-32- ~世界、今にも壊れそう~
皇帝の間は、広かった。
横幅も奥行きも、未知流が今まで見てきたどの大広間よりも大きく、天井も高かった。
しかしその広さが、なぜか開放感ではなく圧迫感を生んでいる。
壁に沿って燭台が並んでいるが、その光ではこの室内の隅まで照らしきれない。
礼拝堂のようでもあり、しかしこの禍々しさは明らかにそれとは違う。
暗がりが部屋の四隅に溜まって、そこから何かが滲み出てくるような感触があった。
その中心に、それはあった。
図書館の密室で触れたものと同じ構造を持ちながら、比較にならないほど巨大だった。
幾層もの輪が低く唸りながら回転し、中心の結晶体は強い光を放っている。
その光の色が、正常ではなかった。光なのに、むしろ周囲から色を奪うように変化するそれは、色と呼ぶには歪みすぎていた。
その不快な歪みが、脈打つように揺れている。
近づくにつれて、空気そのものが、そこから逃げようとしているような感触が強くなった。
「来たのは、お前たちだけか」
玉座の前に、皇帝は立っていた。
椅子には座らず、ただ立って、二人が入ってくるのを待っている。
その顔に、驚きはなかった。勝利の高揚もなかった。
長い計算を終えた者が、最後の手順を確認するような──静かで、乾いた表情だった。
「そうだ」
カイル、アレクシス──そして仲間たちは、宮殿内にいる近衛兵たちを食い止めている。
命がけで、皇帝の間まで二人を通すための道を切り開いて、今も戦っている。
皇帝は、まっすぐ未知流を見た。
「稀人──。結局、この戦いはお前を殺さねば終わらぬのだ。お前達にとっても、私を止めぬ限り戦いは終わらぬのだろう? さあ、決着をつけようではないか」
皇帝の手が、魔導具に触れた。
「最後に信じられるのは、これだけだ」
指が輪の縁を撫でると、回転の速度が上がった。
唸りが低くなり、光が一段強くなる。
床が、かすかに揺れた。
揺れ方が地震とは違う──地面が、生き物のように蠢いている錯覚に陥る。
「これで、お前達を消し去ってやろう」
皇帝の言葉をきっかけに、レオニスが、動いた。
*****
レオニスが、一息の間合いで皇帝に肉薄し、剣を振るう。
しかし──刃は空を切った。
確かにそこにいる。皇帝の姿は見えている。輪郭がある。影がある。
なのに剣が届かない。
触れる寸前で現実がずれるような感触があって、レオニスの体だけが空を切り抜けていく。
何がおかしいのか。確かめるようにもう一度踏み込む。しかし、刃はまたも空を切る。
「本来より強い力で、未来を固定しているのだ」
皇帝の声は残響がかかり、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
「今の魔導具は、本来の出力をはるかに超えて動いている。その力はもはや稀人の力を超えている」
未知流は、その言葉の意味を理解した。
稀人の、未来を不確定にする力。
それを上回るほどの力で、皇帝は、この巨大魔導具は、未来を捻じ曲げているのだ。
「お前が次に踏み込む位置、剣が向かう角度、すべて見えている。すべて決まっている。ならば、そこにいなければいい──それだけのことだ」
三度目の踏み込みで、今度はレオニスが弾かれた。
何かに打たれたわけではなかった。ただ、次の瞬間に自分がどこにいるかが、歪められていた。
足の裏の感触が消えて、石畳に膝をつく。立ち上がろうとすると、また同じことが起きる。
動いた結果や今いる位置すら、歪められてしまっている──。
(こんなの、勝てっこない!)
「レオニス!」
思わず叫んだ、未知流の声が、後ろから聞こえた。
「問題ない」
立ち上がりながら、レオニスは言った。
止まる理由がなかった。
何度でも、踏み込む。
角度を変え、速度を変え、間合いをずらす。
──それでも、届かない。
剣は、確かに振り抜かれている。手応えもある。
だが──
「……当たっているはずだ」
低く、息を吐き出す。
目の前にいるはずの皇帝が、
まるで“そこにいないもの”のように感じられた。
もう一度、斬る。
避けられる。いや、"そこにいなかったことにされる"。
何度でも繰り返す。そのたびに……。
未来をなぞるように、あっさりと外される。
──勝ち筋が、見えない。
初めて、そんな感覚が胸の中に膨らんできた。
「無駄だ」
皇帝の声には、感情がなかった。
「お前が何をしようとするか、すべて見えている。見えている限り、お前はここでは何もできない」
「黙れ」
斬りつけたレオニスの剣が、また空を切った。
何も無いところを斬りつけた反動で、レオニスの体勢が泳ぐ。
その不安定な姿勢を、皇帝の剣が襲った。鎧の肩口が、深く抉られる。
血が、石畳に落ちた。
「当てられないようだな。今度は、私から行こう」
皇帝が、冷徹な仮面を崩さないまま、つまらなさそうに言い放つ。
*****
(私に──私に、できることはないの!?)
未知流は、歯を食いしばった。
レオニスが弾かれるたびに、心臓が縮む。
必死に立ち上がるレオニスだったが、そのたびに少しずつ動きが鈍くなっていくのが、見ているだけでわかった。血が滲む痛々しい傷が、一カ所、また一カ所と増えていく。
(何かできることは──! 私はここに突っ立っているだけなの!?)
しかし何もわからなかった。
魔導具を壊せば終わる、触れればいいと言われた。
でも皇帝がいる限り、道がない。
レオニスが道を作ろうとして──作れずに、一方的に打ちのめされている。
「見ていろ、未知流」
レオニスが、未知流を振り返らずに言った。
振り返らなかった。前だけを向いていた。満身創痍の体で、また踏み込んだ。
空を切る剣、弄ぶような皇帝の攻撃。でも、また立ち上がる。
(やめて! もう──)
言葉が、出なかった。出そうとしても、喉が詰まっていた。
想いが破裂しそうで、叫びたくなって──。
その代わりに、突然何かが見えた。
空気の中に、筋が走っていた。
歪められた未来が、輪郭を持って浮かび上がっていた。
あそこが、次にレオニスを弾く場所だ。あの筋が、次に皇帝が消える方向だ。
理由もなく、そう確信した。
(見える──未来が見えてる!?)
こんなことは今までになかった。しかし、確かに見えている。
今まで必要がなかったから。橋の上でも、渓谷でも、ローディアでも──稀人としての力は、いつも余裕のある場所から発揮されてきた。
しかし今、目の前でレオニスが血を流しながら立ち上がり続けている。このままでは取り返しのつかないことになる──その切迫が、今まで届いていなかった場所を、こじ開けた。
「レオニス!」
「なんだ」
「次は右に一歩だけ退いて、その後で踏み込んで!」
一拍の間があった。
レオニスは何も聞かなかった。ただ、右に一歩退いた。
弾く力が、空を流れた。歪みが狙いを外した、その刹那に──踏み込む。
今度は剣が届いた。
皇帝がよろめいた。初めて、傷を受けて動揺していた。
「……なぜだ」
戸惑うその声に、均衡が崩れる兆しがあった。
「次は左から半歩、そのまま前!」
また、レオニスが動く。誰もいない空間を切ったはずなのに──。
「ぐあっ!」
レオニスの剣が、またも皇帝を捉えた。
皇帝は、未知流をキッと睨みつけた。
「おのれ、忌々しい稀人め! この程度では足りんというのか。ならば──もっと強く固定すればいい!」
皇帝の手が、魔導具の何かの部品を大きく動かした。
*****
室内に、轟音が満ちた。
魔導具の回転が跳ね上がるように速くなり、光が室内を白く塗りつぶす。
その白さは目を焼くというより──現実が薄くなる、という感触を伴ったものだった。
床が揺れ、今度は振動ではなく、床の下の何か、床よりもっと根本的な何かが、軋んでいた。
最初に現れたのは、音だった。
高く、細く、何かが割れる寸前のような音が、どこかとても遠い場所から連続して響いてくる。
聞こえるというより、空気が直接皮膚を震わせる。
次の瞬間、扉の近くで、さっき倒したはずの帝国兵が、また立っていた。
倒れる。また立つ。また倒れる。また立つ。
同じ動作を、同じ角度で、無限に繰り返している。
顔がない。声がない。光の中に半透明に浮かんで、ただ立ち上がって、倒れることだけを繰り返している。
「なに、これ……!」
死人が何度も蘇る異常な光景に、未知流は一歩後退しかけた。足が石畳を踏んで、止まった。
壁の一点が、溶けた。
溶けたというより、別のものに置き換わった──帝都の石壁が消えて、その向こうに別の景色が現れた。
見覚えがある。灰色の空、白く積もった野、北の風に揺れる針葉樹の梢。
アルカディアの雪景色が、石壁の中に半透明に浮かんでいた。
音まで聞こえる気がする。雪が踏まれる音。風の音。
それが五秒ほど続いて、消えた。
石壁が、もとのただの石に戻る。
「集中するんだ」
レオニスの声がした。
「わかってる!」
未知流は歪みを見た。
まだ見えている。出力が上がったことで、むしろ輪郭が鮮明になっていた。
本来の流れと捻じ曲げられた流れの差が大きければ大きいほど、嘘の筋が浮かび上がって見える。
「右斜め前に二歩。止まらないで!」
レオニスが動く。今まで届かなかった剣が、届く。
そこにいなかったはずの皇帝が、吸い込まれるように剣に当たる。
「真っ直ぐ──止まる直前に左に抜けて!」
レオニスが動く。剣が皇帝を斬る。未知流の指示が、ことごとく当たる。
天井の端から、月が垂れてきた。
二つの月ではなかった。
丸くて、慎ましい、一つだけの月が、帝都の天井にぼんやりと浮かんで──消えた。
(これは──、地球の月?)
帝国兵がまた立つ。倒れる。また立つ。
扉の向こうで、蹄の音がした。
この世界に来た最初の夜、森で聞いたユニコーンの蹄の音に似ていた。
ピキ、と高い音が、また一つ走った。
「まだ足りんか……!」
皇帝の声に、今までにない怒りのような色が混じった。そして──。
両手を魔導具に押し当て、出力をさらに押し上げた。
輪の回転が、もはや目で追えない速さになった。
光が、白を超えて何か別の色になりかけた。空間が、紙を引き裂くような音を立てた。
室内の空気が一方向に引かれるような感触があって、未知流は思わず足を踏ん張った。
壁が、空間が、また溶けた。
今度は雪景色ではなかった。見たことのある街並みだった。
石畳の道ではなく、アスファルトの道が、夜の光の中に濡れて光っていた。
街のネオンが、室内の壁に滲んだ。
(地球だ……)
胸の奥が、郷愁で一瞬だけ熱くなる。
(でも、今はそんな時じゃない)
未知流は、歪みを見た。
「レオニス、今度は大きく動く。斜め右に三歩──そこで一瞬止まって、すぐ前!」
「わかった」
「止まった瞬間が狙われる。でも、そこでいい」
一拍の間があった。
「信じている」
レオニスは動いた。斜め右に三歩。そして止まった。
皇帝の剣が来た。来ることは、わかっていた。レオニスにも、見えていた。
その剣が来る軌道を、レオニスは半歩前に踏み込むことで外した──皇帝が剣を振り抜く力の流れに逆らわず、その内側に入り込む形で、懐に、入った。
剣が、深く入った。
皇帝が大きくよろめいた。ついに、体勢が崩れた。
そのせいで、魔導具から手が離れる。回転が、一瞬だけ乱れた。
「──っ」
皇帝が、魔導具に手を戻した。
その顔に、初めて焦りが出ていた。すべて計算済みと言わんばかりの今までの表情が崩れて、その下から別の何かが見えた。積み上げてきたものが音を立てて崩れていく人の顔だ。
「ならば──」
皇帝が、出力を最大まで押し上げた。
*****
世界が、割れた。
音ではなかった。音を超えた何かが、空間そのものを叩き割るように炸裂した。
魔導具の光が爆発的に膨張して、次の瞬間には室内のすべてが白に飲まれた。
床が消えた。天井が消えた。壁が消えた──いや、消えたのではなく、すべてが同時に存在し始めた。
帝都の石壁と、アルカディアの雪景色と、地球の夜の道が、同じ空間に重なって存在していた。
死人であるはずの帝国兵が立つ、倒れる、立つ、倒れる。
その足元に、アルカディアの雪が積もっていた。
頭上に、地球の街灯の光が降っていた。
蹄の音がした。換気扇の音がした。雪を踏む音がした。怒号がした。
それらがすべて、同じ場所から同時に聞こえてきた。
ピキ、ピキ、ピキ──と、何かが割れる音が止まらない。
一つ割れるたびに、現実の層が一枚ずつ剥がれていくような感触があった。
剥がれた層の向こうに、別の時間が、別の場所が、重なって透けて見えた。
「未知流」
レオニスの声が、その混乱の中で聞こえた。
見ると、レオニスが立っていた。血が鎧の何カ所かから滲んで、それでも剣を構えていた。
白い光の中で、その金色の髪だけが、妙にはっきりと見えた。
「まだ見えるか」
「見える!」
歪んだ未来の線が、今も浮かんでいた。
出力が上がるほど、世界が崩れるほど、逆に歪みの輪郭は鮮明になっていた。
本来の流れと捻じ曲げられた流れの差が、もはや取り返しのつかない大きさになっているから──その差がそのまま、目に見えた。
「行けるか?」
「行ける!」
「指示を出してくれ」
雪が降っていた。石畳の上に、アルカディアの雪が降り積もっていた。
コンビニの看板が、石壁に溶けるように光っていた。帝国兵が、また立ち上がった。また倒れた。
空間が混ざり合い、もはや見ているだけで脳が混乱しそうな光景。
その全部を無視して、未知流は歪みを見た。
「斜め左、大きく──そのまま右に切り返して、正面!」
レオニスが動いた。
「今度は真っ直ぐ──途中で止まらずに最後まで!」
動く。届く。
皇帝が後退する。魔導具に手を伸ばす。
「左、半歩だけ──そこから前!」
届く。
皇帝の顔から、色が消えた。
勝つ未来がなくなっていくのが、自分にも見えているのだろうと、未知流は思った。
固定しようとするたびに壊され、壊されるたびに固定しようとして、その繰り返しの中で、皇帝の勝つ未来の筋が、一本ずつ消えていった。
「──まだだ」
皇帝が、絞り出すように言った。
両手で魔導具を掴んで、全力で押し上げる。その手が震えていた。
輪の回転が、限界を超えた音を立て始めた。中心の結晶体に、細かい亀裂が走るのが見えた。
ピキ、という音が、今度は室内全体から同時に響いた。
天井が、一瞬だけ消えた。星空が見えた。アルカディアの星空だった。
すぐに石天井が戻った。床に、雪が積もっていた。
帝国兵が立つ、倒れる、立つ、倒れる──もう何十回目かわからなかった。
地球のビル街が壁に滲んで消えて、また滲んだ。
「──どこで」
皇帝が、かすれた声で言った。
誰かに向けた言葉ではなかった。
「どこで、間違えた」
その声に含まれていたものが何だったのか、未知流には言葉にできなかった。
後悔でも怒りでもなく、もっと根本的な場所から来る、長い長い問いのようなものだった。
次の瞬間、皇帝は出力を限界まで押し上げた。
*****
破滅的な音がした。
いや、音というより、衝撃だった。
空気が塊になって室内を叩いた。
未知流の体が宙に浮いて、石畳に叩きつけられる寸前──レオニスの腕が、体ごと庇った。
レオニスの体が盾になって、衝撃を受けた。
白が、すべてを飲んだ。
その白の中で、魔導具の結晶体が割れる音がした。
一点から蜘蛛の巣状に亀裂が広がって、輪が一つ、また一つと止まっていく音がした。
そして──さら、さら、と崩れる音がした。
長い音だった。
何百年もかけて積み上げられてきたものが、その重さごと崩れていく音だった。
白が、薄くなった。
*****
目を開けると、石畳の上に座っていた。
皇帝の間の半分は崩れていた。
魔導具があった台座は砕け、光も、あの低い唸りも、もうどこにもなかった。
淀んだ空気と、不快な圧が消えていた。波紋のように広がっていた揺れが、根元から止まっていた。
レオニスが、隣にいた。
(体ごと、庇ってくれたんだ)
血が鎧の何カ所かから滲んでいたが、目はしっかりと開いていた。未知流を見て、短く言う。
「怪我は」
「大丈夫。あなたは?」
「問題ない」
問題があるかどうかはわからなかったが、立ち上がろうとしているので、たぶん嘘ではなかった。
夜だったはずなのに──崩壊した壁から、光が差し込んできた。
それは、どこか懐かしい光だった。




