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20/20

-20- 〜君がいない未来とか、無理なんだけど〜


 路地の突き当たりまで追い詰められた時、護衛の兵士はほぼ散り散りになっていた。


 残っているのはセドリックとカイル、そして数人だけだ。

背後は石壁。左右は人の波。前方も同じ。カイルは地形を見て、退路がないと判断した。

この場所を守り抜くしかない。しかしそれがどこまで持つかという疑念を、カイル自身が感じていた。


 カイルは、自分が今何をしているのかを、冷静に認識していた。


 算段を立てようとしている。しかし算段が立たない。

感情を処理するのは後でいい。まず状況を見る。退路はない。消耗が激しい。兵士が足りない。

ならばどうするか──しかしその「どうするか」の答えが、どこにも見当たらない。


 生まれて初めての感覚だった。


 戦場で答えが出ないことは、これまでにもあった。

しかし今までは、ならば他の答えを探そうと頭を切り替えるだけだった。

今感じているのは違う。すべての状況が同時に限界を指し示している時、自分には何ができるのか。


 セドリックの盾が、群衆の圧力で少しずつ押し込まれていく。

盾を使い、あるいは拳や蹴りで群衆を制しながら奮戦する。

未知流に「下がらないでください」と言いながら、これは、未知流ではなく自分へ言い聞かせているようなものだな、とセドリックは思った。

占領下の民衆を刃にかけてしまっては、今後の統治がままならなくなる恐れがある。

しかし、事態はもはや限界に来ているのではないか。

 自分の足が石畳を削るように後退しているのを止められない。兵士も加勢し押し返す。

また押される。押し返す。また押される。その繰り返しの中で、体力が確実に削れていった。


 *****


「暴徒の人数が増えています」という報告が、レオニスに届いた。

「可能な限り無力化し、できれば捕縛しろ。刃物は使うな、棒と盾で制圧するんだ」

レオニスの足が、速くなる。

 半ば体当たりのように暴徒の群れを割りながら──ふと、朝の廊下が頭をよぎった。

「なんか、変な感じがして」

 自分はその言葉を受け取って、予定を変えた。

なぜそうしたのか、と問われれば、答えに詰まる。理由があったわけではない。

ただ──未知流が言うなら、と思った。橋の時も、そうだった。

根拠のない直感かもしれない。でもその「根拠のない直感」が、いつも何かを変えてきた。

だから今日、自分はローディアにいる。


 しかし、間に合うのか。

間に合わなかった時のことが頭をよぎった瞬間、レオニスは心臓を鷲掴みにされたような感覚に落ちた。

 戦場で最悪の結末を想定することは、いつもやってきた。兵を何人失うか。どこまで踏ん張るか。

そういう計算の中に、自分の死も当然のように含まれていた。


 しかし今、心を占めているのは、今までどんな最悪の結末を想像した時にもなかった恐怖だった。


 未知流が、いなくなる。


 戦で死ぬことを恐れたことは、一度もなかった。

国を失った日から、失うものは何もないと思ってきた。

命を惜しまない戦い方を、ずっとしてきた。

それは強さではなく、失うものがないという事実から来る、ただの身軽さだった。

しかし、今は──失いたくないものが何か、否応なしに突きつけられている。


 偵察に回した兵士が駆け寄ってくる。

「稀人様を見失いました。安否は──不明です」


 その瞬間、レオニスの中で何かが剥がれ落ちた。

傷つけないという配慮が、ただ前へ進むことに塗り替えられる。


 レオニスの進み方が、全てを吹き飛ばすような、台風のような歩みに変わる。

払い除けた暴徒が、軽々と宙を舞う。

押し返しているはずの群衆が、逆に押し流されていく。

そこにいるだけで、人の流れの方が道を譲るように歪んでいく。


 誰一人として、行く手を阻むことができない。止めようとした者から、弾かれていった。

「すげぇ……」追いかけるアレクシスが、唖然とする。

弾き飛ばされた暴徒たちが、異常な存在に──レオニスの存在に、気付いた。


「獅子だ」

「連邦の獅子がいる」

「排除せねば」


 レオニスは、向かってくる暴徒の攻撃を払い除けながら、ひたすら前へ突き進んだ。

棒で、農具で、殴られるのにも構わず、自分の傷にも構わず、ただひたすら未知流の元へと。


 *****


 未知流を守るセドリックとカイルは、既に限界に到達していた。

群衆の圧力が高まった瞬間、セドリックの体勢が崩れる。


 その隙間に人が雪崩れ込んできた。

未知流は後ろへ押し倒される形で石畳に倒れる。


(痛っ……)


 足に鋭い痛みが走った。立ち上がろうとするが、足に体重をかけるたびに痛みで膝が折れそうになる。


 この足では、もはやここから脱出できないと悟った。


「稀人様!」

セドリックが体勢を立て直し、未知流の前に立った。

しかし今の防衛線の崩壊で、さらに兵士が流されていた。残っているのはセドリックとカイルだけだ。


 カイルの策が、ついに尽きた。

退路はない。人の波は止まらない。この状況を覆す算段が、どこにも見当たらない。

残っているのは、体だけだった。


 頭で解けないなら、体で前に出るしかない。

それはカイルにとって、これまで一度も選んだことのない種類の答えだった。

軍師というのは、体ではなく頭で戦う。それが自分の役割だと、ずっと思ってきた。

しかし今この瞬間、その矜持はどこかへ消えていた。


 今必要なのはプライドではない。──未知流を守ることだけだ。


「セドリック殿」

普段の静かな声のままだったが、その一言に込められた意味を、セドリックはすぐに理解した。

どちらが未知流を庇い、どちらが前に出るか。


「私が前に出ます」とセドリックが言った。

「いいえ」とカイルが、きっぱりと言った。

「セドリック殿の方が、守ることに長けている」


 カイルは言いながら、剣を構え直した。

思考から剣へ武器を切り替える。軍師として、ここまで追い詰められるのは初めてだった。


「カイル殿」

セドリックの声に、珍しく、懇願に近い色があった。

「ええ。セドリック殿は、未知流殿を頼みます」


 カイルはそれだけ言って、前を向いた。

使い慣れない金槌を試す鍛冶屋のように、軽く剣を振って腕の動きを確かめる。

切先の鋭さに、一瞬迫ってくる人波が止まった。


 未知流は壁に背をつけたまま、二人の背中を見ていた。

この人たちが、自分のために傷付いてほしくないという思いと、このままでは全滅してしまう──という恐れが、胸の中で混ざり合って、うまく息が吸えない。


「未知流様が傷付けられるくらいなら、私は、民だろうが斬りますよ」

カイルが剣を構える。セドリックが盾を上げる。二人とも、とうに限界を超えている。

それでも、前を向くことは止めない。


 その時──


 群衆の最前列に、大きな動揺が走った。


「──獅子が、いる」


 誰かが発したその声は震えていた。

「予言では、獅子は今日ここにいないはずだ。なのに、なぜ──」


 その声が連鎖するように、前列から後列へと広がっていく。

「予言が、違う」

「稀人はもう死んでいておかしくないはずだ」

「なぜまだ生きている」

「予言が、予言が──」


 混乱が頂点に達したその瞬間──


 金色の髪が、人の波を割った。


 *****


 レオニスだった。


 どこから来たのかわからなかった。ただ、気がついたらそこにいた。

剣を抜いていない。ただ、体一つで人の流れの中に入り込んで、押し分けるのでも弾き飛ばすのでもなく──その存在だけで、波が割れていくような動き方で、前へ進んでくる。


 レオニスは、未知流と暴徒の間に立ちはだかった。

そして、満身創痍のカイルとセドリックに、深々と頭を下げた。

「未知流殿をここまで守ってくれたこと、感謝する」


 そして、吠えた。


「稀人に危害を加えんと思うものは、俺を倒してからにしろ!」


 セドリックですら見たことのない、黄金の獅子レオニスの咆哮だった。


 民衆が、その男の前で足を止めた。

「連邦の、金色の獅子……」


 予言では、この男は今日ここにいないはずだった。それなのに。

たった一人なのに、分厚い壁がそびえ立っているように見える。決して、崩れない壁が。


「予言が違うじゃないか」


 誰かがぽつりと言った。

その言葉が、波を止めた。


 群衆の一人が、未知流を見た。顔面蒼白で怯え、それでも自分たちに怪我をさせてはならないと強く命じていた、どこかあどけない、華奢で美しい女。


 とても、バケモノのようには見えなかった。


 前列の者が立ち止まり、後列の者がそれを見て立ち止まり、連鎖するように、動きが止まっていった。

民衆が、何かから覚めるように、ゆっくりと動きを止めていく。

その顔から「確信」が消えて、「困惑」が宿った。

自分が何をしていたのか、わからなくなったような顔で、互いを見ている。


(チッ、失敗か──)


 作戦の失敗を悟った工作員たちが、人の流れの中に紛れて姿を消していった。


 街に静寂が、戻ってくる。


 カイルが剣を構えたまま、ゆっくりと長い息を吐いた。

限界まで張り詰めていたものが、その息と一緒にわずかに緩んでいくのが、傍目にもわかるほどだった。

剣を鞘に収めようとして、手が少し震えているのに気づいて、それを誰にも見せないように静かに収めた。セドリックが盾を下ろし、壁に手をついた。その手もまた、かすかに震えていた。

二人とも、それ以上は動けなかった──動く必要が、ようやくなくなったのだった。


 *****


 レオニスが、未知流の側に駆け寄った。


 声を出す前に、目で確かめる。視線が足に止まる。

倒れた時に打ったのか、足首のあたりが腫れ始めていた。

致命傷ではない。しかし──もう少し遅ければ、という状況だったことは、この場の誰もが知っていた。


「他に、怪我は」

「足だけです。自分で立てますから」


 立とうとした未知流の腕を、レオニスが支える。それからそのまま、引き寄せる。


 抱きしめる、というより──消えてしまわないように、引き留める。

そんな感じの包み方だった。


 未知流は最初、何が起きているのかわからなかった。それから、気づく。


 レオニスの腕が、かすかに、震えている。


 どんな戦でも顔色ひとつ変えなかった男が。矢が鎧に刺さったまま剣を振るい続けた男が。

この人が、震えている。その震えは怒りでも疲労でもなく、もっと深いところから来ている種類のものだと、抱きしめられている未知流にはなぜか伝わってきた。


 腕の中に包まれながら、その震えが自分の体にも伝わってくる。

厚い胸板の向こうに、心臓の音がする。規則正しいはずのその音が、今日だけは、少しだけ速い。


 この人も、怖かったのだ。


 その事実が、胸の奥に、じわじわと降りてくる。

鋼のような人が、震えている。

それがどういうことなのかを、未知流は言葉にできなかったけれど。

 足の痛みを、忘れていた。疲労困憊の体を、忘れていた。

さっきまで波のように押し寄せていた人々のことも、自分がどれだけ怖かったかも──全部、この腕の震えの前では、どこか遠いところへ行ってしまっていた。


「……レオニス」


 呼びかけても、すぐには答えない。

レオニスは、少しの間、ただそのままでいた。

それから、低い声で言う。


「戦で死ぬのは怖くない。ずっとそう思ってきた」


 そして、未知流を見つめた。


「だが──君がいない未来には、耐えられない」


 飾り気のない言葉だった。この人らしい、包み隠さない本当の言葉だった。


 未知流は、その胸の中で、動けなくなった。何も言えない。

でも、何も言わなくていい気がした。

ただ、この人が震えているという事実と、その震えが自分のためだという事実が──波が引いた後の静かな砂浜のように、胸の奥に、ゆっくりと残っていく。


 未知流は、黙ってレオニスを抱きしめ返した。


 少し離れたところで、アレクシスがセドリックの袖を引いた。

セドリックは前を向いたまま、静かに首を横に振った。

カイルもまた、剣を鞘に収めながら、ごく自然に視線を別の方向へ向けた。


 広場の端で、農具を持ったままの老人が、まだそこに立っていた。

どこへ行けばいいのか、わからないように。予言の通じない世界で、立ち尽くしていた。


 その姿が、未知流の視界の端に、静かに映っていた。


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