-11- 〜勝てるはずのない戦い〜
「ヴァレリアを、取り戻します」
カイルが地図の上に指を置き、力強く宣言する。大広間の空気が一気に張り詰めた。
「連邦とクロノス帝国の間に位置するこの国は、交通の要所です。ここを押さえることで、帝国の補給路を断つことができる。さらに──」
カイルの視線が、ちらりと未知流のほうを向いた。
「先日城内に侵入した密偵のような者も、主な侵入ルートはヴァレリア経由です。奪還すれば、間者の流入を大幅に封じることができる」
地図の上のヴァレリアは、連邦と帝国のちょうど境目に、くさびのように刺さっていた。
「帝国がヴァレリアを占領したのは、十二年前のことです」
カイルは続ける。
「理由は──将来、連邦の一部として帝国に抵抗するという予言でした。もちろん、当時はそんな気配などありませんでしたが」
みな、その時の事を思い出しているのか、大広間が静まり返る。
(また、それか)
未知流は思わず、下唇を噛んでいた。
起きてもいない未来のために、国が奪われる。
アレクシスの両親が殺されたこと、そして──レオニスの国が滅ぼされたことと同じだ。
「行こう」
レオニスが、それだけ言った。
誰も反論しなかった。それが答えになった。
「一点、申し上げてよいか」
ゼノンが、老いた手を卓上に置いて、ゆっくりと口を開いた。
「此度の作戦における未来視ですが──すべて、霧に包まれております」
全員の視線が、一瞬だけ未知流に向いた。
視線が集中して、未知流の心臓が軽く跳ねる。でも、役割を果たす覚悟は、もうできていた。
霧に包まれた未来。未知流がいる以上、すべての予知は効かない。
それは帝国にとってだけでなく、連邦にとっても同じことを意味していた。
「だから、勝ち目が出てくる」
レオニスが静かに言った。
「そうですな。未来視の深さでは、帝国には勝てない。だからこそ稀人が必要になる」
ゼノンは一度だけ目を閉じ、そして頷いた。
*****
出発の前日の夕刻。人気のない廊下で、レオニスに呼び止められた。
廊下の石窓から、傾いた陽が長い影を作っている。
「一つ、約束がある」
レオニスは前置きなしに言った。
「必ず君を危険に晒さない。どんなことがあっても」
飾りのない言葉だった。
誓いの言葉というより、決定事項の通達のような言い方。
それがかえって、本気だということを伝えている。
未知流は少し考えてから、口を開いた。
「わかりました。でも、私にも約束させてください」
「なんだ」
「あなたも、無事に帰ってくること」
レオニスは一瞬だけ止まった。それから、視線をわずかに外して言った。
「……善処する」
それだけ言って歩いていく。
(善処。……他人事みたい)
未知流は思わず、その背中に向かって小さく笑った。
*****
出立は、夜明け前だった。
連邦軍の隊列は長く、蹄の音が石畳に響いて、まだ暗い城下町を揺らした。
未知流は馬車に乗り──馬車と言っても、車を引くのはもうお馴染みのユニコーンだ──護衛のセドリックが窓の外に馬を寄せている。
アレクシスは最前列近く、レオニスの後方を固める位置についていた。
馬車の窓から見ると、レオニスは隊列の先頭で、振り向きもしない。
朝靄の中、セドリックがヴァレリアのことを静かに話してくれた。
帝国に占領される前は、豊かな農業国だったこと。
連邦とも交易が盛んで、この軍の中にも、ヴァレリアの果物を食べた記憶を持つ者が多いこと。
「十二年間、帝国の支配下で、どんな暮らしをしていたのか」とセドリックは言った。
「私にも、想像しかできません」
未知流は窓の外の景色を見た。夜が明けかけた空が、遠くの山並みの上で白くなっている。
(この隊列が向かう先に、十二年間待っていた人たちがいる)
そう思うと、居心地の悪いはずの馬車の揺れが、違う意味を帯びた気がしてくる。
*****
帝国軍との接触は、ヴァレリアの国境を越えてすぐだった。
斥候の報告が届くより先に、レオニスが手を上げた。隊列が止まる。
未知流が窓の外を見ると、遠くの丘の上に、帝国の旗が見えた。
「来るぞ」
その声が届いたかと思う間もなく、丘の向こうから帝国の騎馬隊が現れた。
どのくらいの数かはわからないけど──とても多い。
勝てるのだろうか。いや、みな無事に帰れるのだろうか。未知流の胸がざわざわする。
横で未知流を護衛するセドリックが、未知流の心情を察したように言う。
「これでも少ないほうです。帝国はまだヴァレリアの民を信頼していないのか、ヴァレリア軍は戦闘に参加していないようですね」
全く動じる様子もなく、レオニスが剣を抜く。刃が、太陽光を浴びきらりと光る。
それが合図だった。
連邦軍が動き出した瞬間から、未知流には、圧倒的な力の象徴、としか言いようがない何かが、前方に存在していたのが見えた。
レオニスだ。
矢が未知流の乗る馬車に向かって降り注ぐたびに、どこからともなくその体が割り込んでくる。
盾で受け、受けきれなかったものは体で受け、それでも前に進む。
鎧に矢が刺さる。刺さったまま、手で引き抜いて、捨てる。また剣を振るう。
その一連の動作に、痛みをこらえている素振りが欠片もない。
(なんで、あんな戦い方ができるの……?)
「セドリックさん」と未知流は言った。
「はい」
「レオニスは、いつもこんな戦い方をしてるんですか」
セドリックは少し間を置いてから答えた。
「……あの方は」静かな声だった。
「いつ死んでも構わない、というような戦い方をされます。ずっと昔から」
未知流は、前方から目を離せなかった。
(いつ死んでも構わない──)
嫌な予感が、胸の底に、じんわりと溜まっていく。
*****
帝国軍がじりじりと後退を始めたのは、それからしばらく経ってからだった。
でも、敗走という感じではなく──、まるで訓練のように、一糸乱れず下がっていく。
すかさずレオニスが追撃を命じようと手を上げる。
──その瞬間、未知流は思わず馬車の窓枠を掴んだ。
「待ってください」
声が出ていた。自分でも驚くくらい、はっきりした声が。
レオニスが振り返る。周囲が静まる。
「どうした」
「……逃げ方が、きれいすぎます」
未知流は窓の外の帝国軍を目で追いながら、言葉を探した。
「負けて逃げる軍って、慌てて逃げるから、もっとばらばらになるものじゃないですか? でも、あの人たちは全員が同じ方向に、同じ速さで退いてる。整然としすぎてる。まるで──台本があるみたいに」
沈黙がその場を支配した。みな、未知流の言うことを頭の中で咀嚼しているように。
カイルが馬を寄せ、地図を取り出した。
撤退方向を指で辿っていくと──その指が、ある一点で止まった。
「……渓谷です」カイルの声から、色が消えた。
「三方を崖に囲んだ地形があります。追撃で深入りすれば、上から一気に包囲できる」
「予知では、我々が追うと出ていたのでしょう」とセドリックが静かに言った。
レオニスは「誘っているな」とだけ言い、帝国軍の背を見ている。
「一度退きましょう」とカイルが言った。「仕切り直して──」
「逆に使えないんですか」
未知流の、ふとした閃きだった。
カイルが振り返る。
「逆手に取るんです」と未知流は続けた。
「向こうは『追ってくる』と信じてる。その思い込みを利用して──こっちが罠をかけることって、できませんか」
カイルの目が、細くなった。
「……できます」
低い声だった。思考をまとめるように、地図の上を、カイルの指が走る。
*****
「レオニス様が少数精鋭を率いて、追撃しているように見せかけ渓谷に向かう」
カイルが地図の上で指を動かしながら、淡々と言った。
「帝国は予知通りにレオニス様が飛び込んできたと判断し、包囲を完成させる。しかしその間に、私が主力を率いて迂回し──渓谷の出口を封鎖する」
「帝国が包囲したつもりが、逆に包囲される、と」
「そうです」
「ただし」とカイルは続けた。「包囲が完成してから、主力が出口に到達するまでに、時間がかかる」
「どれくらい」
「……一刻ほど」
誰も口を開かなかった。
未知流には、この世界の一刻がどのくらいなのかわからない。
でも、少数で、三方を囲まれた状態で、持ちこたえる。
みんなの顔を見れば、それがどんなに危険なことか察しがついた。
「可能だ」
レオニスが断言する。
誰も反論しなかった。
この男ができないと言わないのなら、できるのだ──そういう空気が、その場に満ちていた。
「稀人様には」とカイルが未知流に向いた。「レオニス様の近くに馬車でついていただく必要があります。あなたがいることで帝国の予知が乱れる。帝国は包囲が成功すると信じて動くが、実際には予知が働いていない状態になる」
「わかりました」
「危険が伴います」
「わかってます」
「……本来なら、お連れすべきではありませんが」
カイルは一瞬だけ未知流を見て、それから頷いた。
レオニスが、静かに言った。
「馬車に乗ったままでいい。危険だが、ついてきてくれ」
*****
渓谷の入口は、まるで巨大な獣の口のように暗かった。
奥に進むにつれ、静けさが増していく。
奇妙なほどの静けさだった。鳥の声もない。風の音もない。
まるで、渓谷全体が息を呑んで待っているようだ。
「来る」
レオニスが低い声で言った瞬間──三方の崖の上に、人影が現れた。
崖の縁に沿って、弓を構えた帝国兵が並んでいる。
そして、渓谷の後方でも、足音が聞こえてくる。──入口が、塞がれた。
「──獅子が、罠にかかったわい」
崖の上から、確信に満ちた敵の指揮官の声が響く。それは、まるで死刑宣告のようだった。
レオニスは黙って剣を抜き、そして──動いた。
それが、激闘の始まりだった。
未知流には、後で何が起きたかを正確に言葉にする自信がなかった。
とにかく、速く、そして猛々しかった。
狭い渓谷の中を、レオニスは地形そのものを利用するように動いた。
崖の壁を背にして、一方向からしか囲めない場所を選んで立つ。
迫ってくる兵を、一人ずつ、確実に斬り伏せる。
大振りがない。無駄がない。剣の一つ一つが、過不足なく仕事をする。
崖の上から矢が降ってきた。レオニスが盾を上げる。
いくつかは盾を抜けて鎧に刺さった。刺さったまま、手で引き抜く。
血が出ているはずなのに、表情が変わらない。また剣を振るう。
(この人は、痛いと思ってるんだろうか)
いや、痛くないはずがない。それでも、戦っている。
馬車の中で膝を抱えながら、未知流はそんなことを考えていた。
未知流の横には、護衛役を命じられたセドリックが脇を固めている。
「稀人様」と、セドリックが言った。「見ていてください」
「見てます」
「あの方がどんな戦い方をするか、今日は特に、よく見ていてあげてください」
未知流は窓に張りついた。
レオニスが、また一人斬り伏せた。
二人、三人と向かってくる兵を、流れの中に飲み込むように捌いていく。
疲れている様子がない。焦っている様子がない。ただ──前に進んでいる。
(何年も、ずっと、こうやって戦ってきたんだ)
アルカディアを失った日から。一人になった日から。この人は、こういう戦い方をしてきた。
(いつ死んでも構わない、というような戦い方を──ずっと昔から)
胸の奥で、何かが引っかかる。
「セドリックさん」
「はい」
「あの人は、誰かに守られたことって……あるんですか」
セドリックは少し間があってから答えた。
「……私の知る限りでは、ありません」
(挟撃のカイルさんたちは、まだ来ないの……!)
時間の経過が、遅い。待つことしかできない未知流は唇を結んだ。
*****
帝国側の渓谷内では、指揮官が眉をひそめていた。
おかしい。
予知では、この包囲でレオニスは死ぬはずだった。
なのに──目の前の男は、怯まない。傷を負っても止まらない。
兵を送り込むたびに、返り討ちにされる。
誰も気付いていないが、後方で控える未知流を危険に晒したくない、レオニスのその想いがさらなる力となっていた。
「なぜだ。予知では──」
「稀人がおります」副官が低い声で言った。
「先程発見しました。馬車の中です。稀人がいる限り、予知が──」
「ならば稀人を狙え。稀人がいなければ、奴とて──」
その瞬間、背後から混乱した声が飛んできた。
「後方……! 出口が、出口が塞がれています!」
指揮官が振り返る。渓谷の出口に、連邦軍の旗が翻っていた。
「ば、馬鹿な。予知では、奴らはここに──」
「稀人のせいで」副官が、かすれた声で言った。「予知が、届いていなかった」
指揮官は、その言葉の意味をしばらく理解できなかった。
予知が届いていない。
そんなことが──あるのか。ありえるのか。
予知が無効にされたばかりか、連邦軍は結果もわからぬ戦場に、あえて飛び込んだというのか。
死ぬかもしれない。全滅するかもしれない。それでも見えない未来を選んだというのか。
「奴ら……。正気じゃない……!」
*****
その頃、ヴァレリア城に設置されている魔導具の前で、帝国未来視司祭の顔色が真っ白になっていた。
「予知が……合わぬ……」
司祭の声が震える。
「そんなはずはない。未来は……固定されて……」
言葉が、途中で途切れた。
レオニスが死ぬ未来しか、魔導具には映し出されていなかったというのに。
気がつけば、レオニスたちが勝ち鬨を上げる映像に、塗り替わっていく。
「我々の勝利だ!」
連邦の勝利を叫ぶ、忌々しい光景へと。
魔導具は、矛盾に耐えきれないとでもいうように、ガラスの割れるような甲高い音を立てて壊れた。
「奴は、間違いなく死ぬはずだった。これが、連邦の獅子……、そして、稀人の力だと言うのか」
司祭は、膝から崩れ落ちる。こんな光景は、未来視を学んでから、一度もなかったというのに。
「奴らは危険すぎる……。本国に……、報告せねば」
*****
主力が渓谷の出口を封鎖した瞬間、出口を失ったと察した帝国軍の統率が目に見えて崩れた。
予知の外に放り出された兵たちは、指揮官の命令を待つ。
しかし指揮官も自分では動けず、次の予知を待つ。そして、予知は届かない。
その連鎖が、一気に瓦解を招いたのだ。
レオニスが最後の一手を打ち込むと、悲鳴と蹄の音が乱れ、白旗が上がり、そして、レオニスが勝ち鬨を上げた。
「我々の勝利だ!」
渓谷に、連邦軍の歓声がこだました。
*****
ヴァレリアの城門は、夕暮れの中に立っていた。
帝国の守備隊は、渓谷での敗報を受けてすでに統率を失っていた。
レオニスの第一騎士団が城門前に到達した時、最後の抵抗はあっけないものだった。
予知の外に放り出された兵たちには、自分たちで持ちこたえる戦意はもう、残っていなかった。
「予知では守り切れるはずだった」「連邦の獅子は、死んでいたはずだった」
崩れていく隊列の中で、そんな言葉が飛びかう。
最後の一人が剣を捨て、ついに城門が開いた。
連邦の兵士が城壁に駆け上がると、帝国の旗が引き下ろされる。
代わりに、連邦の旗が立てられた。
夕風を受けて、旗がゆっくりとなびく。それは、帝国からの解放の証だった。
未知流は馬車の窓から、それをただ見ていた。
きれいだとも、嬉しいとも、簡単には言えなかった。
ただ──この旗が立つまでに何があったか、自分は今日、全部見ていた。
矢が刺さったまま戦い続けた背中。
削れない岩のように渓谷の中に立ち続けた姿。
誰かに守られたことがない人だ、と言ったセドリックの言葉。
十二年間、この城壁の上には帝国の旗があった。でも、今日からは違う。
また未来が変わった。それだけは、はっきりとしていた。
*****
城内でレオニスが馬を止め、馬車のそばに来た。
怪我がないか、言葉より先に目で確かめるように見る。それから、簡潔に言葉を発した。
「怪我は」
「ありません」
「そうか」
いつものレオニスとの会話なら、それだけで終わるのが常だ。
でも今日のレオニスは、少し間を置いた後で続けた。
「今日の作戦──最初に逆手を取れると言ったのは、君だ」
「カイルさんが形にしてくれたので」
「最初の発想がなければ、形にはできない」
感謝しているという気持ちが伝わってくる。
でも未知流には、それが自分の功績ではなく、レオニスの奮戦の元にもたらされたものだとしか思えない。
だから、未知流は少し考えてから言った。
「あなたが帰ってきてよかった」
レオニスがわずかに止まった。
何も言わなかった。ただ、考えこむように止まった。
レオニスがどう感じたのかわからなかったけど、未知流には、それで十分だった。
城壁の上の旗が、夜風にゆれていた。城内には、帝国支配下を生きてきたヴァレリアの民がいる。
しかし扉の向こうが、静かすぎることに──未知流は、まだ気づいていなかった。




