-28- 〜それ、未来予知じゃなくて未来書き換えてない?〜
帝都攻略戦前夜。夜の帳が落ちた後も、天幕の中には灯りが残っていた。
灯火が揺れるたびに、卓上に広げられた紙片が影を変えた。
帝国の記録、戦況報告、図書館から持ち帰った古い数字たち──
カイルはそれらを手に取っては置き、また取っては置きを繰り返しながら、長い沈黙の中にいた。
やがて、視線を上げずに言う。
「ゼノン様」
「なんじゃ」
「最初から、おかしかったのだと思います」
老賢者は答えず、続きを待った。
カイルは、手元の一枚に視線を落としたまま言葉を続ける。
その声は静かで、しかし、長い間どこかに引っかかっていたものが、ようやくはっきりしたという確信を含んでいた。
「帝国の未来視を、我々はずっと"見る力"だと理解してきました。決まっている先を、少しだけ早く覗き見る技術として」
「そう聞いておる」
カイルは一枚の紙を、灯火の前に持ち上げた。透かしたように光が染み込んでいく。
「しかし、見るだけで、なぜここまで歪むのでしょうか?」
その問いは、誰かに向けられたのではなかった。
「災害の記録です」
ゼノンが身を乗り出す。
「二百年前と今とで、規模も頻度も、倍以上になっています。自然に起こるものなら、これほど一方向に増え続けるはずがない。まるで、何かを押さえつけた分だけ、反動が大きくなっているかのように」
しばらく、沈黙があった。
天幕の布が、外の風にかすかに鳴った。
「……そうじゃな」
ゼノンはゆっくりと頷いた。カイルの言ったことを、吟味するように。
「わしも、ずっと引っかかっておった。見るだけなら、川は変わらない。ところが帝国は、川の流れそのものが変わっているような痕跡を、あちこちに残している」
「帝国は、未来を作っているのだと思います」
カイルは静かに言った。
「見るのではなく、固定している。本来起こるはずの未来をねじ曲げ、別の形にしている。そのために魔導具が使われている」
ゼノンが目を細める。
「図書館で触れたあれじゃな」
「ええ。あの部屋で感じた圧は、未来視の力ではなかった。何か別のものが、空間そのものに干渉していた」
老賢者は卓の上に両手を置き、少しの間だけ、目を閉じた。
皺の深い顔が、燭台の光の中で老いた彫刻のように見える。
「川を曲げれば、歪みが生まれる」
やがて言った。
「歪みは、他の場所に溢れ出ようとする。それを消すために、また曲げる。曲げるたびに、溢れる場所が増える」
「終わらない、悪循環です」
「じゃが──」
ゼノンは、そこで少し間を置いた。
「帝国がそれを始めた理由は、わかる」
カイルは顔を上げた。
「最初は、小さな善意だっただろう」
老賢者の声は穏やかだったが、その穏やかさの中に、年月の重みが滲んでいた。
「目の前で死ぬとわかっている者がいる。川の流れを少し変えれば助かる。そう知りながら、何もしない方が正しかったとは──儂には、言えない」
カイルは何も言わなかった。
しかし、その沈黙は否定ではなかった。
「だから悪化した」
とゼノンは続けた。
「善意で始めたことほど、止め時が見えなくなる。一つ止めたら三つ増えた。三つ止めたら七つ増えた。こうなったら、もう後には引けんじゃろう」
「それだけ長く続いてきた歪みが、ここにも出ています」
カイルは、別の紙を引き寄せた。
「男女の比率です。長い年月をかけて、極端に偏り続けている」
ゼノンは、それを一瞥してから視線を卓に戻した。
「……戦闘員を増やす方向に、世界が固定されてきた。……生まれてくる命の“形”までもが、変えられた」
「ええ。そしてもう一つ」
カイルは灯火の揺れる中に視線を向けた。
「稀人の出現の間隔が、明らかに短くなっています。五百年前に一度。百年前に一度。そして今回」
「……世界が、歪められた形から戻ろうと反発しておるのかもしれぬ」
ゼノンの声は低く、しかし確かな重さを持っていた。
「片側に重りを乗せ続けた秤は、いつか反対側に傾こうとする。稀人とはその、傾こうとする力そのものかもしれぬ」
「不確定な存在だから──固定された偽の未来を、壊せるのでしょうか」
しばらくの沈黙があった。
どちらも、同じ人物のことを思い浮かべていた。そう、彼女のことを。
「カイル殿」
「はい」
「あなたは、それを──彼女に話すのかな」
カイルは少しの間、燭台の炎を見ていた。揺れるたびに大きく、また小さくなる炎を。
「……どう受け取るかは、彼女が決めることです」
やがて、静かにそう言った。
「ただ、知ったうえで戦ってほしい。彼女はそういう人だと、私は思っています」
カイルの脳裏に、あの時の未知流の言葉が蘇る。
(未来なんてわからない。だからこそ、頑張れるってこともあるんじゃないですか?)
ゼノンは何も言わなかった。ただ、目を細めてカイルを見た。
かつて、「神は一度決まったことを覆さない。そう。神は、サイコロを振らないのじゃ」と言った自分。
そして、まっすぐゼノンを見据えながら、「そうかもしれない。でも──私の世界の神様は、サイコロを振る」と言い切った未知流。
あの時の記憶が、ゼノンの中にも蘇る。ゼノンは黙って、小さく頷いた。
天幕の外で、誰かが見張りの交代を告げる声がした。
決戦前夜の闇が、静かに深まっていく。
*****
帝国の最奥、重い扉の内側では、今夜も光が脈打っていた。
空間そのものが歪んでいると知らなければ、ただ美しいとさえ思えたかもしれない。
薄い光の中で無数の"未来"が折り重なり、引き合い、押し合い、そして一つの形へと収束していく──
その様子は、巨大な機械が息をしているようでもあった。
皇帝はその前に、いつものように立っている。
「……また、増えたか」
側近が膝をつく。
「北で地震が。南では干ばつが。規模はいずれも、先月よりさらに」
「そうか」
返答だけが短かった。
驚きも焦りもなく、ただ事実を確認するだけの声。
しかしそれは感情が薄いのではなく、もはや驚き慣れてしまった故の、無感動に近いものだったかもしれなかった。
「昔は、違った」
皇帝は誰に向けるでもなく言った。
「一つ消せば、それで終わった。川沿いの村が洪水で流れる未来があった。流れを変えれば。村は残った。──それだけで、よかった時期があった」
その時代を、今も覚えている。
民の顔が、安堵に変わる瞬間を。
国が少しずつ、穏やかな形に整われていくのを。
「しかし二つ目を消した時、別の場所で三つ目が起きた」
側近は何も言わない。
「三つ目を消せば、五つだ。五つを消せば──」
皇帝は続けなかった。言うまでもないことだったから。
「止めればよかったのかもしれない」
その声に、わずかな揺れがあった。揺れはすぐに消えたが、消える前に確かにそこにあった。
「だが、どこで止める。目の前に死ぬとわかっている人間がいて、手を引けるか」
引けなかった。引けるわけが、なかった。
「だから、広げた」
魔導具に手をかざす。
空間の歪みが、わずかに強くなる。
「一つずつ消すから、追いつかない。ならば──最初から“起こらない未来”にすればいい」
側近が、息を呑む。
「帝国の支配領域を広げれば広げるほど、未来の流れそのものに干渉できる範囲が広がる」
皇帝の声は、どこまでも理路整然としていた。
「局所ではなく、流れを押さえる。そうすれば、より少ない力で、より大きな結果を得られる」
側近が、息を潜める。
「結果として、そうなった。最初から支配が目的だったのではない」
皇帝は、そう言った。
その言葉が本当かどうかを確かめる者は、この部屋にはいない。
しかしともすれば自己弁護にも聞こえるその皇帝の発言に、言い訳めいた色は全く感じ取れない。
ただ事実として、自分が歩んできた道の輪郭を、確かめているだけのように聞こえた。
「……歪みは、増えている」
魔導具の光が、かすかに波打つ。
「ここで手を離せば、これまで抑え込んできたすべてが、一度に噴き出す」
その光景を、皇帝は“見ている”。
「都市が崩れ、海が荒れ、空が裂ける」
未来視は、残酷なほど正確にそれを映し出していた。
「……だから、続けるしかない」
皇帝は静かに言った。
その言葉は、誰に向けられたのかわからなかった。
遠くにいる稀人に向けられたのか、それとも自分自身に向けられたのか。
そこへ、扉が開く音がした。
駆け込んできた側近が、膝をつく。
「陛下。稀人が、戦場に現れました」
魔導具の光が、乱れた。
皇帝は、長い沈黙の後に言った。
「……そうか」
その声には、もはや驚きはない。
しかし、静かに漏れ出しているものがあった。
それは、正義感なのか、怒りなのか、それとも狂気なのか。
「とうとう、ここまで来たか」
視線を、どこか遠くへ向ける。
「お前がいる限り、未来は崩れる。お前がいなければ、世界は保たれる。──それが、お前を消さなければならない理由だ」
その言葉は静かだったが、やはり揺るぎがなかった。
善意から始まり、選択肢を失い、それでも止まれなくなった男の、最後の確信として。
魔導具の光が、また強くなる。
歪みが、空間を軋ませる。それでも、止まらない。
決戦前夜の闇の中で、二つの意志が──
別の場所で、別の正義を抱えながら、同じ明日へと向かっていた。




