-33- 〜自分で選んだ未来だから〜
崩れた壁の向こうから、風が入ってきた。帝都の夜の、冷たい風が。
そしてその風と一緒に──別の光が、差し込んできた。
最初、未知流はそれが何なのかわからなかった。
壁の一部が崩れて、外の夜空が見えているのだと思った。
でも違う。やわらかく、温かく、どこか人工的な──見覚えのある光。
光が、大きくなる。
崩れた壁の向こうに、別の景色が広がっていた。
アスファルトの道が、夜の雨に濡れて光を反射している。
遠くに信号機が見えた。赤から青に変わる、あの色が見えた。
街路樹が風に揺れていた。どこかのビルの窓に、蛍光灯の光が四角く切り取られていた。
換気扇が回る音がした。遠くで、自動車のエンジン音がした。誰かの話し声がした──日本語で。
「あ……」
声が出た。
自分の声だとわかるまでに、少し時間がかかった。
歪められた時空が解放され、その反動で世界が地球に再び繋がったのだ。
喉の奥が、締め付けられるように熱くなる。目の奥が、じわりとした。
とめどなく涙が流れそうな感触がして、未知流は何度かまばたきをした。
まばたきをしても、景色は消えなかった。消えないどころか、輪郭が鮮明になっていく。
匂いまで届いてくる気がした。雨に濡れたアスファルトの匂い。どこかの店の揚げ物の匂い。
シャンプーの匂い。自分の部屋の、空気の匂い。
帰れる。
今なら、帰れる。
「……みんな」
声が、かすれた。
考えないようにしていた。この世界に来てから、ずっと考えないようにしてきた。
考える間もなかったとも言えるし、考えてしまったら動けなくなると、どこかで知っていたとも言えた。
しかし今、堰が切れた。
母親の顔が浮かんだ。いつも少し心配そうな顔で笑う、あの顔が。
父親の顔が浮かんだ。休日に台所でコーヒーを淹れながら鼻歌を歌っていた、あの後ろ姿が。
職場の同僚の顔が浮かんだ。「お疲れ」と言いながらデスクにお菓子を置いていってくれた、あの人が。
友人の顔が浮かんだ。くだらない話で深夜まで笑っていた、あの声が。
自分の部屋の天井が浮かんだ。狭くて、少し散らかっていて、それでも帰るとほっとした、あの天井が。
コンビニのアイスが浮かんだ。
お弁当と一緒に買って、お風呂上がりに食べようとしていた、あの夜が──この世界に来た、あの夜が。
「……帰りたい」
声にしてしまってから、その言葉の重さに気づいた。
本当のことだった。帰りたかった。
ずっと、帰りたかったのだ。今さらながら、押し込めていた自分の気持ちに気付いた。
*****
レオニスは、その光景を見ていた。
崩れた壁の向こうに広がる、見たことのない世界を。
橙色の光が、濡れた地面を照らしている光景を。
未知流が育ってきた場所を。
「……帰れるな」
低い声で、言った。
未知流が振り返った。その目が、赤くなっていた。
レオニスは、未知流から視線を逸らした。逸らしながら、言うべきことを探した。
しかし言葉は、探す前からどこかに決まっていた。決まっていたから、言いたくなかった。
それでも──言わなければならなかった。
「別の世界の人間が、ここにいていい道理はなかった」
声は、静かだった。
静かに保つために、少し時間がかかった。
「帰れるうちに──帰れ」
未知流は、何も言わなかった。
レオニスは、その沈黙を受け取りながら、目を逸らしたままでいた。
崩れた壁の向こうの橙色の光が、揺れている。
あの光の下に、未知流の家族がいる。友人がいる。未知流が笑い慣れた場所がある。
未知流が帰る場所がある。
それを知っていた。
ヴァレリアの路地で、声を殺さずに泣いた夜のことを、覚えていた。
彼女の語る異世界の話は想像もつかなかったが、それを口にした時の未知流の顔を、覚えていた。
家族の顔が浮かんだと言った時の声を、覚えていた。
そして、あの涙の重さを、知っていた。
だから──送り出さなければならなかった。
「今までのことは」
言いかけて、止まった。
今までのこと、と一言で括れるものでは、なかった。
橋の前で、危ないと言ってくれた夜のこと。
ゼノンの部屋で、選ぶことの意味を話してくれたこと。
ヴァレリアで、この世界の人間には思いもつかない方法で人を救ったこと。
城壁の上で、「私が、やりたいから戦います。あなたのためにも」と言ってくれた夜のこと。
この世界に来てから、未知流が通ってきた道筋は、何かが確実に変わっていった。
未知流がいる限り、予知は霧に包まれると言われていた。
しかし変わったのはそれだけではなかった。
予知の届かない場所で、人が自分で考えて動き始めた。決まっていた死が、覆された。
動かないはずだった人間が、動き始めた。その一つ一つの場所に、未知流がいた。
そして──自分も、変わっていた。
失うものが何もないと思っていた自分。命を惜しまない戦い方を、ずっとしてきた自分。
しかし今は、傷を負うたびに未知流の声が聞こえた。帰ってくることを、誰かが待っていると知っていた。
それが──戦い方を変えた。強さの種類を、変えた。
「……感謝している」
ようやく言えたのは、それだけだった。
言葉が足りないのはわかっていた。
しかしこれ以上を言葉にしようとすると、想いが止められないと分かっていた。
手放したくない気持ちが、制御できないと知っていた。
だから、それだけにした。
未知流が、一歩こちらに来た。
レオニスは、反射的に未知流の肩を引き寄せた。
引き寄せてから──しまったと思った。
引き留めるつもりは、なかった。しかし腕が、勝手に動いていた。
そのまま、抱きしめた。
送り出す前に、一度だけ。それだけのつもりだった。
未知流の体が、腕の中で動かなかった。動かずに、ただそこにいた。
レオニスは、目を閉じた。
腕の中の温度を、感じた。
この温度を、もう感じられなくなるということを、考えないようにした。
考えないようにしながら、でも頭の中はその事でいっぱいだった。
「行け」
声が出た。自分でも驚くくらい、穏やかな声が出た。
「お前の場所に、帰れ」
*****
未知流は、レオニスの胸の中で、目を閉じていた。
厚い胸板の向こうに、心臓の音がした。規則正しく、落ち着いた音だった。この音を、知っていた。
夜の城壁で、密偵に襲われた後の廊下で、ヴァレリアの路地で──何度か、この落ち着く音に包まれていた記憶が蘇る。
(帰れる)
わかっていた。
(帰らなきゃ、いけないのかもしれない)
それも、わかっていた。
レオニスが「行け」と言っている。
この人が行けと言うなら、行くべきなのだろうと、頭のどこかが言っていた。
この人は、私の幸せのために言っている。それが伝わるから、余計に──胸が痛かった。
目の裏に、光景が溢れた。
母親の顔。父親の後ろ姿。友人の声。自分の部屋の天井。近代的な街。
帰れば、全部そこにある。待っていてくれているかどうかはわからないけれど、でも──そこにある。
(帰りたい)
本当に、帰りたかった。
(でも)
腕の中の温度が、あった。
考えた。この世界に来てからのことを、順番に考えた。
橋の前で足が動かなくなった時に、黙って馬に乗せてくれた人のことを。
「そんな石畳は冷たい」と言って抱き上げた人のことを。
城壁の上で月を見ていた夜のことを。
「ありがとう」という、飾りのない一言のことを。震えていた腕のことを。
「君がいない未来には、耐えられない」と言った声のことを。
──私にとっても、彼がいない未来は、耐えられるものなのだろうか?
(この人のいないこの先の人生って、想像できる?)
できなかった。
自問自答してみたが、想像できなかった。
地球に帰って、元の生活に戻って、働いて、自分の部屋に帰って──
そこから先が、どうしても見えなかった。
日々を生きる、その積み重ねの中に──この人がいない。
それが、どうしても想像できなかった。
(帰りたい。でも、あなたのいない場所に帰っても、私の人生は半分しかない)
光が、音を立てるように縮んでいく。
まるで、世界そのものが閉じていくみたいに。
崩れた壁の向こうの光が、縁から滲んで、輪郭がぼやけ始めていた。
扉が、閉じていく。時間が、なくなっていく。
(これが最後のチャンスだって、わかってる)
わかっていた。魔導具が壊れた今、時空の歪みはもう起きない。
地球とこの世界がつながることは、二度とない。
今を逃せば──本当に、永遠に帰れなくなる。
それでも。
未知流は、目を開けた。
レオニスの胸から、顔を上げた。
「……行かない」
レオニスが、わずかに腕の力を緩めた。見下ろしてくる目が、何かを問うていた。
「帰りたい気持ちは、本当にある」
正直に言った。誤魔化したくなかったから。
「みんなに会いたい。声が聞きたい。帰れるなら、帰りたい」
一拍。
「でも──」
光景が、もう米粒ほどの大きさになっていた。コンビニの光が、遠くの星のように瞬いていた。
「あなたのいない場所に帰っても、ずっとここのことを考えながら生きていく気がする。あなたのことを考えながら、ずっと」
レオニスは、何も言わなかった。
「それって、帰ったことにならないと思うから」
声が、少しだけ震えた。震えたけれど、決心は揺るがなかった。
「私は、ここに残る。あなたと──ここで生きる」
レオニスの腕が、もう一度、未知流を引き寄せた。今度は、送り出す力ではなかった。
「……ごめんね」
未知流は、消えていく光の方を見ながら、声に出さずに言った。
誰に向かって謝ったのか、自分でもわからなかったけれど。
ただ、向こうにいるすべての人たちが。
待っていてくれているかもしれない人たちが。
元気でいてほしいと、ただそれだけを、祈るように思った。
光が、消えた。
崩れた壁の向こうに、帝都の夜空が広がっていた。星が出ていた。雲の切れ間から、月が見えた。
この世界の月が、ふたつ並んで、静かに光っていた。
レオニスの腕の中で、未知流はその月を見ていた。月の光が、涙で滲む。
未知流は、泣いていた。泣きながら、それでも確かにこの世界にいることを、選んだ。
次回、エピローグです。




