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-16- 〜未来が決まってる世界のほうが、怖くない?〜


「今も稀人殿の未来は、すべて霧に包まれておる。力は、失われていない」

きっぱりと、ゼノンはそう言った。


「連邦の賢者殿が稀人を視ることができないとしても」とガルディアスは言った。

声に怒りはない。しかし引き下がる気配もない。

「帝国の未来視はリベルタスのそれより遥かに強力だと聞いています。連邦の賢者殿に見えないものが、帝国には届く、ということはないでしょうか」

 理に適った問いだった。場の誰もが、その可能性を考えていたに違いない。

ゼノンは少しの間、沈黙した。それは言葉を探しているのではなく、生徒に、どこから話せば理解できるだろうかと考えている教師のような間だった。

「稀人というのはな」と彼は言った。

「別の世界の理そのものなのじゃよ。我らの世界の理で、それを覆すことはできぬ」

テーブルを囲む顔に、意味を取りかね、困惑したような表情が広がっていく。

「世界の理というのは、雨が天から地へ降るような、この世界の法則じゃ。人の力で、地から天へ雨を降らすことができるとお思いか」

 老賢者は続ける。

「私が稀人殿を視ようとすると、霧が広がる。これは私の力が足りないからではない。帝国の未来視がいかに強力であろうと、その点は変わらない。水に火をつけようとするようなものでな──、力の問題ではなく原理として、最初からできないのじゃ」

 ガルディアスは黙っていた。

頭ごなしに撥ねつけるのではなく、言葉をひとつひとつ、熟考しているような態度を感じる。

「では」とカイルが静かに言った。「なぜ今回の作戦は読まれたのです」

「それじゃよ」とゼノンは言った。

老賢者の目が、場全体を見渡した。

「私は此度の敗因を、ずっと考えておった。稀人殿の力が無効化され、未来視でこちらの動きが読まれるなら、同じく我々も未来視ができるはず。しかし稀人殿がいる以上、霧は完全に満ちている。そこには何も見えない。だとすれば──」

一拍の間があった。

「情報は、霧の外から漏れている。未来視によるものではない」


 場が静まった。

「内通者がいる、ということか」

レオニスが、納得がいったというような表情で呟く。

感情のない声だった。しかしテーブルの上に置かれた手が、かすかに指を握ったのを、隣に座っていたセドリックだけが見ていた。

「おそらくは」とゼノンは答えた。

 誰も、すぐには口を開かなかった。

内通者という言葉は、連邦とヴァレリアの間の空気を揺らして、そのまま沈殿した。

誰かを名指しする声は上がらない。いや、名指しなどできるはずもない。

しかし、お互いの顔を探るような視線が交差する。


「ヴァレリアと内紛を起こすつもりはない」

レオニスが、全員を見渡しながら言った。

「誰かを疑うための話はしない。どこから漏れたかを、事実で示す」

レオニスはセドリックをちらっと見た。忠実な副官が、解説を静かに引き取る。

「いくつかの異なる情報を、それぞれ別のルートで流します。帝国がどの情報に従って動くかを見れば、どこから漏れたかは自ずとわかる。これは牽制でもあります。情報を流した者には──次に帝国が動いた時に、自分が特定される可能性を考えざるを得ない」

 内部で疑心暗鬼になっている場合ではない。

誰かを追い詰めるためではなく、追い詰める必要を無くすための手だった。

「異議は?」

異議は、なかった。

 それぞれ異なる偽の作戦情報が、各方面へ静かに流されることになった。

どれが真実か知るのは、レオニスとカイルの二人だけ。

帝国への牽制でもあり、内部への無言の宣告でもあった。


 *****


 会議が終わって廊下に出ると、未知流は石壁に手をついて、少し息を吐いた。

気を張っていたのだと、出てから気がつく。

ゼノンの言葉は、胸のどこかにつかえていたものを少しだけ軽くしてくれた。

でも、それで完全に気が晴れたわけではない。

(稀人を構成している世界そのものが違う、か)

この世界のみんなと違うという実感が湧かないのは、今でも一緒だ。


 廊下の突き当たりから、日が差し込んでいた。

(こういう時は、身体を動かしたい。自分にも何かできるって、実感したい)

砦の中は朝からずっと動いていて、けが人の手当て、物資の確認、見張りの交代といくらでも仕事があった。未知流は動ける範囲で手伝いに加わった。

「稀人さま」「稀人さまだ」

誰もが無邪気に未知流の来訪を喜んでくれる。どこに行っても大歓迎で、ちょっとくすぐったい。


 そんな中、動き回る未知流と、稀人の訪問を喜ぶ兵士たちを、じっと見つめる男の姿があった。


 *****


 ガルディアスと鉢合わせたのは、倉庫の手前の曲がり角だった。

向こうも向こうで、別の用があってそこを通りかかったようだった。

どちらも立ち止まって、一瞬の沈黙があった。

会議での言葉が、空気の中にまだわずかに残っているようで、少し気まずい。


 しかし彼は、踵を返すでもなく、かといって何かを言うでもなく、しばらく未知流を見ていた。

「……稀人殿は、ご自分でも働くのだな。美しく、しかも絶大な力を持つあなたが、あのような小間使いのようなことを、率先してやるようなお方だとは思っていなかった」

「ええ。私は、元の世界だと下っ端もいいとこですし。できることがあるなら、動いていたほうが気楽です」

「元の世界……」

と彼は考え込むように言った。

「予知のない世界で、ずっと生きてきたのだな」

「はい」

「それは……どんな感じだ」

 未知流は少し考えた。聞かれ方が素直だったので、出てきた答えも素直なものだった。

「何が起きるかわからないまま、その時その時で考えながら生きてる、という感じです。たぶん」

 ガルディアスは少しの間、返事をしなかった。

 それから、砦の石壁にわずかに身をもたせかけるようにして、言った。

「私が今日まで生き延びてきたのは、すべて予知があったからだ」

 淡々とした声だった。自慢でも嘆きでもなく、ただ事実として語っている。

「死なないとわかっているから、怖くても戦場に出られる。死ぬとわかっているから、自分の死を無駄にせず、一人でも多くの敵を倒して死ぬ。我々は長い間、そうやって戦ってきた。私もそれで軍功を上げた」

 一呼吸置いて、彼は続けた。

「そして、負けるという未来が視えたから、帝国に下った」


 未知流は、その言葉を黙って受け取った。

責める気持ちは起こらなかった。その資格もないと思った。

彼らは、そういう世界で生きてきたのだから。

「稀人の世界では、明日自分が生きているかどうかもわからないまま、どうやって生きているのか? それは、とても恐ろしいことではないのか」

 真剣な問いだとわかったので、未知流は、ふさわしい答えを熟慮した。

でも気の利いた言葉は出てこなかったので──思ったことをそのまま言った。

「私は──あなたはあと十日で死にます、絶対に覆せません、って宣告されたとしたら、それのほうが、ずっと怖いと思います」

 ガルディアスが、わずかに目を動かした。

「何をやっても変えられないとわかって生きるなんて、そっちのほうが辛い。明日がわからないほうが、少なくとも私には、希望があると思います」


 しばらく、沈黙があった。

ガルディアスの表情が、少しだけ変わった。

怒ってもいない。反論しようとしているわけでもない。ただ──。

水面に石が落ちた後のように、心の中で、何かが静かに広がっているのが見えるような気がした。

でも未知流には、それが具体的に何を意味しているのか、何を考えているのかまではわからない。

(余計なことを言ったかな)

そう思いながら、「では」と言って、そそくさと倉庫のほうへ立ち去る。


 ガルディアスは、見送るでもなく、引き止めるでもなく、その場に立ったまま、しばらく石壁の一点を見ていた。


 *****


 その夜、砦の一角の小さな中庭に、焚き火が灯っていた。

ガルディアスは一人で、火のそばに座っていた。

右手の中に、折り畳まれた紙がある。厚みのある紙で、端が少し擦れている。

何度か畳み直した跡がある。それは、帝国宛の密書だった。


 炎が揺れ、薪の燃える音だけがパチパチと聞こえる。

彼は火を見ていた。

しばらくの間、紙を手の中に持ったまま、ただ火を見ていた。

稀人の言葉が、頭の中でまだ残響している。

──何をやっても変えられないとわかって生きるなんて、そっちのほうが辛い。

 自分はずっと、先を知ることが生き延びることだと思っていた。

勝つと知っているから戦える。負けるとわかっているなら戦わない。

それは合理的な判断であり、賢い判断だと思っていた。

未来視に従うことが、この世界で正しく生きることだと思っていた。

 そして、負けるという未来が視えたから、帝国に下った。

それだけのことだ、とずっと思っていた。恥でもなく、裏切りでもなく、ただ当然の選択だと。

 でも今夜、稀人は言った。そのほうが怖い、と。

絶対に覆せないとわかって生きることが私には辛い、と。

何の躊躇もなく、当たり前のことのように。

(運命が覆せないとわかって生きるほうが、よほど怖い……)

 ガルディアスは、その言葉を何度か頭の中で繰り返した。

この世界に生まれて、これだけの年数を生きてきて、そんな風に考えたことが、一度でもあっただろうか。

 そして稀人は、ヴァレリアにおいて、実際に帝国の支配を──、勝てるはずのない戦を──、実際に覆したのだ。


 炎が、揺れた。

彼はゆっくりと、手の中の紙を、火に近づけた。

端から火が燃え移り、橙色が紙の上を走っていく。

折り畳まれた跡に沿って炎が広がり、文字が消え、紙が黒くなり、灰になっていく。


 ガルディアスはそれを、最後まで見届けた。

灰が宙に舞って、消えていく。

彼が密書を燃やしたことで、この世界の歴史が確実に変わった。


 しかしそれを知っている者は、誰もいない。


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