第98話 最初の日の翌日
「ああ、気が付いた。痛みはひどい?」
なつかしい声が枕元で言った。リョウは、尼僧院の彼の元の部屋にいた。
元の部屋……
天井に電気が付いていなくて、びっくりしたあの部屋だ。
窓のガラスがゆがんでいるのを見て、青ざめたあの部屋だ。
「動かないで」
リーア姫の声と、あたたかな腕が彼を抑えた。
「腕を撃たれたの。それだけのこと。大丈夫。たいしたことにならなくてよかった」
もう朝だった。
訳がわからなくて、リョウは姫の顔を見つめた。
子供のリーア姫ではなかった。それは彼の妻のリーアだった。彼女も見つめ返した。
なんと美しい人なのだろう。
あたたかく、なつかしい。
今は、いつの今なのだろう。今日が最初の日の次の日なのだろうか。それとも、これは別の夢の続きなのだろうか……
「あなたが撃たれたんじゃなかったんだ。よかった。」
彼はささやくような声でリーア姫に言った。
彼女は首を振った。
「いいえ、撃たれたのよ。でも助かった。これが代わりに受けてくれたの」
彼女は、リョウの目元につぶれて黒コゲになった小さな塊を差し出した。
リョウはじっとそれを見た。
あまりの驚きに彼は顔色を変えた。こんなものを見るとは思わなかった。
「これは……」
彼女には、これがなんなのかわかるのだろうか。
それは彼の腕時計のGショックだった。
その文明の利器は、焦げてひしゃげて二つに割れていた。完全に壊れていたが、わずかに縁に刻まれたローマ字を読み取ることができた。
それを見た途端、彼の胸のうちには、さまざまな思いが押し寄せてきた。彼は一瞬、我を忘れた。
「ごめんなさい」
彼女は目に涙をいっぱいためていた。
「私は……私は、東渡りのジグ人がなんなのか誰よりも知っていた」
ぼんやりとGショックを見ていたリョウは視線を彼女に移した。
「どういうこと? 知っていたって……」
ああ、今はこの国の言葉がこんなにも自然に口から出る。
「その秘密を知っていたのはたぶん私だけだったと思うの。これよ……」
彼女が差し出したのは、とても古い……豪奢に金で飾られ、カビたような厚い本だった。
「それは……?」
この本こそが、ラセル王が言っていた、ジグ人の秘密の書なのだろうか。
彼女の祖母がこの記録を残したのだという。
曽祖父はジグ人に導かれ、その協力を得て、マノカイとゼノアを統合した。大王と呼ばれ絶大な権力を誇ったが、功労者のジグ人はいかなる名誉にも興味を示さなかったという。
「曽祖父はある日、ジグ人に曽祖父が隠し持っていたジグ人の形見の品を返したの」
「形見の品?」
「そう。ジグ人が来たときに着ていた服や持ち物のこと。どれか一つだけでも残っていれば、元の世界に帰れる」
リョウは目を丸くした。そんなことで帰れただなんて。
「いや、それはおかしい。最初、私は指輪をしていた」
リーア姫は答えた。
「そしてジグ人が帰りたければ。きっとあなたはその時帰りたくなかった」
リョウは顔をしかめた。その指輪が何だったのか、思いだしたのだ。捨てたい思い出が詰まった指輪だった。
だが、ほかのモノは? 例えばあのGショックだが、彼女が隠し持っていたのだろうか。
リョウは、ここへきて一番最初に目が覚めたとき、指輪以外のすべて、服も何もかもが違っていたことを思い出した。
「着ていた服は?」
「焼きました」
「なぜ?」
「ジグ人は幸運の兆し。逃すわけにはいかない。昔から帰れないようにすべての持ち物を取り上げる決まりです」
「では、指輪は? 指輪はなぜ残してあったの?」
「ジグ人の指輪は悪魔のしるしと呼ばれてきた。指輪をしているジグ人は必ず帰る道を選んだから。悪魔とつながるものに触れることはできなかった」
なにかわかる気がした。いとしい人がいる者たちは郷里へ戻りたがったのだろう。
「指輪はあなたが自分で外したので、火に投げ入れました……。でも、本当はジグ人の持ち物を処分してはいけない決まりなの」
「それなのに、処分してしまったのだね? なぜ?」
姫はうなだれ、声は聞き取れないほど小さくなった。リョウは答えを促した。
「帰ってほしくなかった……あなたにずっといてほしかった。いけないことなのに。あなたをジグ人として縛り付けていたのは私だった……あなたを離したくなかった」
彼女だけがすべてを知っていたのだろうか。彼があれほど知りたがっていた回答を、彼女は最初から知っていたのだろうか。
「わ、私はずっとあなたの持ち物を残していた……けれど、ゼノアのお城でまた会えた、あなたと踊った、その晩にほかの全部を焼いて処分したの……」
「……なぜ、その時焼いたの?」
「それは…… それは、その時、愛していると言ってくれたから。だから、あなたが帰れないように焼きました。私は悪いことをしたのです。
でも、これだけは壊せなかったの。何をしても……」
リョウは夕べ見た夢を思い出した。
絢爛豪華な、ローソクがあかあかと灯された宮廷の大広間で人々の注目を浴びながら踊っていたふたり……まるで、昨日のことのように、いや、実際、昨日のことだったが、リーア姫にとってはずっと昔の話だった。
あの時の、ほんのわずかな一言が、そんな意味を持ったなんて……。
リョウは安堵のあまり思わず微笑んだ。
どうやら本当に、今度は夢じゃないらしい。
生きていてくれた。
あなたが生きていてくれた。
良かった……
彼の胸のうちには、ほっとした熱い思いがみなぎった。彼の望み、身を切るように強い望みは彼女だった……
彼女が死んじゃいないことに比べれば、そんなことは本当に些細なことだ。
あなたを逃がさないのは私の方だ。だが、うつむいていたリーア姫にはその微笑みは見えていないに違いない。
「あの奇妙な形の物は壊せなかったので、神の思し召しかもしれないと思いました。それで取っておきました。あれさえあれば、あなたはこの世の人でなく、不死身なのだから」
リョウは凍り付いた。
「不死身?」
「元の世界とのきずなが一つだけでも残っていれば不死身のまま。死なない、傷つかない。年を取らない。そしていつかいなくなってしまう。あなたは影の人。」
影の人? なんのことだ。
「私は影じゃない。さわれるし、つかめるし、私のせいで世の中は変わった。」
リョウは思わず大声を出した。リーア姫は泣いていた。泣きじゃくりながらつかえつかえ言った。
「私にはよくわからないの。でも、祖母は曽祖父からその話を聞いて書き留めていたの」
ああ、だが、それはその通りだった。
殴られても、切られても、撃たれても死ななかった。空間と時間を移動して、違う場所に現れるだけだった。
年も取らなかった。なにも変わらなかった。
彼の夢は、夢じゃなかったのだ。
リョウは、やっと、彼の夢の本当の意味を理解した。
彼は夢を見てたんじゃない。あれは現実だった。
時空を渡っていただけなんだ。彼の時間は止まっていたのだ。
そして、夢想ではない現実を、彼は垣間見ていたのだ。
本当に、影のように……
「あなたの持ち物を返さない限り、あなたは不死身で漂い続ける。でも、いつかは聞かねばならない決まりだった。帰るか、残るか……返事が怖くて先延ばしにしていたわ。だけど……」
彼女は、焦げたGショックを見た。
「もうだめ。あなたと元の世界をつなぐ最後のきずなは壊れてしまった」
今、傷を負ったまま同じ場所、同じ時間の続きにいるということの意味は……
「夕べは割れているように見えなかったのだけど、今朝見たら割れてダメになっていたの……」
夕べの夢は、Gショックの最後の力だったのか。
「リーア、いいんだ」
リョウは言った。
Gショックは壊れたが、彼女の命を救ってくれた。それでいい。
「もう、帰らない。どこにもいかない」
リーア姫は顔をあげた。
これからは、年を取り、病やけがにおびえ、そしてほかの誰もと同じようにこの地で死ぬのだ。リーアと一緒に。
「不死身のジグ人が良かっただなんて言わないで」
リョウは優しく言った。
「私は死ぬまでここにいる」
リーア姫はリョウの顔を見た。
「もうジグ人じゃない。愛してる」
彼は言った。
「これでよかったんだ。ここにいる。あなたのそばにいる」




