3 公爵夫妻
「こんなところで何をなさっているのですか? フレイア様!」
丸い目を大きく見開いた青年が私を見つめる。
「アルセイン」
私が名を呼ぶや否や、アルセインは慌てて馬から飛び降りた。
砂埃が立つのも気にせず駆け寄ってくると、私の両手を包み込むように握り締めた。
「あんまりです、僕を置いて行ってしまわれるなんて! 僕がどれだけあなた様を心配したことか……!」
「別に、置いていったつもりはないわ。ただ、あなたの存在を忘れていただけよ」
「……いいんです、僕はいいんです。もう慣れています」
乾いた笑みを浮かべるアルセインの肩が、どこか寂しげに落ちる。
何やら恨み言をぶつぶつと呟いているが、聞こえなかったことにして私は顔を背けた。
すると、御者との話を終えたルシアンがこちらへ歩み寄ってくる。
「卿も王宮に行っていたのか」
「ルシアン様! もちろんですとも」
アルセインは胸を張り、得意げに答えた。
「僕は王室と神殿から直々に、何があろうとフレイア様の傍を離れるなと命じられておりますので!」
アルセインは、ルベイン侯爵家の次男であり、私が聖女として認められた日から護衛騎士を務めている男だった。
ロズレイン公爵家でもアルスハイン公爵家でもなく、忠誠を誓う相手はこの私だけ。
自分だけの護衛ができると聞いた時は少し嬉しかったような気がする。
まあ、まさかこんな子犬みたいな男が来るなんて夢にも思わなかったけれど。
「その優秀な護衛騎士殿は、今度はどんな理由で置いていかれたんだ?」
ルシアンが呆れ半分に問いかけると、アルセインは「よくぞ聞いてくださいました」と言わんばかりに身を乗り出した。
「実は、王宮の庭園にある薔薇の棘を一本一本取り除いて百本の花束を作れと命じられたのです。しかし、ようやく完成したと思ったら、すでにフレイア様は出発されたあとだったんです!」
そういえば、そんなことを言ったような。
完全に忘れていた私は、誤魔化すように小さく咳払いをして問いかける。
「それで? その花束はどこなのよ?」
「あっ、それがですね。実は全部ジョセフィーヌに食べられてしまって」
「……ジョセフィーヌ?」
「僕の愛馬、美しきジョセフィーヌです」
アルセインはぱっと顔を輝かせ、後ろにいる栗毛の馬を指差した。
ジョセフィーヌと紹介された雌馬は私に向かって得意げに鼻を鳴らす。
「……あなたたち、とってもお似合いね」
「まさかフレイア様に褒めていただける日がくるとは。ジョセフィーヌ、聞いたかい? 僕は感激のあまり、今にも涙が出そうだよ!」
嬉しそうに馬へ語りかける姿に、思わず深いため息が漏れる。
そんな私たちの様子を窺いながら、馬と馬車を慌ただしく行き来していた年配の御者が、おずおずと口を開いた。
「公爵様、申し訳ありません。馬車の修理には、もう少々時間がかかりそうです。それまでお休みいただける場所があればよろしいのですが……」
「それでしたら、この近くにアルベド子爵家の屋敷があります!」
ルシアンが返事をするより早くアルセインが勢いよく口を挟んだ。
「アルベド家は過去にアルスハイン公爵家に忠誠を誓った家柄です。公爵夫妻がお見えになれば、きっと喜んでお迎えくださるでしょう。それに代わりの馬車をお借りできるかもしれません」
「あなたにしてはいい提案だわ。そうしましょう、早く屋敷に帰りたいわ」
「最も早い帰宅方法は馬での移動ですが難しいですものね。なぜなら、フレイア様はとっても乗馬がお下手……」
勢いよく馬車の扉を押し開くと、木製の扉が見事にアルセインの顔面へ直撃する。
「いっ……!」
痛みに鼻を押さえつけるアルセインの足をわざと踏んで馬車から降りると、先ほどから愉快そうにこちらを見つめていたルシアンの元へ歩み寄り、私は腕を組んで顎を上げた。
「私、そろそろアルスハイン家の公爵夫人として、アルスハイン騎士団員を従者にした方がいいみたい」
「彼以上にあなたに合う者は見つからないと思いますが、そこまで仰るのなら探してみましょう」
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「まさか、アルスハイン公爵様が我が屋敷へお越しくださる日が来ようとは……」
アルセインに案内されるまま街道を少し進むと、一軒の屋敷が姿を現した。
華美な造りではないが、手入れの行き届いた庭と石造りの館からは代々領地を守ってきた家らしい堅実さが感じられる。
屋敷の扉を叩くと、主人らしき中年の男が現れた。
突然の来訪にもかかわらず、彼はすぐに姿勢を正し、恭しく一礼する。
「ようこそお越しくださいました、公爵様」
そして、その視線が私へ移る。
「それに……聖女様までご一緒とは。これほど光栄なことはございません」
聖女という呼び方をされ、先程の御者と馬のことを思い出し、胸の奥に小さな苛立ちが灯る。
しかし、突然押しかけた私たちを快く迎え入れてくれた相手に不躾な態度をとろうとは到底思えなかった。
私はできる限り穏やかな笑みを浮かべると、夫の背に隠れるように一歩足を引く。
「申し訳ありません、あいにく妻が街へ出かけるのに馬車を利用しておりまして。すぐに戻ってくると思うのですが……」
「そうか。では、それまでこちらで休ませていただけるだろうか」
「もちろんでございます、公爵様。そうだ、もしよろしければ遊船などいかがでしょう。この辺りには何もございませんが、湖の景色だけは自慢でして。きっと聖女様にもお気に召していただけるかと」
「それは素敵ですね、ぜひ拝見してみたいですわ」
本音を言うと、遊船などする気にはならなかったが、これ以上我儘を言って困らせるのも気が引けたので私は頷いた。
「では、すぐに用意するよう伝えて参ります」
分かりやすく顔を明るくした子爵は、深く一礼すると足早に廊下の奥へと姿を消した。
その背を見送ったところで、先ほどから感じていた熱い視線にゆっくりと振り返る。
廊下の柱の陰から、小さな女の子がこちらを窺っている。
年の頃はまだ六つほどだろうか。
ふわりとした栗色の髪に愛らしい顔立ち。身なりからして、子爵の娘なのだろう。
「どうかしたの?」
声をかけてみると、完璧に隠れているつもりだったのか少女の肩がびくりと大きく跳ねた。
恐る恐る壁から顔を覗かせると、おずおずと私を見つめる。
「ほ、ほんとうに、聖女さまなんですか……?」
「残念ながら、そうみたいね」
「やっぱり!」
ぶっきらぼうにそう答えると、少女はぱっと花が咲くように表情を明るくした。
「こちら方はアルスハイン公爵様ですよね? 一度だけお見かけしたことがありますの!」
頬をほんのり染めながらそう言ったかと思えば、今度は隣に立つアルセインをじっと見つめる。
「じゃあ……この方が皇太子様ですか?」
「皇太子だなんて、とんでもありません」
アルセインは困ったように苦笑しながら胸に手を当て、一礼した。
「僕は聖女様の護衛騎士です。初めまして、ご令嬢」
「騎士様……だったら、皇太子様はどちらにいらっしゃるんですか?」
「どうしてそこで皇太子の名前が出てくるのか、さっぱり分からないわ」
呆れを隠せずに冷たく言い放つと、少女はきょとんと目を丸くした。
「だって、聖女様と皇太子様って恋人同士なんですよね?」
あまりの衝撃に石のように固まった私の代わりに、アルセインが口を開く。
「そ、それは聖女レティシア様のことではありませんか? この国にはお二人の聖女様がいらっしゃいますから……」
「違うよ、フレイア様であってます! だってリリー嬢が言っていたもの。聖女フレイア様と皇太子様は昔からの恋仲だって!」




