-19- 〜悪くない人たちが、一番怖い〜
ローディアの街は、相変わらず静かだった。静かすぎるほどに。
占領から数日が経ち、統治は表面上、驚くほど順調に進んでいた。
物資の流通も、警備の割り当ても、住民への指示も、想定より遥かにスムーズだ。
カイルは「ヴァレリアより早い」と言い、セドリックは「民が協力的だ」と胸を撫で下ろす。
帝国本土だけに、もっと激しい反発を想像していた連邦側の幹部、そして街の警備に当たる兵士たちの表情にも、じわじわと安堵が広がっていた。
しかし未知流には、どうしても拭えない引っかかりがあった。
民が、従順すぎるのだ。
命令に反発しない。質問もしない。割り当てられた仕事を、ただ黙々とこなす。
ヴァレリアの人々が最初に見せた、息を潜めて様子を見る態度とも違う。
ここの民には、息を潜めているという緊張感すらなかった。ただ、指示された通りに動く。
それが良いことなのはわかっている。わかっているのだけれど──
何かが、おかしい気がしてならなかった。
その朝、レオニスは城外で演習を行う予定だった。
連邦軍の大半を連れての演習。廊下で出かける支度をしているレオニスに、未知流は声をかけた。
「あの」
「なんだ」
「ローディアの統治、順調なんですよね?」
「ああ。おかげで、演習を行う余裕ができた」
「……民が、従順なのはいいことだとは思うんですけど」
言いながら、うまく言葉が出てこないのを感じた。
なぜ不安なのか、自分でもわからない。ただ、何かが引っかかっている。
理由を考えようとすればするほど、するりと逃げていく。
「なんか、変な感じがして。……変な感じ、ってそれだけなんですけど」
我ながら要領を得ない、と思ったその時。
レオニスが少し考えるような素振りをしたあと、こう告げた。
「今日は城内に残ろう。演習は取りやめだ」
「演習はいいんですか?」
「延ばせばいい」
それだけ言って、レオニスは踵を返した。説明も理由もない。
未知流はその背中をしばらく見ていた。金色の髪が廊下の角に消えていく。
いつもと変わらない朝──。
ただ、本来なら今頃、レオニスと軍の主力は城の外にいるはずだった。それだけが、違った。
*****
夜明け前から、帝国の工作員たちは街の各所に溶け込んでいた。
作戦は、三日前から準備されていた。
今日の午後、ローディアには嵐が来る──予言はそう告げていた。
風が強まり、視界が悪くなり、城内の兵の動きが鈍る。
その混乱に乗じて稀人を孤立させ、群衆を動かす。
さらに、連邦の獅子と主力は城外での演習中のはずだった。
稀人を守る者は手薄になり、救援が来るまでの時間も稼げる。
予言通りに動けば、必ず成功する。工作員たちはそう信じていた。
いや、疑うという発想がなかった。予言は常に正しいのだから。
しかし──夜明けが近づくにつれて、空が明るくなった。
雲がない。風がない。予言が告げた嵐の気配が、どこにもない。
工作員の一人が、空を見上げた。おかしい。予定と違う。
しかし予言が告げたのだから、嵐は来るはずで──いや、来なければならない。
(なぜだ)
(稀人がいるからだ)
その答えに辿り着くのに、時間はかからなかった。
稀人がいる限り、未来は霧に包まれる。だからこそ、稀人は排除しなければならない。
今日がその日だ。予言が告げている──稀人は今日、ここで死ぬ、と。
工作員は市場の端に立ち、周囲の民衆に向けて口を開いた。
「予言が告げている」
声は低く、しかし揺るぎなかった。論理でも説得でもない。
ただ、いつも通りに予言を告げるだけ。それ以外に何が必要だというのだろうか。
「稀人を排除せよ、と。今日がその日だ。天気は乱れ、連邦の獅子は城外に出払っている。予言は今日こそが稀人の死ぬ日だと言っている」
「稀人は、世界を乱すバケモノなのだ。この世界のために、排除せねばならない」
隣の路地でも、同じ声が上がった。井戸端でも、広場の端でも。
街の各所で、同時に、同じ言葉が放たれる。
民衆の顔に疑念はなかった。予言が言うなら、そうなのだ。
自分で考えたという感覚すらなく、予言という事実が体の中に入ってきて、手を、足を、動かす。
全てはもう決まったこと。彼らにとってはそれだけだった。
*****
最初の異変は、小さかった。
未知流が広場の端でセドリックと話していた時、周囲の視線がふいに一斉に未知流へ向いた。
何かを確認しているように。
後ろからも視線を感じる。振り返ると、人がいた。それも、何人も。
さっきまでそこにはいなかった人たちが、通りの向こうからこちらに向かって歩いてくる。
武器を持っている者も多い。鍬を持つ者、棒を手にした者、石を握った者──昨日まで黙々と指示に従っていた人々が、今は一つの方向を向いていた。稀人排除、という方向へ。
表情を持たない集団が、稀人のいる場所へ──迫ってくる。
「稀人を出せ」
「そいつがいる限り、我々に未来はない」
「稀人様、下がってください」
セドリックの声が、隣で鋭くなった。
人の波は、静かだった。叫び声がない。怒りがない。
ただ、確信のある顔が、無数に、近づいてくる。その静けさの方が、よほど怖かった。
老人の一人が、農具を両手で握りしめながら歩いてくる。
その目に、未知流への憎しみはなかった。
ただ──予言が言っているから、という、深く静かな確信だけがあった。
(この人は、悪くない)
そう思った瞬間、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
「殺さないようには、できませんか」
未知流の一言に、同じく同行していたカイルが小さく頷く。
「追い払え、傷つけるな。兵士たちはお互い一列に組み合い、盾で抑えろ!」
カイルが指示を飛ばした。十人ほどいる護衛の兵士たちが前に出て、盾で壁となり群衆を防ぐ。
しかし数が違いすぎた。一人押し返せば、隣から二人来る。
二人を止めれば、その隙間に三人入り込んでくる。
「カイル様! 追い払えと言われても、多勢に無勢です!」
じりじりと押される兵士たちから、悲鳴にも似た叫びが響く。
無表情で壁を突破した男が、今まさに未知流に向かって農具を振りかぶろうとした。
(──!)
長身のセドリックが、間に割って入ろうとする。しかし──間に合わない。
これまでかと思われた。だが、無表情だった男は、突然動作を止めた。
顔色を変え、うろたえたようにあたりを見回す。
何かを見ようとして、見失ったような顔。その男の隣にいた女が、同じように立ち止まる。
目を細めて、何かを探すような仕草をして──そして、困惑した顔になった。
稀人に近づくほど、霧が濃くなる。予言の光が届かなくなる。
未知流にはわからなかったが、今まさに暴徒の二人はその感覚に包まれていた。
この世界で生まれ育った者にとって、それは、足の下の地面が消えるような恐怖。
彼らが動揺している隙に、セドリックが体術で二人を制圧する。
男には腹へのパンチで、女には足払いで地面に転がして無力化した。
男は、「うっ」と短いうめき声を上げて農具を手から落としうずくまる。
しかし後続の波は止まらなかった。
前列が動揺しても、後ろからの圧力が、それを押し流すように前へ前へと押し込んでくる。
「きりがない──退路を確保だ」
カイルはそう判断した。しかし退路の先にも、すでに人がいる。
(──どうする!?)
カイルの目に、街の反物屋がちらっと入ってくる。
「反物屋から、大きい布、網など、ありったけ群衆に投げろ! 足止めになる」
兵士にそう命じると、カイルとセドリックは別のさらに狭い道へと未知流を守って逃げた。
背後では、兵士の投げた大きな布や網に包まれてもがき、動きを封じられている群衆が見える。
だが、新たな暴徒が次から次へとさらに加わってきているのが、カイルには見えた。
──このままでは、どんどん、追い詰められていく。
さらに追ってくる群衆。
その顔には、表情がない。憎しみすらない。それが、何より恐ろしかった。
坂道を駆け上りながら、カイルはさらに指示を出す。
「そこに油問屋がある! 樽を転がし、ありったけの油を撒け! 足止めするんだ!」
戦場でも滅多に顔色を変えない、そのカイルが声を荒らげていた。
*****
城外への出立を取りやめたレオニスが、街の方角からの音に気づいたのは、それからほどなくしてのことだった。演習に連れて行くはずだった兵がまだ城内にいた。それが運命を変えたことを、レオニスはまだ知らない。
「──異変だ」
「レオニス様」
アレクシスが後を追う。
街の中心部への道が、すでに人で埋まっていた。
工作員の扇動は街全体に及んでおり、至る所で民衆が動いている。
騎馬では進めない路地に入ると、折り重なる人の壁がある。
暴動だ。
レオニスは馬を捨てて走った。
「なんで、なんでこんな──」
アレクシスの声が、後ろで詰まった。
「今は前を見ろ。それより、未知流殿は」
レオニスは言った。アレクシスに向けられた言葉でありながら、どこか自分自身にも言い聞かせているような響きを持っていた。
最初の報告が届いたのは、その直後だった。
「稀人様が襲われています! カイル様とセドリック様が必死にお守りしているそうです。しかし、このままでは──!」
すでに暴動は、街全体に広がりつつあった。




