-23- 〜守りたいからって、止まってる場合じゃなかった〜
出陣前の最後の確認を終えて、レオニスが城門の前に馬を止めた。
その背を見ていた未知流が、つい声をかける。
「……無理はしないでください」
レオニスが、馬上で振り返った。
「無理はしない」
と頷く。そして、
「だが、退かない」
それだけ言って、前を向いた。
短い言葉だったが、その重さが違った。
以前ならば「無理はしない」などという言葉は、この人の辞書には存在しなかったから。
その変化は、守りたいものができた、ということなのかもしれなかった。
北へ向かって、連邦軍の隊列が動き出した。
*****
「いやー、寒いですね!」
アレクシスが手甲をすり合わせ、さらにその上から「はーっ」と息を吐く。
手甲越しで効果は疑問だが、それほどまでにアルカディア地方は寒かった。
「アルカディアは北国だからな。三の月頃は、まだ寒い」
レオニスが、懐かしい記憶を辿るような顔でアレクシスに言う。
聞いた事のある名前にすぎなかった場所が、実際に近づくにつれて、未知流の目には不思議な質感を帯びて見え始めた。
この道を、かつてレオニスも通ったのだろうか、と思いながら、馬車の窓の外を眺める。
丘の稜線が変わるたびに、雪が深くなっていくのは、多分気のせいではなかった。
「稀人様」
セドリックが馬を並べてきた。今朝の話の影は、もうその顔にはなかった。
副官の顔に戻っている。ただ、目の奥には何か静かなものが宿っている気がした。
「帝国軍は城壁内に篭城しているとの報告が入りました。正面突破、ということになります」
「数は?」
「我々の三倍はおります。未来視が封じられているとはいえ、城壁があれば数の差は覆しにくい」
「三倍……。レオニスは、みんなは、大丈夫なの?」
「皆、承知の上です」
馬車の外に、戦場の空気が漂い始めていた。
*****
城壁が見えた瞬間、帝国軍の先遣隊が城門から打って出てきた。
明らかに待ち構えていた。予知がなくとも、城壁という障害物がある以上、どこから進軍して、どこを通るかはおのずと限られる。
単純だが効果的な戦法を、帝国軍はしっかりと使ってきた。
先頭の一団が、くさびのように連邦の先鋒に突っ込んでくる。
ガキン、と空気を裂く金属音。続けてもう一度、もう一度と、鉄が鉄を打つ音が重なり合い、それが戦場の端から端まで伝染するように広がっていった。
城壁の上からは矢が降り注ぎ、風切音が耳を掠めるたびに、連邦の兵士が盾を上げ、あるいは身をかわす。それでも数本が鎧の隙間を縫って、苦悶の声が上がった。
帝国の先遣隊は、強かった。
単純な数の問題ではない。
この場所を守るために鍛えられた者たちが、城壁を背に、狭い正面だけを守っている。
連邦軍がいかに数を繰り出しても、横に広がれない地形では、正面の密度しか意味をなさない。
そして、兵数の多い帝国のほうが、当然ながら密度は高い。
「左翼、崩れます!」
報告の声が、金属音と悲鳴の間を縫うように飛んだ。
連邦の左翼が帝国の重装兵に押し込まれ、列が乱れていた。
一人が倒れ、その隙間に帝国兵が入り込み、さらに崩れる。連鎖が始まると、止めるのが難しい。
それを見て、レオニスが動いた。
セドリックはレオニスの動きを目で追い──最初の違和感に気づいた。
踏み込みが、浅い。
レオニスの剣は、いつもならば相手の懐まで入り込んで振るわれる。
相手が盾を構えようと体を逃がそうと、すでにその内側に入っているから関係ない。
圧倒的な武の力で、全て薙ぎ払ってしまう。
だが今日のレオニスは、その一歩を踏み出していなかった。
いや──踏み出せなかったのかもしれない。
それだけで、攻撃の威力が落ちる。
いつもの、黄金の獅子と称されたレオニスの圧が、敵軍にかからない。
帝国の重装兵の装甲に、レオニスの剣が弾かれた。
こんな光景は、常に付き従ってきたセドリックの記憶にもほとんどない。
「……っ」
セドリックの喉が鳴った。次の瞬間、重装兵が反撃に出る。
重い剣が横薙ぎに来て、レオニスが後ろへ退いてかわす──
退いた、という事実が、セドリックを驚かせた。
退くこと自体は正しい判断かもしれない。
しかし今日のレオニスが退くのを見たのは、これが初めてではなかった。
傷になりうる一手を、丁寧に避けていた。その一つ一つは間違いではない。
だが結果として、帝国を恐れさせていた暴風のような武が、影を潜めていた。
「右翼も押されています!」
右の方では鈍い衝撃音が響き、連邦の兵士が一人、帝国の槍の柄で殴られて膝をついていた。
追い打ちをかけるように城壁の上から矢が飛んできて、鋭い風切音と同時に誰かが苦痛の声を上げている。
帝国軍が、嵩にかかってくる。
三倍の兵力を盾にした圧力が、じわじわと、じわじわと、連邦の前列を削っていった。
本来のレオニスなら、暴風のような力でとっくに押し返していたところだった。
「連邦の獅子も、噂より大したことないな」
敵軍からそんな声が聞こえた時、アレクシスは思わず歯噛みした。
本来のレオニス様なら、そんなことは絶対に言わせないのに──という思いが、胸の底で燃えていた。
しかしアレクシス自身も、自分の目の前の帝国兵三人に手を焼いていて、それどころではない。
一人は捌いた。二人目も弾いた。しかし三人目が強い。歴戦の兵だ。体格が違う。
剣を合わせるたびに、じりじりと後退を余儀なくされる。
雪解けのせいで、足が、滑る。
気づいた時には、もう半歩、下がっていた。
(このままでは、まずい──)
*****
未知流は馬車の中から、その光景を見ていた。
見ていながら、何もできないもどかしさが、胸の底でじわじわとくすぶっている。
自分ががここにいるだけで帝国の未来視が封じられる。それはわかっている。
でも今、目の前で起きていることに対して、何もできないもどかしさが身を焦がす。
レオニスが、帝国兵二人に同時に挟まれた。
(──っ!)
いつものレオニスなら、その状況に微塵も動じなかった。
どちらかを囮にしてどちらかを仕留め、返す刃でもう一方を処理する。
そういう動きが、自然に出るはずだった。
しかし今日のレオニスは、後ろへ退いた。
そう──退いたのだ。
その瞬間、横からセドリックが割り込んだ。
一人を捌き、体を盾にしてもう一人を弾く。
隙ができたところにレオニスが踏み込んで、ようやく一人を倒す。
(危なかった──)
思わず、そんな言葉が浮かんだ自分に驚く。
レオニスはいつも、何が起きても当たり前のように跳ね返していたのに。
危険を顧みないような戦い方を止めたのに、どうしていつもより危なく見えるのだろう。
(もしかして……)
レオニスが変わったのは、自分のせいなのかもしれない。
「無理はしないで」と言ったこと。
「君がいない未来には、耐えられない」と言ったあの言葉。
それらが、この人の戦い方を変えてしまったのかもしれない。
お互いに失いたくないと思うあまり、私は、この人の身軽さを、奪ってしまったのかもしれない。
(私のせいで、レオニスが……)
喉の奥が、詰まる感じがした。
*****
セドリックは、レオニスの顔を見つめていた。
(あれは、守りたいものができた時の、人間の顔だ)
セドリックは知っていた。守りたいが故に、逆に生まれるわずかな迷いを。
今この瞬間、レオニスの動きの中に、その欠片を見ていた。
副官としてどれだけ仕えてきただろう。
この人が一人で戦ってきたことを、誰よりも近くで見てきた。
故郷を失って、家族を失って、もはや捨てるものが何もない。だから何も怖くない。
それが、レオニスの強さの秘密だった。
しかしそれは、この人が何も持っていなかった、いや、持ちたくても持てないでいたから。
長い流浪の末に今、初めて、この人が何かを持った。
(ようやくレオニス様が得たもの。それを、失わせてはならない)
帝国兵が、レオニスの背後に回り込もうとした。
体が勝手に動いていた。セドリックは、己の危険を顧みず、迷わず体を間に押し込む。
刃が腕を掠め、焼けるような痛みが走る。深くはない。大丈夫だ。
セドリックは構わず、その帝国兵の剣腕を掴んで捻り上げ、体勢を崩したところに肘を入れて沈めた。
「セドリック!」
レオニスが振り返る。
「大丈夫です」
血が鎧の継ぎ目から滲んでいたが、動きに支障はない。
セドリックはレオニスの隣に並んだ。
「レオニス様」
「……」
「失礼を申し上げます」と前置きして、セドリックは言った。
前を見たまま、帝国兵の動きを視野に入れながら、しかし言葉はレオニスに向ける。
「今日のあなたは、いつもの半分の力も出ていません」
レオニスは何も言わなかった。
しかしその沈黙が、否定でないことは明らかだった。
「失いたくないと思うことは、弱さではありません」
帝国兵が二人、同時に来た。
セドリックが一人を受け、レオニスが一人を払う。
「ただ、今のあなたのやり方では──大事なものを、守れない」
一瞬の間があった。
「私が今日ここにいるのは、あなたを守るためです。だから、動いてください」
*****
その時だった。
「くそっ、退けえっ!」
怒声が飛んだ。アレクシスだ。
振り向くと──アレクシスが、押し込まれていた。
歴戦の重装兵に後退させられ、雪の積もる地面に足を取られかけながら、それでも剣を構えたまま踏ん張っていた。その腕が、小刻みに震えている。
体格の差を力で補えなくなりかけている。限界に近い震え方だった。
横から、もう一人の帝国兵が追撃しようとしている。
「アレクシス!」
セドリックが駆けようとする。
しかしセドリックの前にも帝国兵が立ちはだかる。
一瞬の足止め。その一瞬が、戦場では致命的になりうる。
アレクシスは、その状況を視界の端で全部見ていた。
見ていながら、退けない。退けば、今度こそ転ぶ。戦線が、崩れる。
歯を食いしばった。足に力を込めた。
濡れた地面が靴底を滑らせようとするのを、踏みしめた。
(倒れるわけには、いかない)
自分が崩れれば、いや、どこか一箇所でも戦線が崩れれば、全軍がこらえきれなくなる。
今日のアレクシスには、それが明確に見えていた。
その確信が、折れそうな腕を、もう一度踏ん張らせた。
(レオニス様──!)
アレクシスは、抑えきれずに叫んだ。
「ここは、アルカディアは、あんたの国だろ!」
自然と声が出ていた。
自分でも気づかないうちに、飛び出していた。
金属音と怒号の飛び交う戦場の中を、その声だけが真っ直ぐ、レオニスに向かって届いていた。
「王様が止まってどうすんだよ!」
押し込まれながら叫ぶ。絞り出すような声だった。
しかしその声には、追い詰められてもなお、前を向いている揺るぎなさだけがあった。
*****
レオニスは、一瞬、止まった。
一秒にも満たない間。
しかしその一秒の中で、何かが変わった。
守りたいから、退く。守りたいから、傷を避ける。
そういう戦い方が、今日の自分を縛っていた。しかしそれは──守りたいものを、守れていない。
限界まで踏ん張りながら叫んでいる声が、今もそこにある。
守りたいのは、未知流だけではない。
共に戦うアレクシス、セドリック、そして──帝国に苦しめられてきた全てのものたちだ。
そのどれ一つとして、失うわけにはいかない。退くことで守れるものなど、何もなかった。
──もう、何も失わない。
レオニスは、静かに息を吸い、
そして──動いた。




