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35話 春男のサイン

春男のサイン


 本が出来上がると、作者は何冊かもらえる。春男は自分が書いた内容を忘れないようにと、一冊頼む。親に送るということもできるが、春男の場合はそうしない。春男の実家は、春男の母親の料理やお菓子の本で溢れ返っているからだ、と聞いた。

 今回は、春男の分と、春男のファンだという作家たちのために、本を二冊持って春男の家に出かけた。送る代金の節約だと編集長に言われたからだ。別に、自分の懐が痛むわけでもないのに、見上げた編集長だとちょっと感心する。すると、春男の家に、隣に住んでいた女の子、彩ちゃんがいた。もうすぐ中学生になるせいか、背も伸びて大きくなっている。ちょっと前に引っ越していったばかりだ。

「あれ?ひさしぶりだね。わざわざこっちまで来たの?」

「はい、そうなんです。お邪魔しています。」

 あいかわらず、しっかりしたお嬢さんだ。

「いや、オレの家でもないから、それはいいんだけど、どうしたの?」

「あの、友人が、私の読んでいた本を貸したら、気に入って。隣に住んでいた人の本だって言ったら、サインがほしいというもので。彼女が買った本を持ってきたんです。」

 サイン?オレはこのかた、春男がサインをしているのは、めったに見たことがなかった。サイン会などさえも開いたことがない。春男は別に人嫌いというわけではない。ただ単に、面倒くさがりが、かなりひどいだけのことだ。

「はい。これでいい?」

「ありがとうございます。」

「じゃ、これも頼む。」

 オレは本を差し出した。

「なんで、自分の分に書くんだ?それ、今回の本だろう?」

「お前のは、こっち。それは双子の分だ。」

「双子さん?」

 彩ちゃんが聞いた。

「ああ、この間、でた新人作家が双子でね。春男のファンだというから、本でも持っていこうかと思って。それで、早めに作品仕上げてくれたら、それでいいんだ。」

「へぇ。そうなんだぁ。あ、じゃ、これ、いただいていきます。」

 彼女は帰っていった。

「あいかわらず、しっかりしているなぁ。ただ、若いのに、春男のファンってところが気になるけど。」

「なんでだよ?そんなに難しい内容を書いているわけじゃないぞ?いや、書くこともあるけど、めったにないよ?」

 自慢して言えることだろうか。

「そうじゃなくて。本を読むなんて珍しいなぁと思っただけさ。」

「書けたぞ。」

 たしかに、そこには春男の名前がかかれていた。

「お、どうも。」

 今回の本のタイトルはめずらしく長い。『野生に戻すまでの飼い鳥の育て方』

 内容が、これに合うかというと、かなり疑問だ。

「それにしても、お前も、サイン会くらい開けばいいのに。」

「面倒だ。」

 やっぱり今回もいつもの台詞で片付けられてしまった。春男のサインをもらった、彩ちゃんの友人は、その希少性に気がつくことはあるのだろうか。

 たぶん、ないだろうなぁとオレは考えていた。


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