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ナムフォン皇后——王朝の終焉を見つめた女  作者: はまゆう


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第三章 ダラットの出会い

一九三二年九月、マリー=テレーズ・グエン・フー・ティ・ランはベトナムへ戻った。船の甲板に立ち、はるか彼方に浮かぶ陸地の輪郭を目にした瞬間、彼女の胸は言葉にできないほどの重さで満たされた。故郷の空気は、パリよりもはるかに重く、そして深くあたたかかった。湿った土の匂いが鼻腔を満たし、雨に濡れた樹々が太陽の光を反射してきらめいている。遠くからは市場の賑わいが風に乗って聞こえ、子どもの笑い声と鶏の鳴き声が混ざり合っていた。フランスで過ごした六年の時間は、彼女の身体から決して消えていなかった。けれど、この土地に足を踏み入れたとたん、彼女の皮膚が、筋肉が、骨の髄までが、ここが自分の場所であることを思い出した。それと同時に、自分がもう以前の自分ではないことも、痛いほど感じていた。


同じ年、もう一人の若者もフランスから帰国していた。阮福永瑞――後に皇帝保大として知られるその青年は、一九二六年に父帝が崩御したことを受けて即位していたが、学業を優先し、フランスでの生活を続けていた。しかし一九三二年、十九歳という若さで彼は帰国し、自ら政治の先頭に立つ覚悟を示した。その瞳には、若さゆえの情熱と、王朝の重圧に押しつぶされまいとする意志が同居していた。


二人は、同じ時代にフランスで育った。パリの石畳を踏み、同じフランス語を話し、西洋の教養を吸収した。けれど、出会うまでに歩んできた道のりは、あまりにも異なっていた。一人は南部のカトリック家庭に生まれ、自由と可能性を求めて海を渡った娘。もう一人は、千年にわたる王朝の最後の皇帝として、幼い頃から運命を背負わされ、フランスに送られた青年。彼女の旅は「何かになるため」のものだった。彼の旅は「何かであるため」のものだった。その違いは、彼らの内面にまったく別の影を落としていた。


出会いは、ダラットで訪れた。


高原の町ダラットは、フランス人たちが避暑地として築いた、人工的でありながらどこか異国情緒あふれる場所だった。涼しい空気が肌を撫で、針葉樹が風に揺れて低い音を立てる。石造りの建物はノートルダム大聖堂を連想させ、湖のほとりには優雅な別荘が点在していた。南部の湿った暑さとも、フエの荘厳な王宮とも違うその風景は、ランに遠いヨーロッパの記憶を静かに呼び起こした。同時に、彼女はここが「フランスの作ったベトナム」であることにも気づいていた。その二重性が、彼女の心に複雑な響きを生んだ。


ある晩、周囲の高官や貴族たちが集う催しの席で、ランは皇帝に紹介された。彼女は黒い絹のアオザイを身に着けていた。華美な刺繍も金糸の装飾もない、控えめで清らかな装いだった。周囲はフランスの最新ドレスや宝石で飾られた女性たちで賑わっていたが、その中にあって彼女の姿だけが異様に落ち着き、むしろひときわ目を引いた。後年、彼女自身は「あの夜、私を選んだのは服ではなく、その静けさだった」と語っている。保大もまた、彼女の前でほかの女性たちとは違う何かを感じ取ったに違いない。


保大は彼女に話しかけた。最初の言葉は何だったのか、二人とも後にはっきりとは覚えていないという。ただ、フランス語が自然に通じたことだけは覚えていた。パリの空気を知る者同士にしかない、ほのかな共通の感覚が二人の間に流れた。故郷を離れて学び、帰国した後に自分の国を新しく見つめ直すことになった者同士の、説明しがたい距離の近さがあった。彼女は彼の言葉に安心し、彼は彼女の沈黙に理解を見出した。


保大は、宮廷が望む縁談をいくつも知っていた。宮廷の古い家柄に生まれた娘、貴族の血を引く女性、政略結婚の候補者たち。だが、彼が自らの意思で選んだのはランだった。彼女が美しかったからだけではない。彼女の瞳には、彼がこれまで出会った誰にもない何かがあった。ベトナム語とフランス語を自由に行き来し、カトリックの信仰を持ち、南部の富裕な家に生まれながら、フランスの教育を受けていたこと。そのすべてが、若い皇帝の求める「新しさ」を体現していた。彼は彼女に、古い枠組みの外側から内側へと光を差し込む可能性を見たのだった。


ランにとっても、保大はただの皇帝ではなかった。彼は若く、洗練され、フランスで学んだ知識人でありながら、同時に千年の歴史を背負う王朝の頂点に立つ人物だった。彼と結ばれることは、ひとりの男性と結婚することでは済まない。それは、宮廷に入ること。カトリックの信仰を守りながら、儒教と仏教に根ざした伝統の中心に立つこと。そして、ベトナム最後の王朝とともに生きることを意味していた。彼女はその重みを、初めて彼と話した夜から感じていた。それでも、なぜか怖くなかった。むしろ、彼の瞳に映る自分を見たとき、何かが静かに決まったような気がした。


一九三三年、二人の交際は次第に周囲の知るところとなる。フエの宮廷には、驚きと困惑、そして強い反発が渦巻いた。ランはカトリック信者であり、しかも南部の平民出身だった。彼女を皇帝の妻に迎えることは、宮廷の古い秩序を大きく揺るがすことだった。宮中の古参たちは声を潜めて噂し合い、伝統を重んじる貴族たちは顔を曇らせた。しかし保大の意思は揺るがなかった。彼は彼女の手を離さなかった。


翌年三月、婚約が公に発表された。ベトナム中がその知らせに沸いた。新しい皇后はどんな女性なのか、人々は噂し合った。ランはその発表を、フエの自室で窓の外を見ながら聞いていた。庭の木々が風に揺れ、遠くからは宮廷の鐘の音が聞こえてくる。マリー=テレーズ・グエン・フー・ティ・ランは、結婚によって何を得るのか、まだすべては知らなかった。未来には希望も不安も同じだけ渦巻いていた。ただ、ダラットで交わした最初の会話の向こうに、もう後戻りできない人生が開いていることだけは、はっきりとわかっていた。彼女はその扉を、自分の手で押し開けようとしていた。

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