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聖女の力を与えられた悪女は  作者: にゃみ3 @書籍「悲劇の公爵夫人セレスティア最後の祈り」発売中


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4 湖と光

 隣に立つ夫に視線を向ける。

 彼は表情ひとつ変えることなく、冷静な眼差しで小さなお嬢様を見つめていた。

 今にも叫び出しそうなほど慌てながら私の様子を窺うバカな従者とは違って。


 まあ、アルセインが慌てるのも無理はないことだが。


『フレイア様と皇太子様がそういう関係だということは、皆が知っていることです。ご結婚された後も、いまだに密会を続けているようですし……親が親なら、子も子だということでしょうか?」


 昔、そう言って笑った令嬢の頭から、紅茶をかけてやったことがある。


 だからアルセインは、私がこの幼い令嬢にも手を上げるのではないかと気が気ではないのだろう。


「そんな馬鹿げた噂が広まっていたとは知らなかったわ」


 私はゆっくりと少女の前へ歩み寄る。


「ご令嬢、お名前は?」


「わ、私はアリスです。アリス・アルベドです」


 アリスは緊張した面持ちで名乗ると、まだ、どこかぎこちないカーテシーを披露した。

 純粋無垢な笑顔を見下ろしながら、私は静かに息を吐く。


 腹が立たないわけではない。

 皇太子という存在は、忘れ去りたい記憶を引きずり出させる忌まわしい象徴のようなもの。


 その無邪気な口が二度と軽々しく動かなくなるよう、思い知らせてやりたい衝動が胸を掠める。


「いいわ。アリス嬢、あなたにお願いがあるの。あなたにしかできないことよ」


「私にしかできないこと、ですか?」


「そう。噂に流される愚かなお嬢様に、私からの命令よ。今度はあなたが噂を広めるの」


 私は身を屈めて、アリスのふんわりと柔らかい茶色の髪を撫でると、耳元で囁いた。


「聖女フレイアは自分に逆らう者は誰であろうと手にかける最低最悪の悪女だ……ってね」


「聖女フレイアは、自分に逆らう者は誰であろうと手にかけようと目論む、最低最悪の悪女だ……ってね」


 囁き終えた瞬間、アリス嬢の大きな瞳が驚きと困惑に揺れた。


 平民出身のもう一人の聖女レティシアと比べられながら、私がどれだけ悪どい人間かと噂されていることくらい、とっくの昔に知っている。


 だったら、いっそもっと悪く思われればいい。

 誰も私に期待せず、誰も近づこうとしないくらい、最低な女だと思われた方が都合がいい。


 くだらない噂を真に受け、わざわざ私の前で口にするような愚かな人間さえいなくなれば、それで十分だった。


「……子爵は娘の教育を間違えたようね」



・ ୨୧ ┈┈┈ ⋯ ┈┈┈ ୨୧ ・



「きっと、すぐによくなるでしょう」


「あなたが何を言いたいのか、私には分からないわ」


 腹立たしいほど落ち着き払った声音に、私は素っ気なく言い返した。

 彼が言いたいのは、先ほどアルベド子爵と交わしていた会話のことだろう。


『連れてきた馬が足を負傷して動けない状態です。何名か使用人をお借りして、ここで治療させていただけませんか。相応の謝礼は必ずお支払いいたします』


 私が光魔法で馬を治すことを拒んだから、こうして別の方法を選んだ。


 今さら情でも湧いたのか。


 そんなふうに私を皮肉っているのではないか。


 彼がそんな人間ではないことくらい、本当は分かっている。

 それでも、一度歪んでしまった考え方というものは、そう簡単には元へ戻らない。


 居心地の悪さをごまかすように、私はふいと視線を逸らした。

 その先には、大きな湖が静かに広がっていた。


 陽光を受けた水面は宝石を砕いて散りばめたようにきらきらと輝き、風が吹くたび、小さな波紋が幾重にも広がっていく。蓮の花が水面に揺れ、数羽の白鳥が悠然と湖を泳ぐ姿は何とも幻想的だった。


「あなたが遊船に乗るとは珍しいですね。外はお嫌いではなかったのですか?」


「そう? ロズレイン家にいた頃は、よく乗っていたわ」


「でしたら、公爵邸にもご用意させましょう」


 どうしていつもそう大袈裟なのよ。

 呆れて隣を見ると、ルシアンは本気でそう考えているらしく不思議そうに首を傾げていた。

 私は日傘の柄を握り直すと、少し怒りっぽく言った。


「そこまで好きじゃないわ」


 ロズレイン公爵家で乗っていた豪奢な遊船とは比べものにならないが、人の手が入りすぎていない自然の湖は比べ物にならないほど美しかった。


 どこまでも澄み切った水。

 私は日傘を少し持ち上げ、水面を覗き込む。


「フレイア。あまり水際へ近寄らないように」


 子供を諭すような言い方が癪に障り、生意気にそっぽを向いた時だった。


『私の可愛いフレイア……』


 また、あの声が耳元で囁かれた。

 一瞬にして、いとも簡単に私の心を乱す声。

 飽きもせずに毎晩私の夢に現れる美しい女。


 こんな時にまで彼女を思い出してしまう自分に酷く呆れて頭を抱えた時だった。


 不意に視界の端で、懐かしい金色の光が揺れる。


 数年前に私が光魔法を発動させた以来の輝きに、まさか無意識のうちに発動させてしまったのかと慌てて振り返る。


 木製の船がギィと音を立てたのと同時に、私の視界に飛び込んできたのは光魔法などとそんな幻想的なものではなかった。


 黒いローブを目深に被った男。

 その手に握られた銀色の銃口が、真っ直ぐこちらへ向けられていた。


「ルシアン!!」


 叫ぶより早く、身体が動いた。

 彼へ飛び込むように両手を伸ばし、その胸を思い切り突き飛ばす。


 次の瞬間、乾いた銃声が湖畔に轟いた。


 静寂を切り裂くような音に、湖面で羽を休めていた白鳥たちが一斉に飛び立つ。


 驚愕に目を見開いた夫の顔を最後に視界が大きく揺れ、鋭い灼熱の痛みが右腕を貫いた。

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