 壊されたのは私たちの方だ! お前なんかが涙を流す資格なんてない! お前なんかがそんな感情を持つ資格なんてない! お前なんかが……お前なんかが──ッ!!」
刀に新たな風を込める。
暴風の如き轟音が、アイラの怒りを受けて咆哮を上げる。
加護の力を込めれば込める程。
アイラは急激に身体が重くなり、意識が遠退くのを感じた。
それでも、アイラは激情に身を任せ、四肢を奮わせる。
「ドウヤラ貴様ハ勘違イヲ シテイルヨウダガ──」
「黙れぇええええええええ!!」
張り裂けるような咆哮が轟く。
高まった大嵐が振り下ろされ、疾風を以ってイグニスを飲み込んだ。
「フム。見掛ケコソ立派ダガ、軽イ。練度ガ足リヌ──残念ダ」
イグニスが羽織の袖を翻した。
「……ぁ」
それだけだ。
それだけで、アイラの渾身の一撃は静寂に掻き消されたのだ。
カランという、金属音を耳にする。
放心する意識が、半自動的に音の出所を視界に移した。
それは刀身。
アイラが握る愛刀から零れ落ちた、彼女の最後の拠り所。
幾度も強力な風を付与したため、刀の方がアイラの加護に耐えられなくなっていたのだ。
半ばからへし折れたそれを、アイラはただ見つめるのみ。
その眼には既に黄金の輝きはなく、黄緑の燐光が力なく揺れている。
この時、完全に、完膚なきまでに、アイラの心は折れてしまった。
「貴様ハ人ノ身デアリナガラ、一度ハ童ヲ打チ破ッタ。認メヨウ。ソノ偉業ト執念ハ、童ノ脅威ト成リ得ル。故ニ──」
掲げた掌に炎が集って行く。
火球なんてものではない。
あれは最早極小の太陽だった。
「是ハ慈悲デアル。痛ミモ、苦シミモ与エズ、一撃デ送ッテヤロウ……ッ!」
猛火を宿す瞳がアイラを射抜く。
「……サヨウナラ。人間ノ子」
収束した炎の塊が撃ち出された。
高まった熱は空気を焦がし、バチバチと小さな爆発を周囲に起こす。
滑るように駆けるその太陽の威力は、最早魔法の域を超えていた。
火球自体は決して速くはない。
しかしゆるりゆるりと刻まれて行く死の刻限は、暴力的なまでの恐怖となってアイラを襲った。
その圧倒的な質量を、恐怖を前に、アイラは魂の抜けた抜け殻のように膝から崩れ落ち、地に伏した。
万策は尽きた。
抗う意思も吐き尽くした。
あの太陽には触れることすら叶わず、少女の矮躯など骨も残さず燃え尽きるだろう。
それを──
「まあ、こんなもんだな」
──アイラの眼前に降り立った青年は、それをたったの一刀で撃ち消した。
「アレを相手によく踏ん張った。だがもうアイラには任せられない。アイツはもう、起きてしまった」
青年がその手に携えるのは、魔力を帯びる蒼海の剣。
双肩にはためくのは大仰に広がる翼。臀部から伸びる尾、頭部から生えた双角。諸手に携えた剛双。
それらは水面のように揺蕩い、煌々と白藍の輝きを放っている。
青年の造形は既に人ではない。
まるで古の龍を思わせる、異形の輩へと成っていた。
「アレとお前じゃあ、もうステージが違う。だから、ここから先は俺の仕事だ」
青年の背中が、イグニスを映す視線を遮る。
途端にアイラに圧し掛かっていた重圧は消え、忘れていた疲労と苦痛が全身に押し寄せた。
『貴様ガ湛エル剣、其レハ精霊魔法ダナ。気ニ食ワヌ。誠ニ気ニ食ワヌ。人間風情ガ ソノ様ナ力ヲ振ルウナド』
「そう思うか。ならほら、撃ち破ってみろよ」
不敵に口元を歪め、青年が一歩、イグニスへと踏み出した。
「だが生憎と俺は、お前程度の精霊に負ける要素は持ち合わせていないぜ?」
その自信を示すように、蒼海の剣がゆらりと燃える。
「待って……まだ、私は……」
戦える。
戦わなければならない。
アイラは咄嗟に青年を呼び止めていた。
ここでまた助けられれば、それは逃げていたあの頃となんら変わらない。
これまでの決意が、妄言へと還ってしまう。
だから、立たねばならない。
彼に任せてしまってはダメだ。
アイラは自分自身の力で、この大敵を討ち果たさなくてはいけないのだから。
「畜生……畜生……っ!!」
動け! 動け! 動け!
四肢に力を込める。
木偶と化した身体で慟哭する。
しかし、固く土壌を握り締めたその腕が、再び身体を持ち上げることはなかった。
「どうして……どうして動かないんだよぉ……! 私は……私は……っ」
アイラはただ、無様に地に伏している。
その間にも、次弾、参弾と。
新たな太陽が撃ち出されている。
それを羽虫を退けるかの如く、青年は手首で閃かせた剣のひと凪で打ち払う。
更に勢いを増してく陽弾の中、青年は静かに口を開いた。
「悔しいか?」
「……ッ!」
縮こまった肩が震えた。
擦れた声で、それに答える。
「悔しい……悔しいに決まってる!」
自戒の言葉は続く。
溢れるように、零れるように。
「これだけ皆に支えて貰って、これだけの力を授かって、それでも結局私は変われなかった! 私は……弱いままのアイラだった……」
言葉は尻すぼみ、覇気を失っていく。
己への失望と慚愧の念が、涙を零すアイラを蝕んでいく。
「それなら、そう思うならさ。お前だって、少しは強くなれたんじゃないか?」
弾かれたように、アイラは青年を見上げた。
「以前のアイラなら、きっとここで安心していた筈だ。奥歯が砕けるまで歯を噛み締めることも、肉が抉れるまで拳を握ることも……きっと、そんな風に涙を流すことだって出来なかった筈だ」
「ジー……ク……」
それは、青年がアイラに対して初めて見せた同情だった。
これまで心の多くを隠してきた彼の、初めて発した心から寄り添う言葉だった。
故にその言葉は、一層重く、一層深く、アイラの胸に突き刺さる。
「悔しいのなら、己の無力を呪うのなら。これから起こることをよく見ておけ。それはきっと、お前にとって一つの導になる筈だ」
迫る火球に向けて、青年が蒼海の剣を大きく薙いだ。
それだけだ。
たったそれだけで、火球は吹き消え、冗談のように周囲の熱が冷めていく。
大翼の残滓が、アイラを守るように絢爛に棚引く。
その時。
仁王立つ青年の勇姿が、白銀を称えた少女と重なった。
「そんな心配そうな顔するなって。大丈夫……」
青年が右拳をゆったりと掲げ、グッと親指を押し上げる。
「俺は絶対に──負けないからさ」
肩越しに振り向いて、憧憬は歯を見せて破顔した。
アイラに最早戦おうとする気力は残っていなかった。
とうに限界へ達したアイラの思考は、少しずつ微睡の中へ溶けていく。
──知ったことではなかった。
朽ちかけた身体の悲鳴に、唇を噛んで抗った。
見届けるのだ。
微笑みを称えて大敵に向かう、彼の勇士を。
──瞳に残る燐光に、再び輝きが戻る。
獲物を定めた猟鳥の如く、アイラはその行く末を静かに見据えた。
ジークがゆるりと身体を前に倒した。
なにかを勘付いたのか、イグニスが一際大きな太陽を生み出す。
それも一つや二つではない。
数えるのすら馬鹿らしい程の太陽が、夜闇を劈いて燃えていた。
埋まる距離。
『成リ損ナイ風情ガ。蛮勇ヲ抱イテ朽チルガイイ……ッ!!』
押し潰すような太陽が、微かな抵抗もなく撃ち出された。
それは正しく彼女の怒りの体現。
それは正しく彼女の悲しみの具現。
なによりも強く、なによりも猛く、その必殺の火球は業火を纏う。
それに応えるように。青年の湛える双翼が、大きく、強く、はためいた。
圧倒的な力の奔流。
吹き消されるように、撃ち消されるように、燃え盛る太陽は全て、一度の羽ばたきで跡形もなく消え去った。
『何故ダ……何故通ジヌ!! 疾ク消エヨ!! 疾ク果テヨ!! コレ以上、童カラ何ヲ奪オウト言ウノダ……ッ!!』
火球の嵐。
その悉くを切り裂きながら、彼は疾駆する。
「なに被害者ヅラしてんだ。周りを見てみろ、イグニス。ここに、この地に、お前達を苦しめた奴が一人でも居たか?」
「ソレハ……ッ!?」
産まれ堕ちた最後の火球を打ち払い、ジークはイグニスの正面へと躍り出た。
唖然に揺れるイグニスの瞳が、割れた太陽の隙間に揺蕩う蒼剣を映す。
「居なかっただろう。それが理由だ。それでもまだ人間を恨むのなら──」
やがて押し潰すような灼熱の圧力が消え、代わるようにジークの流麗な得物が誇大に煌めいた。
「──理不尽にお前を斬る、この俺だけを恨めばいい」
炸裂する。
『──────』
白藍の極光が、アイラの視界を覆った。
その輝きを、アイラは遮ることなく、見開いた瞳でその奥に焼き付ける。
強烈な藍の輝き、イグニスの悲鳴を掻き消す炸裂音、そして響く剣戟の轟音。
決着だ。
呆気ないほどに、圧巻だった。
アイラは見たのだ。
霞む意識の中、一人の青年が放つ英雄の輝きを。
村に再び静寂が訪れる。
剣戟と共に弾けた青の粒子が、アイラの頬にひたりと落ちた。
その微かな感触を最後に、アイラの意識はプツリと途切れた。
♢
霞む視界に、一つの情景が映り込む。
少年は、『彼女』のことが大好きだった。
例え意思の疎通が叶わなくとも、彼女の理性が狂気に呑まれようとも。
彼女だけが、少年にとっての唯一であったのだから。
『彼女』もまた、少年のことが大好きだった。
例え矜恃を業火に蝕まれようとも、少年が何者かを理解出来なくとも。
少年だけが、彼女にとっての唯一であったのだから。
積層する瓦礫の山で、一人と一匹が寄り添うように眠っている。
互いに互いの身を焦がしながら。
それでも彼らは、共に生きている。
微睡む意識の深層で、少女は祈った。
彼らがこれ以上、悲嘆に暮れぬことを。
彼らの歩み行く末が、幸多きことを。
──ああ、どうか。
苦難に飲まれる彼らに、穏やかな安らぎが在らんことを。




