-21- 〜それでも、自分で選ぶって決めたから〜
ローディアの街は、再び静けさを取り戻していた。
だがそれは、最初にこの街へ足を踏み入れた時の静けさとはまるで違うもので、あの頃は何も起きていないがゆえの沈黙、そして今は何かが起きてしまった後の、抜け殻のような静けさだった。
石畳の上に、落ちたままの農具がある。誰のものともわからない靴が片方だけ転がっていて、広場の端では、あの老人がまだそこに立ち尽くしていた。何をすればいいのかわからない、そんな顔で。
「……我々は、何を……」
老人の声は掠れていた。周囲にも同じような顔がいくつもあった。
互いに視線を合わせようとして、そのままやめる。何かを言おうとして、言えずに口を閉じる。
そんな仕草が、広場のあちこちで繰り返されていた。
そんな中でも、連邦の兵士たちは静かに動いていた。
倒れている者を起こし、怪我人を運び、武器を回収する。
必要以上の威圧はなく、まるで眠っているものを起こさないようにしながら働いている。
その中を、カイルが歩いていた。
状況は把握している。工作員は数名、混乱に紛れて逃走した。
民衆の多くはすでに戦意を失っており、再び扇動されない限り大規模な暴動は起こらないだろう。
しかし──カイルが足を止めたのは、そういう計算の先に、それだけではどうにもならないものがあったからだった。
「我々は……何を信じていたのだ……」
老人の問いに、誰も答えない。答えを、まだ誰も持っていないのだ。
「予言に、意味はなかったのか。今までの人生は、なんだったのだ」
悲嘆の声が、虚しく響く。
カイルは一歩、前に出た。
「いいえ、そうではありません」
声は大きくなかったが、不思議と広場に届いた。
「予言は、正しかった」
連邦の幹部が発したのは、否定ではなかった。
その予想外の一言だけで、人々の視線がゆっくりとカイルへ集まっていく。
「嵐が来ると、予言は告げた。獅子が城を離れると、予言は告げた。稀人が孤立すると、予言は告げた。──そのすべてが、起きるはずだった」
一拍の間があった。カイルは群衆をぐるりと見回す。
「しかし、起きなかった」
誰かが息を呑む音がした。
「では、なぜ起きなかったのか」
カイルはそこで、静かに視線を巡らせた。
立ち尽くす老人を見た。
石段に腰をおろしたまま動けない女を見た。
農具を手に持ったままの若い男を見た。
「稀人は外へ出ることを選び、獅子は予定を変えたからです。この道に例えるならば──道の前に石を置いた者がいた。足を止め、避けた者がいた。それだけで、歩む先が変わった。つまり未来が、変わった」
ざわり、と空気が揺れる。
「なぜそうなるのか、私にも完全にはわかりません」
その一言に、広場が静まった。
帝国の頭脳とも言える男でもわからない。それは、自分たちの無知に対する許しのようだった。
「ただ、この目で見てきた。ヴァレリアで、病で死ぬと予言された者たちがいた。しかし動いた者がいた。死ぬと決まっていた者たちが、今も生きている」
しばらくの沈黙の後、一人の男が恐る恐る口を開く。
「……なら、我々は……間違えたのか?」
カイルはすぐには答えなかった。ほんの一瞬だけ、言葉を選ぶような間があった。
「いいえ」
やがて、静かに言う。
「動かなかっただけです。避けることができると、知らなかった。それが、今までの我々です」
息を呑む気配が、広場に広がった。
「予言に従うことは、間違いではない。しかし──予言が死を告げた時、黙って死を待つだけが、人のすることでしょうか」
その言葉は、この世界にはあまりにも馴染みのない問いかけとして響いた。
誰もすぐには答えなかった。考えてもみなかったことだったから。
「そして──その流れを変え続ける者がいる」
視線が、未知流へと向けられた。
「なぜあの方にそれができるのか、私にはまだわかりません。ただ、あの方の力は本物です。それだけは、確かです」
ざわめきが広がる。恐怖と理解の狭間の感情が、そこに生まれていた。
「予言が何を告げていようと、あなた方には動く手と足がある」
カイルは言った。それ以上は語らなかった。
語れる言葉も、裏付けとなる真理も、まだ自分のものとは出来ていなかったから。
変わりに、民衆に、そして自分に言い聞かせるように、周囲を見渡しながら告げた。
「何をするかは──」
一拍。
「あなた方が、決めることです」
広場に、沈黙が広がる。誰も、すぐには答えなかった。
だが、先ほどまでの予言に対する盲信は、もうどこにもなかった。
*****
混乱の収束には、時間がかかった。
だが暴動は再燃せず、街はゆっくりと日常へと戻り始めていた。
その過程のすべてにカイルは関わっていて、指示を出し、調整し、必要な説明を行い、余計な衝突を避けながら、あの演説の後も変わらず動き続けていた。
その姿は、いつもと変わらないはずだった。
しかし未知流には、何かが少しだけ違って見えた。
(何が違うのか、わからないけど……)
うまく言葉にできないままに目で追っていると、忙しく動くカイルが、ふいにこちらを見た。
「未知流殿」
常に複雑な思考を巡らせている軍師が、いつもよりさらに真剣な顔をしている。
「少し、お時間をいただけますか」
*****
人の気配の少ない路地に入ると、カイルはしばらく考え込むように黙っていた。
「先ほどの話ですが」
何かを思索していたような表情を止め、ようやく口を開いた。
「私は常々興味深いと思っていたのです。未来視が通じない存在のことを」
淡々とした口調だった。丁寧に感情を扱うように、一言、一言ゆっくりと話し始める。
「この世界において、それは例外だ。だから観察する価値がある、と──そう思っていたかったのですが」
最後の一句で、声がわずかに沈む。
「それだけではなかった」
カイルは顔を上げた。銀色の髪が、路地に差し込む光の中で揺れる。
「あなたは、証明している。予言が存在していても、人は自分の意志で動けるのだと」
大事なことを言おうとしている。それが分かったから、未知流は、言葉を返せなかった。
「だからあなたに興味を持った」
とカイルは言い、それから一拍置いて、「いえ、違いますね」と訂正する。
ほんのわずかに、息を吐く。
「強く、惹かれました」
彼らしからぬ、素直な感情の吐露。
「ですが」
カイルは、かすかに笑った。その笑いが悲しみを含んでいるのか、諦めを含んでいるのか、あるいはまったく別の何かなのかを、未知流には判断できなかった。
「この結果は、未来視がなくてもわかります。……それでも、言いたいと思ったのです」
その言葉が、胸の奥で静かに響いた。
──予言が何を告げていようと、あなた方には動く手と足がある。
広場で語っていたカイル自身の言葉が、今この瞬間、別の意味を帯びて戻ってくる。
結果がわかっていても、動くことを選んだ。
言葉だけではなく、この人はそれを今ここで、自ら実行している。
未知流は視線を落とした。
石畳の目地を見ながら、「……ごめんなさい」とだけ言った。
謝ることが正しいのかどうかわからないけれど、それ以外の言葉が出てこなかったから。
「ええ。問題ありません」
カイルは頷いた。その声に、傷ついた色はなかった。いや、少なくとも、表には出なかった。
「あなたはそういう選択をする人だ。だからこそ、価値がある」
肯定でもあり、区切りを付けるための言葉にも聞こえる。
「では」
背を向けて、数歩歩く。その足取りはいつも通りだった。何も変わっていないように見えた。
ただ──角を曲がる直前で、足が止まった。ほんの一瞬だけ、何かを待つように。
それでもカイルは振り返らず、やがてそのまま歩き出した。
*****
未知流は、その場に残された。
しばらく動けないまま、路地の石壁に手をついていた。
カイルの声が、耳の奥にまだ残っている。
淡々としていて、それなのに心の深いところを揺らした声が。
それでも──心揺らされながら、未知流がずっと手放せないでいるものは、別のものだった。
あの腕の震えを、思い出す。
どんな戦でも顔色ひとつ変えなかった人が、矢の刺さったまま剣を振るい続けた人が、震えていた。
規則正しいはずの心臓の音が、あの時だけいつもより速かった。
その事実が、胸の奥の柔らかいところにまだ残っていて、思い出すたびに何かが熱くなる。
気づけば、視線があの人を探していた。
見つけた時に何を言うのかも、どんな顔をすればいいのかも、まだわからないままだった。
それでも、探さずにはいられなかった。




