第二話 最も美しい王女
1
バオ・ナン王女は、母の棺の前で、一輪の白いバラを置いた。
彼女は38歳になっていた。パリのファッション界で知られる存在だ。その美しさは、「ベトナムで最も美しい王女」と呼ばれた幼少期の評判を、大人になってもなお保ち続けている。しかし、彼女の美しさには、単なる華やかさだけではない何かがあった——母から受け継いだ強さと、母を失った悲しみが、その瞳の奥に静かに宿っている。
「ママ、あなたはいつも言っていたわ。『美しさは武器でもあり、呪いでもある』って。」
彼女はそう呟いた。
バオ・ナンは、母の言葉をよく覚えている。幼い頃、彼女が鏡の前で自分の容姿を気にしていると、母はいつもこう言った。
「美しいことは素晴らしいことよ。でも、美しさだけに頼ってはいけない。美しさは、いつか必ず衰える。しかし、あなたの知性と意志は、永遠にあなたのものだ。」
その言葉が、彼女の人生の指針となった。
2
バオ・ナンがパリでファッションデザインを学び始めたのは、1950年代のことだ。
母の勧めだった。
「あなたは、美しいものを作る才能がある」と母は言った。「それを、ただの趣味で終わらせるのはもったいない。プロとして生きなさい。」
バオ・ナンは、その言葉に従った。彼女はパリの名門デザイン学校に入学し、そこで才能を開花させた。彼女のデザインは、東洋の繊細さと西洋のモダニティを融合させた独自のスタイルで、すぐに業界の注目を集めた。
しかし、彼女が直面したのは、称賛だけではなかった。
「ベトナム人のくせに、フランスのファッションを語るなんて。」
「元王女がデザイナーだって?笑わせるわ。」
「あの美しさで、きっとコネで入ったんでしょ。」
そんな言葉が、彼女の耳に届くこともあった。彼女はそれに傷つきながらも、決して折れなかった。
ママも、こんな思いをしたのだろう。
紫禁城で。あの冷酷な皇太后に囲まれて。
彼女は、母の強さを思い出し、自分を奮い立たせた。
3
1960年代、バオ・ナンはパリで自分のブランドを立ち上げた。
「ナム・アン」——それは、彼女の母の名前と、ベトナムの「安らぎ」を意味する言葉を組み合わせたものだった。
「なぜ、そんな名前を?」友人たちは尋ねた。
「私の母は、私に多くのことを教えてくれた。美しさの意味、強さの意味、そして——自分を信じることの大切さを。その恩返しに、私は彼女の名前を、永遠に残したいの。」
彼女のコレクションは、ベトナムの伝統的な刺繍やシルクを、フランスのモダンなシルエットに融合させたものだった。それは、彼女自身のアイデンティティそのものだった。ベトナム人であり、フランス人でもある。その両方を受け入れ、両方に誇りを持つこと。
彼女のショーは、パリのファッションウィークで高い評価を受けた。批評家たちはこう書いた。
「バオ・ナンは、単なるデザイナーではない。彼女は、二つの文化の架け橋だ。彼女の作品には、東洋の精神と西洋の技法が完璧に調和している。」
4
しかし、成功の裏で、彼女はある孤独を抱えていた。
母の死後、その孤独はさらに深まった。
彼女には、誰にも話せない秘密があった。それは、彼女が幼い頃から感じていた「自分は誰か」というアイデンティティの揺らぎだ。
ベトナムで生まれ、フランスで育った。彼女は、ベトナムのことはほとんど覚えていない。しかし、人々は彼女に「ベトナム人」としてのアイデンティティを求めた。一方で、フランス人は彼女を「異邦人」として扱った。彼女は、どちらの国にも完全には属せなかった。
「ママは、どうやってその孤独に耐えたんだろう。」
彼女は、夜遅くにアトリエで一人、裁縫をしながら思った。
母は、決して孤独を口にしなかった。いつも強く、いつも優しく、そして——いつも一人で戦っていた。
「私は、ママにはなれない。」
彼女はそう呟いた。
しかし、その言葉の裏で、彼女は知っていた。自分もまた、母と同じ道を歩んでいるのだと。
5
1970年、バオ・ナンはある男性と出会った。
彼はフランス人のジャーナリストで、ベトナム戦争の取材をしていた。彼は、彼女にベトナムの話を尋ねた。彼女は、自分が知っている限りのことを話した。母から聞いた話、王宮での記憶、そして——故郷への想い。
「あなたは、ベトナムに戻りたいのですか?」彼は尋ねた。
「わかりません」彼女は答えた。「戻れるなら、戻りたい。でも——戻ったところで、私はあの国の人間として受け入れられるでしょうか?私は、ベトナム語もろくに話せない。習慣も、半分しか知らない。」
「それでも、あなたはベトナム人でしょう?」
その言葉が、彼女の胸に突き刺さった。
私は、ベトナム人だろうか。
それとも、フランス人だろうか。
あるいは——そのどちらでもない、ただの「中間」の存在だろうか。
彼女は、その夜、母の日記を開いた。母は、そこにこう書いていた。
「私は、ベトナム人であり、フランス人でもある。それは、弱さではない。強さだ。両方の世界を知っているからこそ、私は新しいものを生み出すことができる。あなたも、そうなさい。自分が誰であるかを恐れず、そのアイデンティティを誇りに思いなさい。」
バオ・ナンは、その言葉を何度も読み返した。
そして、涙が止まらなかった。
6
1975年、サイゴン陥落。
その知らせがパリに届いた時、バオ・ナンはアトリエで新作のドレスを縫っていた。彼女の手は一瞬止まったが、すぐに再び針を動かし始めた。
「ママは、何と言うだろう。」
彼女は、母がこの知らせをどう受け止めるか、想像した。
母は、悲しむだろう。しかし、絶望はしない。彼女はいつも言っていた——「国は変わる。しかし、国民は変わらない。ベトナム人は生き続ける。」
バオ・ナンは、その年のコレクションを「サイゴン・ブルース」と名付けた。
それは、故郷への哀惜と、それでも前に進む決意を込めた作品群だった。批評家たちは、そのコレクションに涙した。彼らは、そこに「失われた故郷への挽歌」を感じ取ったのだ。
7
1980年、バオ・ナンは母の遺産を整理していた。
アンディン宮殿から持ち出した品々。母の手紙。そして——1943年に書かれた、あの「送られなかった手紙」を見つけた。
彼女は、その手紙を読んで、しばらく動けなかった。
「香港にいるその女性のお世話をしているそうですね。どうぞ、彼女を大切になさってください——私は、もはやあなたに嫉妬はしません。嫉妬は、愛しているからこそ生まれる感情です。私は——あなたを愛することを、やめました——」
それは、嫉妬の手紙ではなかった。訣別の手紙だった。そして、母の最後の強さの証だった。
「ママ——」
バオ・ナンは、その手紙を抱きしめた。
あなたは、どれほど孤独だったのだろう。
どれほど苦しかったのだろう。
それでも、あなたは決して折れなかった。
彼女は、その手紙を公開するかどうか、迷った。しかし、最終的には公開しないことを選んだ。それは、母の最もプライベートな感情だ。彼女が生前に公開しなかったものは、死後も公開されるべきではない。
彼女は、その手紙を、母の日記と一緒に、大切に保管した。
8
1990年代、バオ・ナンはファッションデザイナーとしての活動に加えて、ベトナムの伝統工芸を支援する活動を始めた。
彼女は、ベトナムの絹織物や刺繍の職人たちと協力し、彼らの技術をフランスのファッションに取り入れた。それは、単なるビジネスではなく、彼女の「使命」だった。
「母は、私にベトナムを忘れるなと言った。私は、その言葉を守っている。ただ忘れないだけでなく、ベトナムの美しさを世界に伝えたい。」
彼女は、ハノイやホイアンを訪れ、職人たちと直接交流した。彼らは、彼女を「王女様」と呼んだが、彼女はいつもこう言った。
「私は、ただのデザイナーです。あなたたちの技術を、世界に届ける手伝いをする者です。」
その謙虚な姿勢が、多くの人々の心を掴んだ。
9
2000年、バオ・ナンは自伝を出版した。
『ベトナムのバラ——ナムフォン皇后の娘の回想』というタイトルだった。その本の中で、彼女は母についてこう書いている。
「私の母は、ベトナム最後の皇后だった。しかし、私にとって彼女は、単なる皇后ではなかった。彼女は、私に生きる意味を教えてくれた人だった。
母は、私に美しさの本質を教えてくれた。それは、外見の美しさではない。内面の強さと優しさが、本当の美しさを生むのだと。
母は、私に孤独の意味を教えてくれた。孤独は、決してネガティブなものではない。自分自身と向き合うための、大切な時間なのだと。
母は、私にベトナムのことを教えてくれた。たとえ遠く離れていても、血は繋がっている。故郷は、決して忘れてはいけないものだ。」
その本は、多くの国でベストセラーになった。人々は、最後の皇后の物語に感動した。そして、その娘の視点から語られる物語に、より深い共感を覚えた。
10
バオ・ナンは、生涯独身を通した。
「なぜ結婚しないの?」と尋ねられると、彼女はいつもこう答えた。
「私は、母の人生を見てきた。母は、愛する人と結婚したけれど、その愛は彼女を幸せにはしなかった。愛は、時に人を傷つける。私は、その傷を負いたくなかった。」
しかし、それは本心ではなかった。
本当の理由は——彼女が、母と同じように「誰にも完全には属せない」ことを知っていたからだ。彼女は、ベトナム人としてもフランス人としても、完全には受け入れられなかった。そんな自分が、誰かを本当に愛せるのだろうか。誰かに本当に愛されるのだろうか。
その不安が、彼女を結婚から遠ざけた。
11
2011年、バオ・ナンは73歳でこの世を去った。
彼女の遺言には、こう書かれていた。
「私の遺産は、すべてベトナムの子供たちの教育のために使ってください。私は、母からベトナムを忘れるなと教えられた。その教えを、次の世代に伝えたい。」
彼女の葬儀には、多くの人々が参列した。ファッション業界の人々、ベトナムの文化人たち、そして——母の旧友たちも。
棺の上には、一輪の白いバラが置かれていた。
それは、38年前に彼女が母に捧げたのと同じ花だった。
「さようなら、バオ・ナン。」
参列者の一人がそう呟いた。その声には、哀悼と敬意が込められていた。
彼女は、母の遺産を守り、母の教えを次の世代に伝えた。彼女の人生は、母の人生の続きであり、同時に——彼女自身の物語でもあった。
12
バオ・ナンの死後、彼女のアトリエは、ベトナムの伝統工芸を支援する財団として生まれ変わった。
その名前は「ナムフォン財団」。
「母の名前を、永遠に残したい。」
彼女は生前、そう言っていた。その願いは、叶えられた。
財団は、今日もベトナムの職人たちを支援し、彼らの技術を世界に発信し続けている。そして、その活動の根底には、常にナムフォン皇后の教えがある。
「ベトナムを忘れるな。」
その言葉は、母から娘へ、そして娘から次の世代へ——永遠に受け継がれていく。




