第32話 楽師リョウ、リーア姫に再会する
リュートの弦が最初の音をかき鳴らす。
そのたったひとつの音だけで、その者のリュートの腕前はわかるものだ。
澄んだ、よく響く音で、美しく繊細な旋律が庭いっぱいに広がった。
尼僧院の女たちも、アルビスも、ダンカンの部下の若い衆も、あっけに取られて、リョウを見つめた。
「なんと美しい。素晴らしいわ!」
女たちは聞きほれ、夢中になって拍手した。
「マロイ、お前は歌い手だといっていたが、実はリュート弾きだったのか。」
「ちがいます、アルビス様。歌い手ですよ。」
「歌も歌えるのですか?」
はしゃいで手を叩いて尼僧院の下女頭が尋ねた。
「はい、奥方様。」
リョウは優雅に一礼しながら丁重に答えた。そのありさまは、どう見ても商人でもなければ、村を渡り歩く吟遊詩人にも見えなかった。宮廷に仕える楽師の優雅な雰囲気がひとりでに出ていた。
「何をご披露いたしましょう?神の園では恋歌は不謹慎でしょうか?」
この言い方も、どう聞いても兵士や商人ではなかった。王家の姫君を預かる尼僧院でさえ規格外らしく、下女頭は一瞬意味がわからなくてきょとんとしていた。
「では、花の美しさをめでる歌を。」
リョウはまたリュートを取り出すと、最初の前奏を引き始めた。人々は黙った。
彼が歌い始めると、聞いている者達は陶然とした。響き渡る深みのある豊かな声は耳に心地よく、音程もリズムもまったくゆがまず、心ははるばると歌のままに運ばれていく。
全員が大喜びだったが、アルビスたちはむしろ不思議に思ったようだった。
「これほどの歌い手がなぜこんな所に?」
アルビスは、王の計画にこの男が参加した意味を理解したと思った。
「そうか、この楽師を連れてきたのはそういうわけか。姫君を懐柔するために連れてきたんだ。きっと王国一の歌い手なんだ。」
「なんてすばらしい!」
「もう一曲ぜひお願いしたいわ!」
もう一曲とせがむ下女たちのうしろがざわざわし始めた。
「姫様が?」
「ああ、待って。次の曲は少し待って。いま、ちょっと……」
リョウは待たなかった。姫様がいるのなら、この歌を聞いてもらいたい。
昔一度聞いたことがあるはずだ。私の歌を。覚えていますか?この歌を。
リュートの前奏の後に、先ほどとは違う静かな歌声が夢のような美しさで広がっていった。
人々は彼を止めることを忘れて、ひたすらに聞き入った。歌が終わって、リョウが宮廷風に深くお辞儀をすると、人々はようやく我に返り、彼を見つめた。
「商人は帰ってよろしい。楽師はここにとどまるように。姫様がもう少し歌を聞きたいと仰せです。」
アルビスたちは、かしこまって尼僧院を去った。リンゲルバルトの下に帰ってから、アルビスは少々興奮気味に報告した。
「簡単でした。おっしゃるとおり一曲歌ったら、すぐにとどまれと命じられていました。マロイ殿は。」
リンゲルバルトもちょっとびっくりしたようだった。
「そうか。えらくうまくいったものだな。」
「あの方は、王国一の歌い手だったのですね。すばらしい歌声でした。尼僧院全体が泣いていました。」
リンゲルバルトはリョウの歌を実際には聴いたことがなかった。聞きたくないといって断ったのである。
「一度俺も聞いておけばよかったかもしれないな。歌ってやるといわれたんだ。でも、あんまり音楽には興味がなかったもので……」
「もったいないことをしましたよ。」
「うむ。また戻ってきたら、聞かせてもらうか。リップヘンがこちらに向かってきているという情報があるんだ。早くけりをつけないと……。」
「あの方なら姫君様を説得できるかもわかりません。女どもが全員で束になって大絶賛してましたよ。そばで見ている時は、何も思わなかったのですが、ああやって歌っているのを見ると、とんでもなく男前に見えてきました。」
「あいつは、もともとは射撃の名手なんだ。そっちの方が腕があると思ってたんだが、そうか、女たらしの才があったか。」
「この際、その才能の方に期待しましょう。ドンパチやらなくて済むかもわかりません。」
「確かにそのほうが生産的だが……」
リンゲルバルトはまだどこか信じられないといった様子だった。
リョウは、尼僧院の中に案内された。中は暗くてひんやりしていた。
「姫様が歌を聞きたいなどとおおせられるので。」
身分の高そうな尼僧が猛烈に不満そうに、リョウが悪いといわんばかりに、建物の中にいざなった。
「尼僧院にこのような下賎な詩人を入れるとは。ああ、これ、マロイとやら、どこへ行く?」
「ホールではございませんか?」
「ホールなどにお前を入れるものか。面談室です。」
「面談室?」
「下の応接間です。」
「かしこまりました。」
リョウは歩き出した。数ヶ月、ここで暮らしたことがある。幼かったリーア姫との思い出の場所だ。
リョウは、尼僧がびっくりして、リョウを見つめていることにようやく気づいた。
「どうかしましたか?」
尼僧はどもった。
「なぜ、なぜ知っている?」
「なにを、でございましょう?」
リョウは丁重に聞き返した。
「なぜ、この建物のことを知っているの。下の応接室の場所なんて……」
「どの建物も似たような構造でございますから。」
「そんなことはない。この建物は、亡き王妃様の肝いりで特別に作られたのだ。」
「それは存じませんでした。」
「前にここへ来たことがあるのか?」
リョウは思わずニッコリした。
「わたくしは、東渡りのジグ人でございますゆえ。」
「東渡りのジグ人?」
「はい。ご存じないかもわかりませんが、ジグ人と言うのは……」
「予知能力があり、占いを良くする……」
「はい。ですから知っておりまする。」
「ここをか?」
「ここでも、どこでも、知っていることがあります。知らないこともあります。」
尼僧は廊下の途中で立ち止まった。
明らかに不安になったらしかった。姫君に会わせてよいものかどうか心配になったのだ。
「ご心配なく。王族の方の運命は、わたくしごときの力では変わりませぬ。」
リョウは、にこやかにいかにも確信ありげに嘘八百をかました。ほんとのところなんて、彼にも誰にだってわからない。
尼僧は警戒心をいっぱいにしながら、おずおずと彼を部屋の中に入れた。
何年か前と全く一緒だ。
あの時もお付きたちは、姫君に不吉なものを呼び寄せてはいけないと、極力彼を避けようとした。
姫君は笑い飛ばしていた。リョウはその頃彼のいたその国の状況を全くわかっていなかった。
数年ぶりに、再び二人きりで会う今、姫君は大人になっていて、リョウは、この世界の一員になっていた。
「これでいいんだろうか?」
マノカイが戦火に焼かれ焦土と化そうと、ゼノアとラセルが領土拡大の野心をたぎらせようと、リョウにとってはどうでもいいことではないのだろうか? そんなことのために、あの小さかったリーア姫が無理やり結婚させられて……。
樫の木製の重いドアが、軽く軋んで開いた。
尼僧は一緒に中へ入らなかった。彼女は一礼すると少し不安そうにリーア姫に眼をやったが、そのまま出て行った。
二人きりだった。




