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-25- 〜それでも、行くしかないみたい〜


 アルカディアの足湯は、岩をくり抜いた素朴なものだった。


 城の中庭の端のほうに掘られた浅い湯溜まりに、白く濁った湯が細い湯口からとめどなく流れ込んでいる。浸かっていると、足元だけがぼんやりと温かくて、それが気持ちいい。

 北国の春はまだ遠く、庭の隅には残雪が白く光っていて、その白さと足湯の湯気の白さとが、境目なく混じり合っているようだった。


(さすがに、露天風呂ってのはないのね。雪景色の中温泉とか、気持ちよさそうなんだけど)


「もう少し深く浸けてください。足首より上まで」


 侍女に言われるまま、未知流は足をずらした。傷めた足首に湯が触れると、鈍い熱さが皮膚の奥まで染み込んでくるような感じがして、痛みとも心地よさとも判然としないまま、思わず息が詰まった。


「痛みますか?」


「いや、大丈夫です」


 痛いのは、多分効いているからだと思う。

発端は昨日侍女に靴を履かせられた時に、腫れが引かないのを見咎められ、医師を呼ばれたことだった。

(靴なんか、自分で履きたいのに)

そしたら、こんな大ごとにもならなかった。


「安静が必要です」

医者は足を触診しながらきっぱりとそう言った。


「でも、もうすぐ出陣だと聞いています」

騒ぎを聞きつけて医者を呼んでくれたセドリックのほうを、思わず見る。


「悪化すると、片足が一生動かなくなる可能性があります」

医者は、真顔で恐ろしいことを宣告した。

 ローディアの暴動の時に足を痛めて、それから騙し騙しやっていたのは自覚していた。

相次ぐ連戦に、なんとか自分が同行せねば。そう無理していたのがいけなかったのだろうか。


 セドリックが首を振る。「今回は、同行は無理ですね」


「でも──」


「稀人様は、治療に専念してください。早く治れば、後から合流することも可能です」

きっぱりと留守番を言いつけられた。


 その時のことを思い出すと、今も胸の底に引っかかりが残っている──前線では、今この瞬間も戦が続いているのに、自分はここでぽかぽかと足を湯に浸けている。


「稀人様、そんな顔をしないでください」


 声がして、視線を動かすと、石段の上にアレクシスがいた。

腕に巻かれた包帯が白く、それ以外の顔や首にもあちこち擦り傷があって、昨日の戦の痕が残っている。

それでも彼は、いつもの屈託のない笑い方をしていた。


「そんな顔、って」


「焦ってる顔です。自分にも似たような顔してる自覚があるので、なんとなくわかります」


 未知流は少し黙った。

それから「アレクシスも行けないの、辛い?」と聞いた。


「辛い、というか」と彼は少し考えてから言った。

「行かなくちゃとは思うんですけど、でも行けるような体じゃないのは自分でもわかってるので……。その、辛いというより、もどかしい、ですね」


 もどかしい。


その言葉が、未知流の胸の中で静かに響いた。私もそうだ。辛いというより、もどかしいんだ。


「ちゃんと体を治すのも騎士の努めだと、以前レオニス様に言われた事があります。レオニス様たちはきっと、大丈夫だと思います」


アレクシスが言った。断言ではなく、自分に言い聞かせているような、呟くような言い方だった。


「そうだね、あのレオニスだもんね」


と未知流は答えた。同じように、自分に言い聞かせるための言葉として。


 湯気が、白く、静かに立ち続けていた。


 *****


 同じ頃、アルカディア城壁の北──帝国の要塞を望む丘の斜面では、連邦軍の野営が続いていた。


 夕闇の中、天幕の灯りが点々と灯っていて、遠目には静かな光景に見えるが、その内側に漂う空気は出立前とは明らかに異なっていた。疲労と焦燥が、火のそばで寡黙に座る兵士たちの背中に滲んでいる。


 レオニスは丘の稜線から要塞を見ていた。


 石造りの城壁は分厚く、高く、城門は閉じたままだ。

三日、城壁の前に立っている。しかし城壁は一向に揺らがない。

帝国の守備兵は城外に出て来ない。迎撃するより、籠城して時間を稼げばいい──そう判断しているのだ。稀人がいない今は予知が機能するからこそ、援軍が来るまで持ちこたえれば勝てると知っている。


 援軍が来るまで、あと何日だ。


 カイルの試算では、一日か、せいぜい二日だった。増援が来れば、数の差は致命的になる。

今の連邦軍の消耗具合では、その包囲を跳ね返す余力はない。


 要塞を落とさなければ。しかし、どうやって。


 野戦であれば、この焦燥はない。

圧倒的なレオニスの強さがあるからだ。

しかし相手が城壁の内側に引き篭もっている限り、仕掛けようがない。

城壁に梯子をかければ矢の的になる。城門に体当たりをすれば石を落とされる。

炎で攻めようにも、石造りの要塞はそう簡単には燃えない。


 要塞相手では、さすがのレオニスの強さの意味もない。戦場で何をしていいかわからない。

こんな感覚は、これまでほとんど経験したことのないものだった。

膨らみそうな焦りと苛立ちを、レオニスは黙ってその胸の底に押し込んでいた。


 三日間、連邦軍は城壁の前に立ち続けた。

最初の日、レオニスは正面から城門を叩いた。

精鋭の騎士たちが盾を連ねて前進し、城門に体当たりをかけた。しかしその瞬間、城壁の上から石が降ってきた。丸太ほどもある岩が、垂直に落下してくる。盾が砕け、兵士が弾き飛ばされ、前列が一瞬で瓦解した。怒声と悲鳴が重なり、連邦の先鋒が後退する。城壁の上から帝国兵の笑い声が聞こえた。


 二日目は梯子を使った。夜陰に紛れて城壁に梯子をかけ、精鋭を一人ずつ登らせようとした。

しかし城壁の守備兵は待ち構えていたかのように梯子の上の兵士に矢を浴びせ、登り切る前に一人、また一人と地面に落とした。松明の光の下、石畳に落ちた騎士を引きずって戻る兵士たちの顔に、困惑と無念さが滲んでいた。


 三日目の朝、カイルが城壁の弱点を探して城の外周を一周した。

石積みの隙間、排水の溝、補修の跡──しかし要塞は百年以上をかけて強化されてきた堅牢な造りで、カイルの目ですら崩す方法が思いつかなかった。報告を聞いたレオニスは何も言わなかった。

言える事が何もなかったからだ。


 今まで侵略される一方だった連邦には、攻城兵器もなければ、城攻めの手法などあるわけもない。


「これでは無理です」

セドリックが、初めてその言葉を口にしたのは三日目の夕刻だった。誰も反論しなかった。

反論できる根拠が、どこにもなかった。


「レオニス様」


カイルの声がした。振り返ると、地図を手にしたカイルが来ている。


「増援の到着は、明日の夕刻前と見ています。早ければ、昼過ぎかもしれない」


「わかっている」


「正面突破の可能性をもう一度検討しましたが──やはり、損害が大きすぎます。城門を破るだけで、騎士団の三割──いや、それ以上軽く失う計算になる。残った兵力では城内を制圧できない」


レオニスは何も言わなかった。カイルが言っていることは正しい。正しいから、言葉が出ない。


「……稀人殿を、呼ぶべきではないでしょうか」


 カイルが、静かに言った。

「稀人殿がいれば、帝国の予知はすべて意味をなさなくなる。城内の守備兵が籠城しているのは、援軍が来る未来が見えているからです。その確信を崩せれば、増援を来る未来を崩すことができれば──」


「傷が治っていない」


レオニスは、それだけ言った。


「しかし、状況が──」


「一生、片足が不自由になるかもしれないと言われている。治るまでは知らせるな」


声は静かだったが、そこに入る隙間はなかった。カイルは一拍の間を置いてから、小さく頷いた。


「……承知しました」


地図を折り畳みながら、カイルは天幕の方へ戻っていく。レオニスはまた要塞を見た。


 城壁の向こうに、帝国の灯りが見える。あの灯りの下で、守備兵たちは明日を待っている。

予知が告げる勝利の日を、ただ待っている。


 何か手があるはずだ。あるはずなのに、見えない。ただ時間だけが削れていく。

レオニスにとってそれは、これまでの戦で経験したどんな苦境よりも、根の深い焦りだった。


 未知流なら、思いもよらないことを起こしてくれるのでは。レオニスは一瞬そう思った。

しかし、すぐにその思いを振り払う。


 ただでさえ非戦闘員の彼女に、一生ものの負傷を負わせたくなかったから。


 *****


 野営地の端、ガルディアスはヴァレリアの部隊を率いてそこにいた。


 自ら買って出た、背後の警戒。それが彼に与えられた役割だった。

それに従い、部隊は要塞を背にした位置に留まっている。

表向きは、帝国の増援が来た際に挟み込まれないための備えだ。


 しかし連邦の古参兵の間では、ひそひそとした声が広がり始めていた。


「ガルディアスの部隊は動かないな」

「これだけ苦戦しているのに、後方で旗を立てているだけか」

「元はといえば、帝国に下った男だ。いざとなれば──」


 そんな噂を知ってか知らずか、その夜、ガルディアスは天幕の中で一人、小さな卓に向かっていた。


 灯りを最小限に落として、筆を動かす。誰かが通りかかれば、書き物をしているようにしか見えない。

しかし紙の上に刻まれていくのは、帝国の要塞に宛てた密書だった。


 監視が厳しい日々が続いていた。

連邦に加わってからというもの、ヴァレリア部隊の動向は常に誰かの目があった。

密書を出す機会など、これまで一度もなかった。しかし今、連邦の主力は要塞の前に釘付けになっている。監視の目が前方に向いている今夜が、唯一の機会だった。


 筆を止め、紙を折る。封はしない。封をすれば、途中で見つかった時に言い訳が立たない。

ただ折り畳んで、懐に入れた。


 天幕から出て、星明かりの下を歩く。

途中、夜番の兵士に声をかけられたが、「見回りだ」と一言言えば、それで済む。

ガルディアスが夜に歩くことは、珍しくない。


 要塞との間の、人気のない場所で、彼は立ち止まった。


 闇の中で、小笛を吹く。普通の人間には聴き取れないこの小笛が、帝国との連絡を取る時の合図だった。


 *****


 帝国の要塞、司令室。

夜の冷気を石壁が閉じ込めて、燭台の炎だけが揺れている。

その光の中で、指揮官は杯を傾けながら窓の外を眺めていた。眼下には連邦軍の野営地が広がっていて、点々とした篝火が、敗残兵のように小さく見える。


「三日だ」

指揮官は杯を置きながら、副官に言った。

「三日間、あの男は城壁の前にただ立ち続けている。連邦の獅子とやらが」


「今日も梯子をかけてきましたよ」と副官が言った。

その口元が、愉快そうに緩んでいる。

「城壁の上から矢を射れば、登りかけた者から順番に落ちていく。まるで的当てだ。鬼神と呼ばれた男の部下が、石壁一枚越えられずにいる」

笑い声が漏れた。

 指揮官も、声を立てて笑った。

それを聞いた副官がさらに笑い、その笑いが部屋の中に重なって広がっていく。

窓の外からも、城壁の守備兵たちが焚き火を囲む声が届いてくる。

包囲されている側とは思えない、腹の底から弛緩しきった笑い声だった。


「明日には援軍が来る」

ひとしきり笑ってから、指揮官は言った。声に、今更緊張など欠片もない。

「そこで終わりだ。三日間、城壁の前で消耗し続けた軍が、倍の兵力に挟まれてどこまで持つか──見物だな」


「予知では」と司祭が静かに言った。「我々の勝利は、揺るがない」

「わかっている」

指揮官は頷いた。わかっている、という言葉が、当然の事実の確認として出てきた。


 そこへ、扉が開いた。伝令が入ってきて、膝をつく。

「報告いたします。連邦側の後方部隊より、合図がありました」

 指揮官の眉が上がる。「ガルディアスか」

「はい。投降の意思を示す合図です」


 司祭が目を閉じた。しばらくの間があった。燭台の炎が、静かに揺れ続ける。

「予知でも確認できました」

司祭が目を開けた。

「白旗を掲げ、部隊を率いてこの城門へ向かう未来が──はっきりと見えます」

「そうか」

 指揮官は、ゆっくりと立ち上がった。窓の外、連邦の陣を見下ろしながら、低く笑う。

「連邦の獅子が城壁の前で立ち往生している。その後方では、部下が寝返ろうとしている」

 一度、間があった。

「三日間粘った甲斐もなく、明日は内側からも崩れ始める──か」

 指揮官は振り返り、部屋を見渡した。

副官が頷いている。司祭が頷いている。伝令が頭を垂れている。

誰一人として、明日を疑う者がいない。

予知がそう告げているのだから、そうなるのだ。それ以外の可能性など、考える必要もない。


「こうなると惨めなものよ。連中が壊滅する明日が楽しみだな」

指揮官は言って、また杯を手に取った。


 窓の外の連邦軍の篝火が、夜風に揺れている。その小さな光が、明日には消えると、この部屋の誰もが信じて疑わなかった。


 *****


 未知流の元に手紙が来たのは、三日目の夜が明けかけた頃だった。


 侍女が部屋の扉を叩いた時、未知流はすでに起きていた。

眠れなかったというより、夜明け前に自然に目が覚めて、そのまま横になっていた。

差し出された手紙には、差出人の名前がなかった。封に何の印も押されていない。


 開けると、一行だけが書いてあった。


 未知流には、文字は読めない。首をかしげていると、侍女が少し躊躇ってから、低い声で読み上げた。


「……連邦の獅子が、要塞の前で足止めされている。増援が来るのは今日だ」


 今日。


 その一語が理解できた瞬間、空気が変わった気がした。

明日ではない。


 今日だ。


「……他には何も?」


「これだけでございます」


 侍女の声が、どこか遠く聞こえた。


 未知流は手紙を見たまま、頭の中で言葉の意味を繰り返した。

要塞の前で足止めされている。三日間、動けずにいるということだ。

増援が来るのが今日なら、今日中に要塞を落とせなければ──その先を想像したくなかったが、想像しないわけにもいかなかった。増援が来れば、連邦軍は前後から挟まれる。

要塞を落とせていないのに、挟み打ちされたら──。


 罠かもしれない。しかし、罠でないとしたら。


 セドリックの声が、耳の奥に残っていた。

「私は、何かができたのではないかと。何かを、選べたのではないかと」


 彼はそう言っていた。言いながら、その言葉の重さを、長い年月をかけて今もどこかに抱えていた。


 止めようとした。それだけは本当のこと──と未知流は言ったけれど、自分ならどうしたか、という問いへの答えは、あの時も出なかった。止めようとしたか。行かせずにいられたか。その問いに答えを出せないまま、ここで動かずにいることを、未知流は自分に許せるだろうか。


「……あなたならどうしましたか」

あの時のセドリックの言葉が、心に響く。


 罠でもいい。


 私がセドリックの立場だったら、どうせ後悔するなら選んだ末に後悔したい。

今ならはっきりと、そう答えられる。


 その言葉が、胸の中で静かに固まっていくのを感じながら、未知流は立ち上がった。

足首に鈍い痛みが走った。それでも、足は前へ出た。


「アレクシスを呼んでください」


 侍女が「しかし、未知流様の足が──」と言いかけるのを、未知流は穏やかに、しかし遮った。


「呼んでください」


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