第四話 影の王女たち、そして最後の対峙
1
葬儀場の白い花の匂いが、息苦しいほど濃かった。
バオ・ルオンは棺の前で、指一本動かさずに立っていた。三十七歳。姉のバオ・ナンが泣き崩れ、兄のバオ・ロンが記者たちに気丈な声明を読み上げている間も、彼女はただ、母の顔を見つめていた。
「あなたは何も言わないのね」
隣に来たバオ・ナンが、涙を拭いながら囁いた。
「言葉にすると、消えてしまう気がして」
バオ・ルオンはそう答えた。それが、彼女にできる精一杯の告白だった。戦士のバオ・ロン、芸術家のバオ・ナン、文学者のバオ・チ——きょうだいの中で、バオ・ルオンだけが「何者でもない」と言われ続けてきた。だが、その日棺の前に立っていたのは、皮肉にも、母の生き方を誰よりも正確になぞっていた娘だった。
「あなたは私たちの中で、一番、母に似ている」
かつてバオ・ナンにそう言われたとき、バオ・ルオンは笑って流した。今、母の冷たい手に触れながら、その言葉の重さを初めて理解していた。
2
パリの小さなアパルトマンで、バオ・ルオンはタイプライターを叩いていた。
「皇后の娘なのに、なぜ秘書の仕事なんて」
同僚に聞かれるたび、彼女は手を止めずに答えた。
「母は私に、自分らしく生きろと言った。これが私の自分らしさよ」
だが夜、子供たちを寝かしつけたあと、彼女はよく台所に立ち、母の手つきを思い出しながら鍋をかき混ぜた。フランスのバターの香りに、ヌクマムの一滴を落とす。それは彼女だけが知っている、母の秘密の配合だった。
王宮の華やかさの裏に何があったかを、彼女は誰よりも知っていた。だからこそ、「普通の幸せ」というものを、宝物のように両手で抱えていた。
3
1979年、病室の白いカーテンが風で揺れていた。
母は五人の子供の中で、ただ一人、バオ・ルオンだけを呼んだ。
「後悔はしていない」母の声は、乾いた紙のように掠れていた。「でも一つだけ——あなたたちをベトナムで育てられなかった。それだけが、心残りだ」
バオ・ルオンは母の手を握った。骨と皮だけになった、それでも温かい手だった。
「ママ。どこで育つかじゃない。誰に育てられるかよ。私たちは、あなたに育てられた」
母は薄く笑った。長い沈黙のあと、ようやく言葉を継いだ。
「バオ・ナンは強い。バオ・チは賢い。でもあなたは——優しい。その優しさが、あなたの強さだと、私は知っていた」
それが、母が最後に残した評価だった。長年、誰にも見られなかった娘への、たった一つの答え合わせ。
4
母の死から半年、バオ・ルオンはアンディン宮殿の厨房の記憶を、一つずつ書き起こしていった。
フランス風にアレンジされたベトナム料理。それは、母が「言葉にできなかったこと」を語る、もう一つの言語だった。試作しては味を確かめ、涙で塩気が狂うことも一度や二度ではなかった。
「味は、記憶の中で一番長く残るものだ」
彼女はそう書いた。完成した本には『ナムフォン皇后の食卓——二つの文化が交わる場所』という題をつけた。それは料理本というより、声を持たなかった母への、遅すぎた手紙だった。
5
本が出た年、ある批評家がこう書いた。
「これは料理本ではない。ひとつの時代の証言だ」
反響は静かだが、確かなものだった。かつて宮殿に仕えた老女官の一人は、レシピ通りに作った一皿を口に運んで、何も言わずに泣いたという。
バオ・ルオンは印税をすべて、ベトナムの子供たちの栄養支援に注いだ。
「食べ物は体だけでなく、心も育てる。母が教えてくれたことを、次に渡したかっただけ」
6
一方、末の妹バオ・ザンには、母の記憶がほとんどなかった。
母がフランスに渡ったとき、彼女はまだ幼すぎた。ベトナムの話をされても、実感の伴わない遠い国の物語のように聞こえた。
覚えているのは、ただひとつ。抱きしめられた腕の温もりと、意味のわからないベトナム語の子守唄。
「私は母を覚えていない」後年、彼女はそう語った。「でも、母の愛だけは、体が覚えている」
フランス語しか話せず、ベトナムの習慣もほとんど知らない。それでも彼女は、譲れない一点だけは持っていた。
「私には母の血が流れている。それだけで、十分だった」
7
バオ・ザンはピアニストになった。
舞台の上で、彼女の指がふと止まる瞬間がある。クラシックの旋律の合間に、聴いたこともない異国の節が滑り込んでくる——それは、母が歌った子守唄の記憶だった。
「楽譜には書かれていません。でも、忘れたことは一度もない」
批評家たちは彼女の音楽を「東洋と西洋の対話」と呼んだ。だが彼女自身にとって、それは対話などという穏やかなものではなく、ほとんど知らない母との、たった一つの再会の方法だった。
8
「私は母ができなかったことをしているのかもしれない」
ある日、若いベトナム人音楽家たちで賑わう自宅で、バオ・ザンはそう漏らした。
「母はベトナムを離れることを選んだ。私は——母が愛した国に、戻りたい」
彼女は無名の若手音楽家たちのパトロンとなり、その作品をパリの舞台へと押し上げた。血のつながりよりも先に、音楽という手段で、彼女は母の国へ帰ろうとしていた。
9
2005年、母の生誕九十周年。バオ・ザンはハノイで単独コンサートを開いた。
会場の最前列に、かつて宮殿に仕えた老女官たちが並んでいた。ステージに立った瞬間、彼女は場違いな緊張に襲われた——自分は本当にここにいる資格があるのか。
だが最初の一音を弾いた瞬間、老女官の一人が声を殺して泣き始めた。
「皇后様を思い出します」演奏後、彼女は震える声で言った。「あの方も、よくアンディン宮殿でピアノを弾いていらっしゃいました。ベトナムの曲を、フランス風にアレンジして」
バオ・ザンは、その場に凍りついた。
——母も、同じことをしていた。
私がやっていることは、模倣ではない。継承だったのだ。
「この一夜を、母、ナムフォン皇后に捧げます」
マイクを握る手が、初めて震えなかった。
10
姉のバオ・ルオンは料理で、妹のバオ・ザンは音楽で。
きょうだいの中で最も「影」だった二人が、実は最も深く母を継いでいた——その事実に、二人自身が誰よりも遅れて気づいていく。
「私たちは母の影の中で生きている」バオ・ルオンは晩年、こう語った。「でも、影は悪いものじゃない。影があるから、光のありがたさがわかる」
11
2014年、バオ・ルオンが七十二歳で息を引き取った。
2017年、バオ・ザンもまた、静かに世を去った。七十三歳だった。
新聞の見出しは小さかった。姉や兄のような、公的な華やかさは持たなかった二人だから。しかし、その死を悼む人々の列は、決して短くなかった。
彼女のレシピで今夜も台所に立つ人。彼女の旋律を口ずさむ若い音楽家。そして——かつて宮殿で母に仕えた、もう数少ない女官たち。
母と同じように、彼女たちは静かに生き、静かに戦い、静かに去った。
だが遺したものは、静かではなかった。
12
戦士として。芸術家として。文学者として。そして——料理人として、音楽家として。
五人の子供たちは、それぞれの器で、母の教えを受け継いだ。
自分を信じること。誰にも支配されないこと。故郷を忘れないこと。
そして、愛すること。
ナムフォン皇后は、目立たなかった二人の娘の中でこそ、最も長く息をしていた。
その物語は、まだ終わっていない。




