-9- 〜ちょっとだけ、役に立てた気がする〜
城に戻ると、廊下の石畳が冷えていた。
外の空気を引きずったまま城門をくぐると、ぐっと体温が落ちる感じがする。
夕方というには少し早い時間だが、石造りの城の内側はもう薄暗かった。
「今日は楽しかったです」
廊下を歩きながら、未知流は言った。
「民も喜んでいたでしょう」とセドリックが答える。
「はい。喜んでもらえたとは思うんですけど──ちょっと怖かったです」
セドリックが横を向く。
「膝をついた人たちのことですか」
「笑顔でお世辞を言われるより、ずっと重いです」
「恐れるのは当然です」とセドリックは静かに言った。「この世界では、未来は与えられるものですから」
「与えられる──?」
「我々は生まれた時から、霧のない地図の上を歩いてきました。どこに行けばいいか、いつ何があるかを、予言が示してくれる。そこに希望を見つける習慣を持っていない。だから稀人様が来られると──」
彼はそこで、珍しく言葉を選ぶように沈黙した。
「我々は、霧の中に放り込まれた子供のようになる。そして、道しるべとなるのがあなたです」
廊下の角で、アレクシスが足を止めた。
「セドリックさん」と彼が言う。
「ゼノン様が、未知流様をお探しだったと思います。先ほど執務室の前で」
「ゼノン様が?」
セドリックの眉がわずかに上がった。
ゼノンは、小さな部屋にいた。
城の中でも人通りの少ない一角で、扉を開けると古い紙と蝋燭の匂いがした。
大量の書物と、天球儀に似た何かと、薄暗い中でも整然と積み上げられた記録の束。
部屋主の頭の中も、おそらくこれとよく似た状態になっているのだろうと未知流は思った。
「来たか」
ゼノンは振り向かずに言った。窓辺に立って、暗くなりかけた空を眺めている。
「お呼びだと聞きました」
「ふむ」
老人はようやく振り向いた。皺の深い顔に、光の薄い部屋では判別しにくい表情を浮かべている。
「今日、未来視が乱れた」
未知流は息を呑んだ。
「乱れた……っていうと」
「見えていたものが変わった。分岐した、と言ったほうが近い」
ゼノンは椅子を引き、腰をおろす。
「一本の川が、ふいに二股に分かれるような現象じゃ。──こんなことは、稀人が来るまで一度もなかった」
「私のせいですか」
ゼノンは、未知流の顔をじっと見つめた。
「おぬしが選んだからじゃ」
「選んだ──」
「今日、おぬしは外に出ることを選んだ。そうじゃな?」
「はい。でも、外に出ただけですよ? たったそれだけのことで──」
「それだけのことではない」ゼノンは静かに言った。
「この世界の者は、予言に従う。あえて予言を疑い、自ら違う行動を選ぶことを──したことがない」
「それが、未来を分岐させた?」
「そうじゃ」ゼノンは頷いた。
「おぬしの歩いた道には霧が満ちる。予言は届かず、その中で可能性が枝分かれする」
蝋燭の炎が、微かに揺れている。
(私はただ、外に出たかっただけなのに)
「怖い話をするつもりはない」とゼノンは続けた。
「ただ、おぬしには知っておいてほしかった。おぬしが選ぶたびに、この世界の地形が変わる。それは──我々にとって、どれほど大きなことか」
未知流は、その言葉の重さをゆっくりと受け取った。
選ぶことが、当たり前だと思っていた。
今日の朝ごはんを食べながら、外に出たいと思った。
セドリックが止めようとしたけど、押し切った。
市場で果物を一口もらい、噴水の前でしばらく立ち止まり、膝をついた男の祈りを受け取った。
それだけのことが、この世界では──地図の書き直しに等しいのだろうか。
「ゼノン様」
「なんじゃ」
「それは、いいことなんですか。それとも、悪いことなんですか」
ゼノンは少し笑った。しわの深い顔が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「恐ろしいことじゃ。だが──地図なしで歩く力を、おぬしは持っている。この世界の者には──ない」
ゼノンはそれ以上言わなかった。
未知流も、それ以上は聞かなかった。
少し元気をなくした未知流を励ますように、セドリックが一言添える。
「カイル様の研究では、帝国のような強い未来視には危険な副作用があるのではと仰っています。具体的には存じませんが、それを抜きにしても、帝国が諸国をその力で侵略していることに変わりはありません」
セドリックが力強く未知流を見つめる。
「だから、あなたはあなたが為すべき事を、迷いなく行っていただきたい。それをどう受け止めるかは、我々の世界の問題なのですから」
*****
大広間に入ると、レオニスが真剣な表情で地図の前に立っていた。
昨日も同じ地図を見ていた気がする。
「ご報告申し上げます」
セドリックが前に出て、簡潔に今日の動向を告げた。
外出の件、市場での様子、民衆の反応。
ゼノンの話は含まれていなかったので、未知流は少し、(あれ?)と思った。
見るからに有能そうなこの人が言い忘れるわけがなく、ということは何らかの意図があるのだろう。
その間、レオニスは地図から視線を動かさない。報告が終わると、ようやく顔を上げた。
「帝国の動きは今日も特になかった」
視線が、未知流に向く。
「無事だったか」
「はい」
短い確認。それだけで終わるかと思ったら、レオニスはそのまま少し間を置いた。
「街はどうだった」
「明るかったです」と未知流は答えた。
「活気があって──普通に人が暮らしていて」
「普通に、か」
「そう言うと変ですか」
「いや」とレオニスは言った。
「そう見えるなら、まだ保てているということだ」
「市場で大勢の人たちに膝をつかれました」と未知流は続けた。
「連邦を守ってください、って」
レオニスは何も言わない。
「守ってほしいって言われると、怖い部分もあって……」
「怖い?」
「失望させたくないって思うから。だから怖い。でも──」
少し息を吸って、それから言った。
「それでも、守れたらいい。そう思いました」
レオニスの視線が、わずかに変わった。言ったことを噛み締めるように。
「そうか」
それだけ言って、レオニスは地図に視線を戻した。
(この人は、いつもそうだ)
短すぎる。でも、短いから誤魔化す言葉が入る余地がない。
(そんなとこが、この人のいいとこなんだと思う)
ぼんやりとそう考え──それから未知流は、思ったよりこの無口な男に親しみを感じている自分に気付いた。
*****
夜が深まった頃、未知流は庭に出た。
眠れない、というほどではなかったけど、空気を、気分を、変えたかったのだ。
部屋にいると、今日あったことが堂々巡りになる。
ゼノンの言葉。レオニスの顔。膝をついた男の目。
守りたいと言った自分の声。
──そして、レオニスの「そうか」という、あの短さ。
何かが引っかかっていて、でもそれが何なのか、うまく掴めない。
夜の庭は冷えていた。
石畳が足裏に硬く感じ、ふたつの月が中庭に光を落として、木の影を二方向に伸ばしている。
──ふと、視界の端で何かが動いたような気がした。
(誰?)
城の衛兵とは違う。壁に沿ってすり抜けるような、気配を殺した動き。
次の瞬間、石畳に、何か黒いものが落ちているのが見えた。
人だった。黒いものと見えたのは、血溜まりだった。
(死んでる──)
息を呑んだ瞬間、壁に張り付いていた影がこちらを見た。
目が、合った。ぎろりと異様な光を放っている。
見慣れない装束で、明らかにここの国のスタイルとは違う。
顔は布が巻かれていて見えないが、体格からして男だ。
そして……、手には短刀が光っている。
(侵入者──帝国の?)
頭が、急速に動く。逃げる? 声を上げる?
でも声を上げたら斬られるかもしれない。逃げたら背中を向けることになる。
躊躇する未知流のほうへ、男が一歩踏み出した。
とっさに未知流が思ったのは──。
(何かで邪魔をして、時間稼ぎを……!)
視界に入ったのは、倒れた衛兵の手元だった。
短剣が石畳に落ちている。
(この距離なら、当てられる──)
考えるより先に、体が動いていた。
石畳を蹴って二歩、膝をつきながら短剣を掴み、刃ではなく柄の方を男めがけて投げた。
男がとっさに身体を手で庇う。
手元に当たった短刀は石畳に落ち、男の動きが一瞬だけ止まった。
(当たった──。当たってくれた!)
その一瞬が、生死を分けた。
物音を聞きつけて、別の方向から誰かが駆けてくる。
「未知流様!」
振り返ると、アレクシスが息を切らせて走ってくるところだった。
「ご無事ですか!? 今、物音が──」
「大丈夫、大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」
そう言いながら、未知流は足元に転がる短剣をちらりと見た。
さっき、とっさに投げたやつだ。
アレクシスの視線も、それを追う。
「……今の、未知流様が?」
「うん。なんか危なそうだったから、とっさに」
アレクシスは一瞬ぽかんとして、それから意外なものを見る目で未知流の顔をまじまじと眺めた。
「いや、あれね」
未知流は、ちょっとだけ笑った。
「この前、剣教えてもらったでしょ?」
「え?」
「だから助かった。ありがとう、アレクシス」
一瞬、時間が止まったみたいにアレクシスが固まる。
「……え」
理解が追いついた瞬間、ぶわっと顔が赤くなった。
「そ、そんな……自分は大したことは……!」
ぶんぶんと首を振る。勢いがすごい。
「でも、本当に助かったよ」
「……っ、は、はいっ!」
どう見ても嬉しさが隠しきれていない。
(わかりやすいなあ……)
未知流が少しだけ笑うと、アレクシスはさらに照れたように視線を逸らした。
そして、年相応のころころ変わる子供っぽい表情から、騎士らしい真剣な表情に戻る。
「本当、怪我がなくてよかった──」と彼は言って、それから衛兵に駆け寄った。
「可哀想に……」
「アレクシス、あなたはなんで庭に?」
「夜回りの担当です」彼は頭を掻いた。
「あちこちで衛兵がやられているのを発見して、辿ってきたんです。敵は、相当な腕前の持ち主だったようですね。でも、結局稀人様が対処されてしまった」
「対処って言っても、剣を投げただけだよ」
「それが──」アレクシスは言いにくそうに続けた。
「それが、計算外だったんだと思います。密偵の立場からすれば、非戦闘員の稀人様が武器を投げてくるとは予想できなかった。この世界では、賊に立ち向かおうなんていう女性はいないですから。だからワンテンポだけ、崩れたんだと」
(私が動くと、計算が狂う)
ゼノンの言葉が、今度は別の質感で胸に届いた。
騒ぎを聞きつけて、城の中が騒がしくなる。
その時になって初めて、未知流は自分の足元に気がついた。
石畳が、素足に直接触れている。
(靴が──)
庭に出た時には、もちろんちゃんと履いていた。
おそらく、石畳を蹴って短剣を掴みに走った時に、どこかへ飛んでいってしまったのだろう。
探す余裕も、もちろんなかった。
暗い庭のどこかに転がっているのだろうが、今となってはどこにあるのかもわからない。
(まあ、怪我がないだけよかった)
松明を持った衛兵が数人、その後ろから、珍しく鎧なしの、夜着に近い格好の──レオニスが現れた。
それでもその目はすでに完全に覚醒していて、未知流の姿を見た瞬間、大股で近づいてくる。
「怪我は」
「ありません」
「本当か」
「はい」
レオニスは未知流の顔を一秒見た。
それからアレクシスに視線を向けると、阿吽の呼吸でアレクシスが状況を手短に説明する。
帝国の密偵と思われる男。倒れていた衛兵。
短剣を投げた未知流の話になると、レオニスの表情がわずかに動いた。
「あなたが、投げたのか」
「はい。無我夢中だったので、咄嗟に」
「……」
レオニスは、何か言おうとして、やめたように見えた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「謝るのはこちらのほうだ。警備が不十分だった。あなたを守るのは、当然だ」
当然だ、という答えに、未知流は少しだけ引っかかりを感じた。
「……どうして?」
我ながら、子供みたいな聞き方だと思う。でも、口に出さずにはいられなかった。
レオニスは少し考えた。
「君はこの世界の希望だからだ」
「……そうですか」
微笑んで答えながら、どこかに小さな棘が刺さった気がした。
きっと本気で言っている。なのに──なぜかちっとも嬉しくない。なんでだろう。
レオニスは頷くと、アレクシスに指示を出し始めた。周囲が動き出す。
未知流はその輪の外に一人立って、夜空を見上げた。
緊張がすっと抜けていく。その抜けた場所に、何か別のものが入ってきたような気がする。
それが何なのか、未知流にはわからない。だから、もやもやする。
指示を出し終えたレオニスが、もう一度こちらに向き直り、ふと未知流の足元を見る。
一瞬の間を置いて、レオニスが言った。
「靴がないな」
問いかけではなく、確認のために言った、そんな口ぶりだった。
「走った時に、どこかへいっちゃいました」と未知流は言った。
「たいしたことじゃないので」
レオニスは少し目を細めて、未知流の顔を見る。
「裸足でこの石畳は、冷たいだろう」
ぼそっとそう言った、次の瞬間──未知流の体が、浮いた。
「──えっ」
気がついたら、レオニスの腕の中にいた。
片方の腕が背に回り、もう片方が膝の裏に入っている。
横抱き。いわゆる、お姫様抱っこ、というやつだ。
「ちょ──」
「アレクシス」
レオニスは未知流が口を開くより先に、普通の声でアレクシスに呼びかけた。
「残りは任せる」
「はっ、はい──!」
アレクシスは、明らかに動揺していた。
周りの騎士たちも、ざわめいている。
しかし、そんなことはお構いなしにレオニスは歩き出す。
大股ではない。普通に、廊下を歩く速さで、しっかり未知流を抱えたまま城の中に入っていく。
「あの……」
「なんだ」
「自分で歩けますよ」
「知っている」
「じゃあ……」
「石畳は冷たい」
それだけ言って、レオニスは前を向いたまま歩き続ける。
未知流の顔は視界の端にあるはずだが、あえて目を合わせない。
その距離感が、逆に安心感を生んでいた。
レオニスが当たり前のように抱きかかえるので、未知流は何も言えなくなった。
なんと言って拒否したらいいのかわからない。
いや、恥ずかしくはあるけど、そもそも拒否したいわけじゃないような気がする。
抱きしめられると、レオニスの体の匂いがした。
(なんか、すごくいい匂いする!)
レオニスは香水なんかつけるようなタイプじゃないと思う。それなのに。
(この世界の男の人って、何もかも、ずるい)
厚い胸板と力強い腕でしっかりと包まれて、さっきまでの未知流の怯えや緊張が、どこかへ消えていく。
(……こういう時に、誰かに抱きかかえられるのって、なんか安心する)
胸の近くで、レオニスの心臓の音がする。
規則正しく、落ち着いている。
この人は全然平気なのだ、と思う。
混乱の夜に叩き起こされて、庭で密偵が捕まりかけて、それでも、心拍数すら変わらずに、平然と未知流を抱きかかえて運んでいる。
(おかしい)
自分の心臓のほうが、よほど賑やかだった。
廊下を曲がり、階段を上がり、未知流の部屋の前で、レオニスは立ち止まった。
扉を開け、中に入り、そのままベッドの端に未知流をそっと下ろした。
ふと気付いたように、首に巻いていたスカーフを水差しの水で濡らし、汚れた未知流の足を拭いてくれる。
高そうなスカーフなのに、躊躇なく、丁寧に。
……くすぐったい。
「……ありがとうございました」
「礼を言われる必要はない」とレオニスは言った。「今夜のことは、我々の落ち度だ」
「……おやすみなさい」
「ゆっくり休むように。君は、この世界にとって重要な存在だ。……だから、無理はするな」
扉が閉まる。廊下の足音が遠ざかっていく。規則正しく、速くも遅くもなく。
未知流はしばらく、動けなかった。
*****
部屋に戻っても、すぐには眠れなかった。
今日のことが、順番もなく浮かんでくる。
市場の人混み。噴水の底の石。螺旋状の果物の甘さ。膝をついた男の目。
アレクシスの話。ゼノンの言葉。
そして──レオニスの声。
(君は、この世界にとって重要な存在だ。……だから、無理はするな)
それだけじゃない。
抱きかかえられたこと。
足を拭いてくれたこと。
敵に襲われかけたというのに、そっちじゃなくて、レオニスのほうにドキドキしている。
(これって、変だよね、私……?)
静寂に包まれた夜のリベルタス城で、自分の鼓動だけが、大きく響いているような気がした。




