第二部 母の遺産 第一話 王子の戦い
1
1979年、フランス中部の小さな村で行われたナムフォンの葬儀。
参列者はわずか二十人ほどだった。子どもたちと、数人の親しい友人、そして旧王宮で彼女に仕えた侍女たち。かつてベトナムの権力の頂点に立った女性の最後の旅立ちは、驚くほど質素だった。
バオ・ロンは、母の棺の前に立ち、長い間動かなかった。
彼は41歳になっていた。黒いスーツが、鍛え抜かれた体躯を包んでいる。フランス外人部隊での訓練が、彼の立ち居振る舞いに独特の緊張感を与えていた。かつて紫禁城で育った王子の面影は、その鋭い目つきの中にだけかすかに残っている。
「ママ」
彼は声に出さずに呟いた。
私は、あなたの言うことを聞かなかった。
あなたは、私に「ベトナムに戻れ」と言った。あの国を忘れるなと。しかし私は——
彼の手が、棺の木を撫でた。冷たかった。
「私は、あなたに似たくなかった。あなたは、誰にも負けなかった。誰にも支配されなかった。でも、私は——」
その言葉は、彼の喉の奥で消えた。
バオ・ロン王子。グエン朝最後の嫡男。彼の人生は、母のそれとは対照的に、常に「誰かのために戦う」ことで満ちていた。王宮で育った少年は、やがてフランス外人部隊という「戦場」へと身を投じる。その選択の裏にあったものは、何なのか。
2
バオ・ロンが最初にフランス外人部隊への入隊を決意したのは、1950年のことだった。彼はまだ14歳だった。
「なぜ、外人部隊なんだ?」
ナムフォンは息子に尋ねた。彼女の声は穏やかだったが、その目は鋭く息子を捉えていた。
バオ・ロンは答えに窮した。正直なところ、彼自身にもその理由が完全には理解できていなかったのだ。
「わからない。でも——あそこに、何かがある気がするんだ」
「何か?」
「自分が——何者なのか、わかる気がする」
ナムフォンは深いため息をついた。彼女は、息子の言葉が何を意味するのか、痛いほど理解していた。
彼は、二つの世界の間に立っていた。ベトナム人であり、フランス人でもある。王子であり、亡命者でもある。過去を持ちながら、未来を生きなければならない。その矛盾を抱えながら、自分のアイデンティティを探しているのだ。
「わかった」ナムフォンは言った。「あなたが決めたことなら、私は止めない。ただし、一つだけ約束してくれ。」
「何?」
「生きて帰ってくること。そして——あなたが誰であろうと、あなたは私の息子だということを忘れないでほしい」
バオ・ロンはうなずいた。その時、彼は母の目に涙が浮かんでいるのを見た。彼女は決して泣かない女だった。それなのに。
その涙が、彼の胸に深く刻まれた。
3
外人部隊での生活は、想像を絶するものだった。
厳しい訓練。過酷な規律。そして、国籍も言語も異なる男たちとの共同生活。バオ・ロンはそこで、初めて「平等」というものを経験した。
王宮では、彼は「王子」だった。誰もが彼に敬意を払い、誰もが彼に従った。しかし、外人部隊では、彼はただの「新兵」だった。彼の過去は何の意味も持たない。彼の血筋も、彼の称号も、そこでは無価値だ。
「お前、名前は?」
教官が尋ねた。
「バオ・ロンです」
「変な名前だな。どこから来た?」
「ベトナムです」
「ベトナム?ああ、あの戦争の国か。お前、戦いたくて来たのか?」
「——はい」
教官は笑った。「馬鹿だな。戦いたくて来る奴なんて、いないんだよ。でも——お前は、何か理由があるんだろう。それが何かは知らんが、その理由を忘れるな。戦場では、それだけがお前を生かす」
その言葉を、バオ・ロンは生涯忘れなかった。
4
1953年、バオ・ロンは第一次インドシナ戦争に出征した。彼が戦う相手は、ベトナム独立同盟——いわゆるベトミンだった。
かつて母が「新しい時代の象徴」として期待を寄せたベトミンと、自分が戦うことになる。その皮肉を、彼は感じずにはいられなかった。
しかし、彼は戦った。
戦場で彼が見たものは、地獄だった。仲間が倒れ、敵も倒れる。血と泥と硝煙の匂い。死の間際に叫ぶ、母国語で。彼にはその言葉が理解できた。
「母さん——」
「助けて——」
「ベトナム——」
バオ・ロンは、自分の銃を握る手が震えるのを感じた。
私は、何のために戦っているのか?
その問いは、彼の心の中で繰り返し反響した。しかし、答えは出なかった。
5
戦争が終わった後、バオ・ロンは一度ベトナムに戻った。1955年のことだ。
それは、母の願いだった。
「一度でいいから、故郷を見てきなさい。あなたが戦った国を。あなたが守ろうとした国を。」
彼は、サイゴンに降り立った。そこは、彼が幼い頃に過ごした場所とは、まったく異なっていた。戦争の傷跡が至るところに残っている。人々の表情は疲れ果てている。しかし、それでも——彼らは生きていた。
彼は、街を歩いた。昔、母と一緒に通った市場。アンディン宮殿があった場所。今は、別の建物が建っている。
彼はその場所に立ち、長い間動かなかった。
「王子様?」
声をかけられた。振り返ると、年老いた女性が立っていた。彼女は、かつてアンディン宮殿に仕えた侍女の一人だった。
「あなたは——」
「覚えていらっしゃいますか?私は、皇后様にお仕えしていた——」
バオ・ロンは、彼女の手を握った。その手は、皺だらけで、しかし温かかった。
「覚えています。あなたは、いつも母のためにスープを温めてくれていた——」
侍女は涙を流した。「皇后様は、お元気ですか?」
「元気です。フランスで、私たちと一緒に暮らしています」
「そうですか——よかった。本当によかった——」
その時、バオ・ロンは初めて理解した。母がどれほど多くの人々に愛されていたかを。そして——その愛が、彼自身のアイデンティティの一部であることを。
6
1960年代、バオ・ロンはアルジェリア戦争に従軍した。
フランスが植民地として保持しようとしたアルジェリアと、独立を求めるアルジェリア解放戦線との戦争だ。そこでもまた、彼は「支配する側」と「される側」の間で戦っていた。
「お前は、どちらの味方なんだ?」
同僚の兵士が尋ねた。
「わからない」バオ・ロンは答えた。「ただ——与えられた任務を遂行しているだけだ」
その答えは、彼自身をも満足させなかった。しかし、彼には別の答えが見つからなかった。
ある夜、彼はテントの中で母のことを考えていた。
ママなら、どうするだろう。
母は、いつも自分の意志を持っていた。誰かに与えられた任務を遂行するだけの人生を、彼女は決して選ばなかった。
しかし、彼は——彼は、与えられた任務を遂行することしかできなかった。なぜなら、それ以外の選択肢を、彼は知らなかったからだ。
7
1970年、バオ・ロンは外人部隊を退役した。
彼は41歳だった。20年以上の軍歴。戦場を渡り歩いた男は、ついに戦いを終えた。
彼はフランスに戻り、小さな町で静かに暮らし始めた。母がいる村の近くだ。
「よく帰ってきたな」ナムフォンは言った。「もう、戦うことはないのか?」
「もう、十分だ」バオ・ロンは答えた。「これからは、静かに生きたい」
ナムフォンは微笑んだ。「それが、一番の幸せだわ」
彼女は、息子の顔をじっと見つめた。その顔には、かつての王子の面影はなかった。しかし、その目には——母と同じ、強い意志の光が宿っていた。
8
1979年、ナムフォンが亡くなった。
バオ・ロンは、母の死を深く悲しんだ。しかし、それは喪失の悲しみだけではなかった。彼は、自分が母の期待に応えられなかったという罪悪感も感じていた。
「ママは、私にベトナムのために何かをしろと言った。でも、私は——何もできなかった」
彼は、妹たちにそう告白した。バオ・ナンは、兄の肩を抱いた。
「違うよ。お兄ちゃんは、十分に戦った。ママは、それを誇りに思ってる」
「本当にそう思うか?」
「思う。ママは、私たちに『自分らしく生きろ』と言った。お兄ちゃんは、自分らしく生きたじゃないか。戦うことを選び、戦い抜いた。それが、お兄ちゃんの人生だ」
バオ・ロンは、しばらく沈黙した。そして、小さくうなずいた。
「そうだな。私は、私の人生を生きた。それで——いいんだな」
彼は、母の棺の前に立った。そして、最後にこう告げた。
「ママ、私は戦い抜いた。あなたの言う通り、私は私の人生を生きた。そして——私は、誇りに思う。あなたの息子であることを。」
9
その後、バオ・ロンはフランスで静かに暮らした。
彼は、母が書き残した本の編集を手伝った。ベトナムの歴史を子どもたちに伝えるための、あの本だ。彼は、母の言葉を一つ一つ拾い上げ、整理し、そして出版した。
「これは、母の遺産だ」彼は言った。「ベトナムを忘れないという、母の遺産」
彼はまた、母から教えられたベトナム語を、自分の子どもたちに教えた。彼らはフランス生まれのフランス人だったが、バオ・ロンは彼らにベトナムの血を忘れさせなかった。
「あなたたちは、ベトナム人だ」彼は言った。「たとえベトナムに行ったことがなくても、ベトナムの土を踏んだことがなくても、あなたたちの血は、あの国から来ている。それを忘れるな。」
10
1997年、バオ・ロンは静かに息を引き取った。
彼の最期の言葉は、母と同じだった。
「ベトナム——」
彼は、生涯を通じて、自分のアイデンティティと戦い続けた。王子でありながら、兵士であり、亡命者であり、そして——母の息子だった。
彼の墓は、母の隣に建てられた。フランスの小さな村の墓地で、二人の墓は並んで立っている。
そこには、華やかさはない。しかし、そこには——ある種の「静かな誇り」があった。
彼は、母の期待に完全に応えることはできなかったかもしれない。しかし、彼は自分自身に正直に生きた。
それが、彼の戦いだった。
そして、それは——彼の母が、彼に教えたことだった。




