第35話 ゼノアを裏切れ
リョウは駆け出した。もう暗い。何も見えない。
何を言いたいのだろう。あそこじゃ人目があったってことなんだろうか。
そんなことよりも、そんなことよりも、今、リョウを突き動かしているのは、全然別のことだった。
「待っています。」
落ち着け。罠かもしれない。
尼僧院の近くまで来て、リョウはそう思った。
彼は少し道から外れて、様子を伺った。
静かな夏の晩で、寝ぼけた鳥が鳴く声がした以外、ごく静かで平穏だった。
リョウは、自分が住んでいた部屋を思い出そうとした。
彼の部屋は、台所など使用人のいるところからもリーア姫の部屋からも離れた場所だった。森から回り込めば、簡単にたどり着ける。それは2階だった。リョウは木を伝ってこっそり2階の部屋によじ登ろうと考えていたのだったが、記憶にあった木まで着いて、彼は驚いた。
木は大成長していた。
修道院に住んでいたのはいつのことだったか。
リョウの運命が彼を尼僧院に連れ込んだのは、リョウの時間から言うとほんの少し前のはずだった。だが、リーア姫のカレンダーから言えば、多分数年単位のずれがあった。
リョウは器用にするすると木を伝って、2階の窓を覗き込んだ。
よろい戸は開いていて、室内にはローソクが灯っていた。
誰かが座っていた。
リーア姫だ。どれだけ遠くにいても、彼にはわかる。
「会えた。」
彼の胸のうちには、温かい血が豊かにあふれてすべてを満たしていくようだった。ワナだろうとなんだろうと、どうでもよかった。彼はどこかでリーア姫を信じていた。
リョウはよろい戸の縁をつかんで中に入った。
「リョウ。」
それは、間違いなくリーア姫だった。
こんなに簡単に会えるだなんて、信じられない。
「リーア……」
暗い中、リョウは思わず一歩足を踏み出した。夢のようだ。リーア姫の白っぽい服が暗闇でほのかに光っていた。だが、リーア姫は一歩下がった。
そんな甘い話の雰囲気ではなかった。
一瞬、二人は黙って様子をうかがった。リーア姫が口を開いた。
「軍を組織できますか?」
リーア姫は低い声で聞いた。意外すぎてリョウは黙った。
「軍を?」
「ええ。」
リョウはリーア姫の顔を眺めた。ローソクしかない暗がりの中では表情は読めなかった。
「姫……」
リョウは絶句した。
「まさか、戦うおつもりですか?」
「必要なら。」
「いったい何のために?」
「私のために。」
リョウは再び黙った。
「そうまでして結婚したくないと?」
「いいえ。結婚だけではない。私はゼノアでは決して暖かく迎え入れられませんでした。ラセル様だけはいじわるではなかったけれど、そのほかの人たちはわたくしに好印象を持っていなかったので。王子様も王妃様も、ラセル様の奥方にも。」
リョウもそれは今となってはよく知っていた。この尼僧院でも彼女は冷たくあしらわれていた。リョウにすがりつかずにはいられないほどに。
「しかし、ラセル陛下はよい方であらせられる。」
「結婚したくはありません。」
リーア姫は言った。確かに、ラセル陛下がいかに姫君を愛していても、もう中年の陛下がロマンチックな恋人となっているところは想像しにくかった。
「リーア姫様、リップヘン殿はどうなのですか?幼馴染ではありませんか。」
リョウは言ってみた。
「リップヘン殿とは、小さい頃によく一緒に遊びました。当時、わたくしはまだ10歳にもなっていなかった。そんなことは考えもしなかった。」
「リップヘン殿は多分あなた様を愛しておられます。」
なんとなく言いにくかった。多分ではない。リップヘン殿は深く、この上なく深く姫を愛していた。その上、リップヘン殿は、若く、顔立ち整った貴公子だった。
「なぜ、あなたがそんなことを言うのですか?」
「リップヘン殿とは近しいお付き合いをさせていただいたことがあります。」
「では、大分殴られたでしょう。」
リョウは黙った。うっかり笑い出しそうになった。よく知っていらっしゃる。
「リップヘン殿は、むずかしい性格の方。おそらく王には不向きでしょう。」
リョウははっとした。
「優秀で頭の良い方です。しかし、感情的でもある。軍を率いることは出来ても、それ以外がどの程度出来るか。王になったら横暴さが目立つかもわかりません。」
「ラセル陛下は……」
「ラセル様は、温厚で冷静。頭のよしあしより、こういった性質の方が王には必要でしょう。ゼノアはよい王を迎えられた。でもマノカイの王ではありません。マノカイの者が納得する王ではありません。」
そのとおりだった。ふたり共に難があった。姫君の言っていることは、すべてのマノカイ人が抱える問題だった。そしてリョウは目を見張った。このまだ若すぎる姫君が、こんな風に物事をとらえていただなんて、驚きだった。
「私は自分で立とうと思いました。でも、できない。どうしても足りないものがある。それは軍です。」
リョウは姫君の美しい顔を見た。彼はかなり驚いた顔をしていた。そのとおりだ。軍は女性の仕事ではなかった。もっと違う女性だったら、できる人がいるかもしれなかったが、この姫君には無理だとリョウも思った。誰か、誰か男性と一緒に仕事をしなくてはならないのだ。
「あなたの噂は聞いたことがある。最近、リンゲルバルト殿の配下に召抱えられたラセル陛下の武人で、非常に優秀だと。特に新兵器の扱いと、軍の采配が抜群だと。」
「おそれいります。いったい、どこからそのような噂が……」
「だが、1年前、ゼノアの元王妃側が仕掛けたラセル陛下の暗殺未遂事件で、ラセル陛下の身代わりになって死んだと伝えられた。」
「……はい……。」
「死んだはずが生きていた。東渡りのジグ人だから生き返ったのか、そもそも初めから死んではいなかったのか?」
リョウは黙っていた。自分でもわからない。
「だが、一般には死んだものとされている。今日は、リョウの歌声を聞いてとても驚いた。リョウに間違いない。生きていてくれた。だが、それなら、死んだままで、私の下で働いてもらおうと思った。名前を変えて、別人となって。」
リョウはまさに驚愕した。言われた言葉をキチンと理解するのに時間がかかった。
「リーア姫……。」
姫がこの国がどんなに古い因習にとらわれているのか知らないはずがなかった。無名の流れ者の命令など、どこの誰も聞くはずがない。
「リーア姫様、わたくしでは兵たちが従いません。」
姫はリョウの顔を見た。
「だから名を変えてと言っている。」
「は?」
「私の父の配下に親しい将軍がいた。父の教育係を努めていたのだ。ライカと言った。父が死んでしばらくして亡くなったのだが、その息子を名乗りなさい。」
「え?」
「息子は、ジェルナンと言う名前だった。年はリョウとそう変わらないはず。」
「姫様、その方はもしかして実在の方ですか?」
「そう。」
「本人は、今、なにをされていますので?」
「彼は体が悪かったので、僧になっていた。今から2年位前に亡くなっている。だが、誰も知るまい。」
「その方の身代わりですか?」
「ジェルナン・ライカは父親と名前が一緒なのだ。正確にはジェルナン・ライカ・ジュニアだ。知名度は抜群だ。ライカ将軍の息子が、リーア王妃の下に馳せ参じたとなれば、人々はいろいろなことを思い出すと思う。」
リョウは黙った。彼はそんなマノカイ王家の事情はさっぱり分からなかった。全く無理な計画なのではないかと思った。
「その計画、大丈夫なんですか?」
「多分。」
「多分って……。私は、ラセル陛下にも顔をよく知られているし、リップヘン殿も私のことをよく知っています。声も、顔も。」
「心配する必要はないでしょう。なにしろ、東渡りのジグ人です。リョウと言う名前でいろいろな場所に出現していたが、実はそれらすべてが仮の姿で、正体がジェルナン・ライカと言うことにすればよい。とりあえずはマスクをすればよい。」
リョウはそれまでこの世界の誰にも言ったことのない真実を口にした。これには少し勇気がいった。
「姫君、私は東渡りのジグ人ではなくて、日本人で名前は大海良。正体はあなたが知らない国の知らない世界の人間ですよ?」
「でも、今はここにいる。あなた一人が異邦人なのではない。昔、説明されたけど、覚えられなかったし、未だによくわからないし、それより、兵士の使い方がうまくて作戦がうまくて新兵器に通じていて忠実と言う点が重要です。昔からの大貴族で軍人の一家の出で、ヴェヴェイ王子の養育係を務めたライカ殿のご子息が、渦中の姫を救出に来るのです。」
「すみません、ライカ殿は、大貴族なんですか?」
「そう。ライカ殿の母君は、ヴェヴェイ王子(つまり私の父だが)と従妹に当たる。」
リョウは驚愕した。そんな大貴族に成りすませと?無理だ。




