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ナムフォン皇后——王朝の終焉を見つめた女  作者: はまゆう


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第四話 子宮を持つ皇后

1


バオ・ロン王子が生まれた時、ナムフォンは21歳だった。


出産の痛みは、彼女に「生きている実感」をもたらした。パリでの知識的な喜びとは異なる、もっと肉感的で、もっと根源的な感覚。自分の身体が、新しい命をこの世に送り出す——その神秘は、どんな哲学書よりも、彼女の心を揺さぶった。


産後、彼女は赤ん坊を胸に抱き、長い間、その小さな顔を見つめていた。


黒い髪。閉じた瞼。微かに震える指先。すべてが完璧で、すべてが愛おしい。


この子は、私の子。誰のものでもない。


その瞬間、彼女は同時に理解した。この子は「帝国の嫡男」でもある。誰かが——ドアン・ホイが——この子を奪いに来る。


彼女は赤ん坊の額にそっとキスをした。


「あなたは、私が守る」


その呟きは、赤ん坊には聞こえなかった。しかし、ナムフォン自身の心には、深く刻まれた。


2


バオ・ナン王女の妊娠がわかった時、ナムフォンはある決断をしていた。


「今度の出産は、フランス人医師を呼びます」


彼女はバオダイにそう告げた。その声には、もはや相談のニュアンスはなかった。それは「決定」だった。


バオダイは困惑した顔をした。「でも、母が——」


「あなたのお母さまは、私の身体の主人ではありません」ナムフォンは彼の言葉を遮った。「あなたも、そうです」


その言葉は、バオダイにとって衝撃だった。これまで、誰も彼に「あなたは主人ではない」と言ったことがなかったからだ。皇帝である彼は、少なくとも建前上は、すべての主人だった。


しかしナムフォンは、その建前を優しく、しかし容赦なく打ち壊した。


「あなたは、自分の身体の主人でさえありません。あなたのお母さまが、あなたの食事、あなたの行動、あなたの時間を全て決めている。では、どうして私の身体の主人であり得るのですか?」


バオダイは唇を噛みしめた。彼の目には、怒りではなく、苦しみが浮かんでいた。


「お前は——ひどいことを言う」


「真実です」ナムフォンは静かに言った。「そして、真実を言うことが、なぜひどいのですか?」


その問いに、バオダイは答えられなかった。


彼はその場を去った。しかし、この時は、去る前に一瞬立ち止まり、何か言いかけて——やめた。


ナムフォンは、その背中を見ながら思った。


彼は、理解したのだろうか。理解しようとしているのだろうか。


答えは、おそらく「ノー」だ。しかし、その「ノー」を受け入れることが、彼女の新しい強さだった。


3


バオ・ナン王女の出産は、ナムフォンにとって「戦い」だった。


戦いの相手は、身体の痛みではない。ドアン・ホイ皇太后だった。


出産直前、皇太后は「伝統的な儀式に従え」と命じてきた。具体的には、「出産の三日間、断食をし、神殿で祈れ」というものだった。


ナムフォンは断固として拒否した。


「医師が、それは危険だと言っています」


「医師?あのフランス人の医師か?」皇太后は嘲笑した。「フランス人が、ベトナムの伝統を知っているとでも?」


「伝統が、私の子を殺すわけにはいきません」


その一言で、皇太后の顔色が変わった。


「よくも——」


しかしナムフォンは引き下がらなかった。彼女は、自分の身体が自分のものであることを、この瞬間に証明しなければならなかった。もしここで引けば、彼女は永遠に皇太后の操り人形になる。


「私は、皇后です。そして、この子の母親です。母親として、自分の子を守る権利があります。それは、どの国の伝統にもあるはずです」


皇太后は、これ以上何も言えなかった。


ナムフォンは、その「勝利」に酔わなかった。彼女は、この勝利が一時的なものに過ぎないことを知っていたからだ。皇太后は、別の形で報復してくる。それは確実だった。


しかし、少なくとも今回は、彼女は自分の信念を貫いた。


そして、バオ・ナン王女は、健やかにこの世に生まれた。


4


バオ・ナン王女は、驚くほど美しい赤ん坊だった。


宮廷の人々は「まるで月から降りてきた仙女のようだ」と囁いた。その噂はすぐに王宮の外に広がり、やがて「ベトナムで最も美しい王女」という称号が、彼女に付いて回るようになる。


しかし、ナムフォンにとって重要なのは、美貌ではなかった。


「この子は、私に似ている」


彼女はそう感じた。バオ・ロンがバオダイに似ているのに対し、バオ・ナンはナムフォン自身の子供時代を彷彿とさせた。その大きな瞳。物思いにふける時の表情。そして、何より——周囲の空気を敏感に感じ取る繊細さ。


ナムフォンは、この娘に特別な愛情を注いだ。それは、他の子供たちよりも贔屓するという意味ではない。ただ、バオ・ナンの中に、自分自身の子供時代の影を見たのだ。


この子も、二つの世界の間に立つことになるだろう。ならば、その覚悟を、幼いうちから教えなければならない。


彼女は、バオ・ナンが三歳になった時から、フランス語で話しかけることを始めた。同時に、ベトナムの民話も語って聞かせた。


「あなたは、ベトナム人であり、フランス人でもある」と彼女は娘に言った。「それを恥じる必要はない。むしろ、誇りに思いなさい」


バオ・ナンは、母親の言葉を、まだ完全には理解できなかった。しかし、その声の優しさと、その瞳の強さは、彼女の心に深く刻まれた。


5


1940年、世界は戦争の中にあった。


フランスがナチス・ドイツに占領されたという知らせは、ベトナムにも衝撃をもたらした。これまで「フランスの植民地」として存在してきたベトナムにとって、本国の陥落は——象徴的な意味で——支配構造そのものの揺らぎを意味していた。


王宮の中でも、その影響は無視できなかった。


「フランス人は、もう支配者ではない」——そんな噂が、宮廷内の使用人たちの間で囁かれるようになった。


ドアン・ホイ皇太后は、この状況に敏感に反応した。彼女は、フランス色を排除し、「純粋なベトナムの伝統」への回帰を強調し始めた。


それは、ナムフォンへの間接的な攻撃だった。


「フランス育ちの皇后など、もはや時代遅れだ」——皇太后の側近たちは、そう囁いた。


ナムフォンは、その動きを冷静に観察していた。


フランスの支配が弱まれば、皇太后は私を追い出そうとするだろう。だが——それは同時に、チャンスでもある。


彼女は、バオダイにこう提案した。


「子どもたちを連れて、フランスへ渡りたい」


バオダイは驚いた。「今、フランスは戦争中だ。危険すぎる」


「では、どこなら安全なのです?ここ——紫禁城ですか?あなたのお母さまの支配下ですか?」


バオダイは言葉に詰まった。


「私は、子どもたちを戦争から守りたい。そして——皇太后からも守りたい」


「母は——悪い人ではない。ただ——」


「わかっています」ナムフォンは優しく言った。「彼女は、あなたを愛している。あまりに強く、あまりに独占的に。でも、その愛が、私たちを壊している」


バオダイは、長い沈黙の後、こう答えた。


「もう少し——待ってくれ。状況が落ち着いたら、考えよう」


その「もう少し」は、結局永遠に訪れなかった。


6


1942年9月、バオ・ルオン王女が誕生した。


この時、バオダイは香港にいた。「公務」という名目だったが、実際は——誰もが知っていた——新しい愛人との時間を過ごすためだった。


ナムフォンは、一人で出産した。


痛みは、以前よりも激しかった。身体の衰えを感じた。しかし、彼女は声を殺して耐えた。叫ぶことは、弱さの証だと彼女は信じていたからだ。


産後、彼女は赤ん坊を抱きながら、バオダイに手紙を書いた。


「無事、女の子が生まれました。母子ともに健康です。あなたは、この子の名前を考えてください。私は、もう、考える力が残っていません」


その手紙には、非難の言葉は一つもなかった。しかし、読む者にとっては、それが最も強い非難だった。


バオダイは、その手紙を受け取って、初めて自分の行動を恥じたと言われている。しかし、それでも彼はすぐに戻らなかった。戻ったのは、その一ヶ月後だった。


赤ん坊を抱いた時、彼はこう言った。


「バオ・ルオン。そう名付けよう。『偉大な栄光』という意味だ」


ナムフォンは、頷いた。しかし、その目は冷めていた。


栄光?あなたには、与えられなかったものですね。


その言葉は、口には出さなかった。しかし、バオダイは、彼女の目の中の冷たさを感じ取った。


その瞬間から、二人の間の溝は、決定的なものとなった。


7


1943年、ナムフォンは「あの手紙」を書いた。


歴史に残る「ベトナムで最も嫉妬に満ちた手紙」——しかし、その評価は間違っている。少なくとも、ナムフォン自身の意図は、まったく異なるものだった。


実際の手紙の全文は、こうである。


「拝啓、バオダイ皇帝陛下。


香港にいるその女性のお世話をしているそうですね。どうぞ、彼女を大切になさってください。私たちは、ここで静かに、子どもたちのために、日々を過ごしています。


あなたが帰らぬことで、私たちが苦しむことはありません。むしろ、それは、私たちにとって、一つの恵みです。なぜなら、あなたが帰らない限り、ドアン・ホイ皇太后の支配からも、相対的に逃れることができるからです。


私は、もはやあなたに嫉妬はしません。嫉妬は、愛しているからこそ生まれる感情です。私は——あなたを愛することを、やめました。


しかし、それは、あなたを責めているのではありません。あなたも、被害者です。母親という檻の中に閉じ込められた、哀れな鳥です。


私は、あなたを解放することはできません。しかし、自分自身と子どもたちを解放することはできます。


ですから、どうぞ、帰らないでください。私たちのために。そして、あなた自身のために。


あなたがかつて愛した、ナムフォンより」


この手紙は、結局、送られなかった。ナムフォンは、最後の瞬間に、それを引き裂いた。


彼女は、こんなことを書いても、バオダイは理解しないと悟ったからだ。彼には、この手紙の真意——嫉妬ではなく、訣別——を読み取る感受性が、もう残っていなかった。


彼女は、引き裂いた紙片を、小さな箱にしまった。そして、その箱を、アンディン宮殿の最も奥深い場所に隠した。


その箱が発見されたのは、彼女の死後、半世紀以上が経ってからだった。


8


1944年11月、バオ・ザン王女が生まれた。


五番目の子供、そして最後の子供。


出産は、前回よりもさらに困難だった。ナムフォンは、出血が多く、一時は危篤状態に陥った。フランス人医師が駆けつけ、必死の処置を行った。その甲斐あって、彼女は一命を取り留めた。


しかし、この出産で、彼女の身体は大きく損なわれた。医師は「これ以上のお産は、命に関わります」と告げた。


ナムフォンは、その言葉を聞いて、ほっとしたような気持ちになった。


もう十分だ。五人の子がいる。これで、私の役割は終わった。


バオダイは、この時も、立ち会わなかった。彼はダラットにいて、「狩猟」をしていた。後になって知らせを聞き、慌てて戻ってきたが、その時には、ナムフォンはすでに回復に向かっていた。


「すまなかった」彼は言った。「私は——」


「謝らないでください」ナムフォンは、ベッドの上で、かすかな声で言った。「あなたの謝罪は、もう、私には何の意味もありません」


バオダイの顔色が、土色に変わった。


「お前——」


「子どもたちは、元気です」ナムフォンは彼の言葉を遮った。「それが、何よりです。あなたも、そう思いませんか?」


バオダイは、何も言えなかった。


その時、彼は完全に理解した。自分は、この女性を、もう取り戻せないということを。


9


1945年の初め、ナムフォンは、自分の人生を振り返る時間を持った。


彼女は、アンディン宮殿の庭園に一人で立ち、冬の冷たい空気を吸い込んだ。遠くから、子どもたちの声が聞こえる。バオ・ロンとバオ・ナンが、弟や妹たちと遊んでいるのだ。


私は、皇后になった。そして、母親になった。


皇后としては、失敗だったかもしれない。皇太后に抵抗しきれず、夫を私のもとから遠ざけてしまった。


しかし——母親としては、成功している。


彼女はそう信じていた。少なくとも、子どもたちは、愛情を一身に受けて育っている。ドアン・ホイの干渉から守り抜いた。バオダイの不在を理由に、悲しみに暮れることもなかった。


私は、子宮を持つ皇后だ。


その言葉が、彼女の中で響いた。それは、彼女の人生を一言で表す言葉だった。


皇后としての責任は、重かった。しかし、母親としての喜びは、その重みを超えていた。


彼女は、庭園のベンチに座り、子どもたちの笑い声を聴きながら、静かに微笑んだ。


この微笑みは、後年、多くの写真に残されることになる「ナムフォン皇后の微笑み」——強さと優しさを兼ね備えた、あの微笑みだった。


しかし、この時はまだ、誰もその微笑みを写真に収めていなかった。


なぜなら、この微笑みは、彼女だけのものだったから。彼女と、子どもたちだけのものだったから。


10


1945年3月、日本軍がフランス領インドシナを完全に制圧した。


フランスの支配は、形式的に終わりを告げた。バオダイは、日本の支援の下で、「独立した」ベトナム帝国の皇帝として君臨することになった。


しかし、それは実際には、「フランスの植民地」から「日本の衛星国」に変わっただけに過ぎなかった。


バオダイは、この状況に、曖昧な態度を取った。彼は、日本の支援を受け入れつつも、完全に従属することを避けようとした。その曖昧さは、しかし、誰も満足させなかった。日本人は彼を「協力的でない」と苛立った。ベトナムの民族主義者は彼を「日本の傀儡」と非難した。


ナムフォンは、この政治的な駆け引きを、距離を置いて見ていた。


彼女は、バオダイに助言を与えようとは思わなかった。彼は、誰の助言も受け入れられない人間だと知っていたからだ。彼は、自分の運命を自分で決めることができない。だから、運命が彼をどこに連れて行くのか、ただそれを見守るしかない。


その見守る姿勢は、冷たさに見えたかもしれない。


しかし、それは冷たさではなかった。それは——彼女なりの優しさだった。


彼は、自分の人生を、自分で選択しなければならない。誰かに選ばせてはいけない。誰かに責任転嫁させてはいけない。


それが、彼にとって最も辛い道かもしれない。しかし、最も必要な道でもある。


ナムフォンは、その時、既に「最後」を見据えていた。


王朝の終焉。帝制の廃止。そして——新しい時代の始まり。


その新しい時代を、彼女は子どもたちと共に生きる。バオダイは、おそらく、その新しい時代には適応できない。彼は、過去の遺物として、歴史の中に消えていく。


ナムフォンは、その未来を、悲しみではなく、静かな覚悟で受け止めていた。


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