-26- 〜終わりかけた戦い、ひっくり返るかもしれない〜
アレクシスは、話を聞いた後、しばらく黙っていた。
増援が今日来ること。手紙の差出人が不明なこと。足の怪我が完全には治っていないこと。
それらを全部飲み込んでから、彼は包帯の巻かれた腕をゆっくりと持ち上げ、その感触を確かめるような仕草をした。それから、静かに言った。
「馬の手綱を持つ分には、なんとかなります」と彼は言った。
「剣は──少し、厳しいかもしれないですけど」
「戦いに行くわけじゃないから」
「そうですね」
アレクシスはそれ以上は言わなかった。ため息をついた。
非難ではなく、観念した人間の深い息だった。
「……自分が送ります」
「ありがとう」
「ありがとう、じゃないですよ。正直、他の人じゃなくて自分を頼ってくれて、嬉しいです」
彼は苦笑しながら立ち上がった。
それから、外套を手にしながら、少しだけ声のトーンを落として言った。
「行かないで後悔するより、行った方がいいって、自分も思うんで」
それ以上は言わなかった。ただ先に廊下へ出て、準備を始める。
未知流は、その背中をしばらく見てから、自分も外套を手に取った。
窓の外の空は、まだ夜明けの青みを残していた。
*****
二人はほとんど無言で馬を走らせた。
道は北へ続いていて、進むにつれて残雪が増え、空気の冷たさが肌に刺さるように増していく。
アレクシスは何も言わなかった。包帯の腕で手綱を持ち、傷だらけの顔に風を受けながら、迷いのない目でただ前を見ていた。その横顔に、どこか少年っぽさの残っていたあの顔とは別の、静かな硬さが宿っていた。
未知流は、その横顔をちらりと見た。包帯の端が風でわずかにめくれていて、その下の赤みがちらと見える。乗馬の振動が、あの腕に響くたびに痛みが走っているはずだと、想像するだけで胸が痛かった。
それでも彼は、手綱を持つ手を緩めなかった。
「……アレクシス」
「はい」
「痛くない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「……まあ」
と彼は少し間を置いてから言った。
「まあ、大丈夫です。それより、今日中に着かないと」
間があった分だけ、正直な返事だと思った。
未知流は「そっか」とだけ言って、また前を向いた。
もし罠じゃなくても、間に合わなければ全てが水泡に帰すのだ。今は、とにかく急ぐしかない。
二人とも傷を抱えたまま、それでも馬を止めることなく、ただ北へ走り続けた。
道の両側の雪が、白く明るく光っていた。
*****
要塞が見えるより先に、まず戦場の音が二人に届いた。
金属が打ち合わさる音ではなく、もっと低く重い、石と石が擦れるような音が、丘の向こうから響いてくる。続いて怒声が届き、それからようやく、旗の色が視界に入った。
帝国の旗が、要塞の城壁に並んでいる。連邦の隊列は、その手前の斜面で止まっていた。
止まっている。
未知流は馬上から、その光景を目に収めた。ただ、帝国の要塞は高く、分厚く、連邦の隊列はそこから弓の届かない距離に留まっていて、膠着しているということだけは見えた。
「未知流様!」
アレクシスが先に声を上げると、気づいた連邦の伝令が馬を飛ばしてきた。驚いた顔をしている。
未知流がここにいるとは、思っていなかったのだろう。
「状況を教えてください」
「は──」伝令が一瞬躊躇ってから、言葉を選ぶようにしながら話し始めた。
「三日間、正面から攻めておりますが城壁を越えられません。城門を破ろうとすれば上から石を落とされ、梯子をかければ矢が来る。レオニス様の剣がいかに強くとも、城壁の外からでは──」
「増援は!」
「本日の昼か夕刻には到着すると、カイル様が見ておられます。増援が来れば、前後から挟まれることになる。現在の消耗を考えますと──」
そこで伝令は言葉を切った。言い切ることを、躊躇っているようだった。
続きを言わなくても、未知流にはわかった。
戦闘に加わらず、後方で控えている部隊がある。
ガルディアス率いる、ヴァレリア部隊だ。
意図がわからず、未知流は伝令に尋ねる。
「ガルディアスの部隊はどうしたの」
「後方に留まっております。背後の警戒に当たっております」
「わかりました」
未知流は短く言って、馬を進めた。
アレクシスが隣に並んだ。その顔が、僅かに険しくなっている。
ガルディアスが動かないという事実が、彼にも同じように引っかかっているのだろう。
しかし二人とも、それについては何も言わなかった。今は、その前に確かめるべきことがある。
*****
帝国の司祭が、魔導具を覗き込みながら不思議そうに司令官に報告した。
「司令殿……。先程まで見えていた戦況が、急に途切れております」
司令官は、何をつまらないことを、というように一蹴する。
「奴らめ、慌てて稀人を呼び寄せたのだろう。しかし、もはや大勢は決している。堅牢なこの城壁に立てこもっている限り、奴らの勝利はない」
副官も、追従するように笑いながら頷いた。
「おまけに、ヴァレリアの主力までもが投降を決めた今となっては、奴らがどう足掻こうが未来は変わりませぬ」
司令官は、窓から見えるガルディアスの部隊を見ながら、満足そうに笑った。
「そう、もはや未来は変わらぬのだ」
*****
ガルディアスがヴァレリア部隊に短く命じたのは、未知流が到着してほどなくのことだった。
「部隊を整えろ」
それだけだった。何のために、とは言わなかった。
部下たちの何人かが顔を見合わせたが、問い返す者はいなかった。
ガルディアスという男が何かを言う時、その理由を問うてはいけない──という、長い付き合いの中で身についた空気が、ヴァレリア兵の間にはあったからだ。
ガルディアスは、鞍の脇の白旗を、無言で手に取った。
連邦の古参兵の何人かが、その動きを見ていた。
白旗──その意味を理解した瞬間、声が上がった。
「やはり裏切りか!」
「ガルディアスが──!」
「レオニス様に知らせろ!」
怒声が飛ぶ中、ガルディアスはそちらを見なかった。
ただ馬を蹴り、要塞の城門へ向かって、真っ直ぐに進んでいく。
ヴァレリアの部隊が、その後に続いた。
「止めろ!」
「追え!」
連邦の兵士たちが動こうとした──その瞬間、レオニスが手を上げた。
全員が止まった。
レオニスは、城門へ向かうガルディアスの背中を見ていた。
一秒、二秒──何かを読むように、その目が動いた。やがて低い声で言った。
「待て」
「しかし、レオニス様──」
「待て」
繰り返した。その声に、異論を差し挟む余地はなかった。
連邦の兵士たちは、ざわめきながらも足を止めた。誰もが城門を見ていた。
白旗を掲げたガルディアスが、要塞の前に立っている。
城壁の上で動きがあった。やがて、重い門扉が内側に引かれ始めた。
門が、開いていく。
ガルディアスが振り返った。一度だけ、後ろを見た。
何を見ていたのかは、本人以外にはわからない。
それから前を向く。白旗を掲げ、よく見えるように強調する。
呼応して、要塞の門が、軋みながら開いていった。
敵軍も、味方も、すべての視線が、彼に集まっていた。
次の瞬間──。
彼は、白旗を──捨てた。




