37話「最期の盾」
森の奥。
追手の声は。
もう聞こえなかった。
「クラブ!」
王が叫ぶ。
地面には。
大盾が転がっていた。
その隣。
クラブが倒れている。
「おい!」
王が駆け寄る。
傷口を押さえる。
「クラブ!」
「…………」
「目を開けろ!」
「……うるせえなぁ」
僅かに。
クラブの目が開いた。
「クラブ!」
「聞こえてますよ……陛下」
いつもの。
クラブだった。
だが。
声に力がない。
王の手の間から。
血が溢れていく。
「止まらん……」
王が傷口を押さえる。
「なぜ止まらん!」
「陛下」
「…………」
「誰か!」
王が振り返る。
誰も。
答えなかった。
ここは森の中。
王都から遠く離れた。
敵地。
そして。
誰の目にも。
分かっていた。
「……陛下」
クラブが王を見る。
「もう……いいですよ」
「何がだ」
「…………」
「何がいい!」
クラブが。
困ったように笑った。
「昔から……」
「…………」
「そういうところ」
「何だ」
「言ったら……聞かねえんだよなぁ」
王の手が止まる。
クラブが。
頭上の木々を見る。
「懐かしいな……」
◇
何年も前。
まだ。
王が王子でニアがただの雑用係だった頃。
クラブを含めた三人が。
森の中を走っていた。
本来なら。
今日はハートとの勉強の日だった。
歴史。
法律。
道徳。
王になるために必要なものを学ぶ日。
そのはずだった。
だが。
今。
三人の手にあるのは。
本ではない。
木の枝だった。
「こっちです!」
「どこまで行く気だ!」
「いい場所見つけたんですよ!」
木々を抜ける。
その先。
小さな川が流れていた。
「おお……」
王子の目が輝く。
ニアも。
辺りを見回した。
「綺麗ですね」
「でしょう?」
クラブが得意げに笑う。
「今日からここ」
一本の木を指差す。
「俺たちの場所にします」
「俺たちの?」
「はい」
◇
三人で。
木を集めた。
枝を集めた。
石を運んだ。
「クラブ」
「何です?」
「これで本当に家になるのか?」
「なります」
「さっきから傾いているぞ」
「気のせいです」
「どう見ても傾いている」
「殿下」
ニアが言った。
「右側を押さえてください」
「なぜ余が!」
「倒れます」
「早く言え!」
三人で。
木を支える。
「クラブ!」
「はい!」
「早くしろ!」
「今やってます!」
「ニア!」
「はい!」
「そっちを持て!」
「持っています!」
――バキッ。
「…………」
「…………」
「…………」
倒れた。
しばらく。
三人とも黙っていた。
「クラブ」
「はい」
「家にならなかったぞ」
「…………」
「秘密基地です」
「何が違う」
「家じゃないので」
「そういう問題か!」
ニアが。
吹き出した。
「ニア!」
「申し訳ありません」
「お前まで笑うな!」
そう言って三人で笑っていた。
結局。
三人で作ったのは。
屋根らしきものがあるだけの。
小さな小屋だった。
雨が降れば。
多分。
全部入ってくる。
風が吹けば。
多分。
倒れる。
それでも。
三人には。
立派な城だった。
◇
それから。
三人は。
何度もそこへ行った。
勉強が嫌になった日。
稽古で疲れた日。
父王に怒られた日。
何でもない日も。
川で魚を追った。
木に登った。
森の奥を探検した。
知らない洞穴を見つけて。
三人で入った。
「暗いな」
「怖いんですか?」
「怖くない!」
「ニアは?」
「少し」
「なら俺の後ろ来い」
「…………」
「殿下も」
「余は怖くない!」
「じゃあ先頭どうぞ」
「…………」
「殿下?」
「今日はお前に譲る」
「怖いんじゃないですか」
「違う!」
いつだって三人一緒だった。
クラブが先頭。
王子がその後ろ。
ニアがその隣。
三人で。
知らない場所へ進んだ。
◇
ある日。
川辺で。
三人は寝転んでいた。
「なあ」
王子が言った。
「何です?」
「余が王になったら」
「はい」
「もうこうやって遊べないのか?」
クラブが空を見る。
「さあ」
「さあって……」
「俺、王様になったことないんで」
「当たり前だ!」
ニアが小さく笑う。
「でも」
クラブが言った。
「別にいいんじゃないですか」
「何がだ」
「王様になっても」
「…………」
「嫌になったら逃げてくりゃ」
「王が逃げていいのか?」
「たまには」
「…………」
「その時は」
クラブが笑った。
「また三人でここ来ましょう」
王子が笑う。
「その頃には、この小屋は壊れているぞ」
「じゃあ作り直せばいい」
「また傾くのでは?」
ニアが言った。
「次は真っ直ぐ作る」
「信用できませんね」
「ニアまで!?」
三人の笑い声が。
森に響いた。
◇
「…………」
クラブが。
ゆっくりと目を開けた。
木々の隙間から。
光が差し込んでいる。
風が吹く。
葉が揺れる。
そして。
どこかから。
水の流れる音。
「……なあ」
「何だ?」
王が顔を近づける。
「ここ……」
「ここ?」
クラブが。
ゆっくりと周囲を見る。
「昔の……」
息を吐く。
「秘密基地があった場所に……」
僅かに笑った。
「似てるな」
「…………」
王も。
辺りを見る。
森。
木漏れ日。
川の音。
あの日と。
よく似ていた。
「……ああ」
王が答える。
「似ているな」
「…………」
「懐かしいなぁ……」
クラブが笑う。
「あの小屋……」
「酷い出来だったな」
「お前が作ったんだろう」
「そうでしたっけ」
「そうだ」
「ニア」
クラブが呼ぶ。
「……はい」
「雨……漏れてたよな」
「ええ」
ジョーカーが。
笑おうとして。
やめた。
「酷いものでした」
「ハハ……」
クラブの声が。
少しずつ。
弱くなる。
「また……」
「…………」
「三人で……」
王が。
クラブの手を強く握った。
「行こう」
「…………」
「帰ったら探しに行くぞ」
「……ああ」
「まだ残っているかもしれん」
「そうだな……」
「残っていなければ」
王の声が震える。
「また作ればいい」
「…………」
「今度はもっと立派なものを作る」
「…………」
「だから」
王が。
クラブの手を握る。
「帰るぞ」
「…………」
「三人で」
クラブは。
しばらく王を見ていた。
「……殿下」
「…………!」
王の表情が止まる。
陛下ではない。
昔の。
呼び方だった。
「何だ」
「それ……」
「…………」
「前にも……言ってたな」
「何がだ」
「また……作ろうって」
「…………」
「だから作るんだ!」
王が叫ぶ。
「今度こそ!」
「…………」
「これは王命だ!」
「…………」
「生きろ!」
クラブが。
小さく笑った。
「参ったな……」
「…………」
「何がだ!」
「初めてですよ」
「何がだ」
「殿下の命令……」
息を吐く。
「守れそうにねえの」
「クラブ!」
王の声が。
森に響く。
クラブは。
ゆっくりと。
ジョーカーを見る。
「……ニア」
ジョーカーの身体が。
僅かに震えた。
「はい」
「その顔……やめろよ」
「……どのような顔でしょう」
「道化の顔」
「…………」
「俺の前でまで」
クラブが笑う。
「道化を演じなくていいだろ」
「…………」
ジョーカーの笑みが。
ゆっくりと消えた。
「……困りましたね」
「何が」
「あなたは昔から」
ジョーカーが俯く。
「余計なところばかり見ています」
「近衛だからな」
「関係ありませんよ」
「…そうだな」
「ええ」
「…………」
クラブが。
昔と同じように呼ぶ。
「ニア」
「……何?」
「殿下のこと」
クラブが王を見る。
「頼むわ」
「…………」
「昔から」
苦しそうに笑う。
「すぐ無茶するから」
「お前にだけは言われたくない!」
「ハハ……」
ジョーカーが。
俯いたまま答える。
「……分かりましたよ」
「…………」
「ちゃんと」
声が震える。
「連れて帰る」
「そうか」
「うん」
「……なら、いい」
クラブは。
今度は。
スペードを見る。
「スペード」
「……何だ」
「悪いな」
「何がだ」
「先に……休むわ」
「…………」
「後は頼んだ」
スペードは。
拳を握る。
そして。
静かに答えた。
「……任せろ」
「おう」
クラブが。
再び。
空を見る。
木々の隙間から。
光が差している。
葉が揺れる。
川の音がする。
「…………」
その目には。
何が見えていたのだろう。
今いる森か。
それとも。
あの日の森か。
「……殿下」
「何だ」
「ニア」
「何?」
「楽しかったなぁ……」
「…………」
「…………」
王が。
クラブの手を握る。
「ああ」
ジョーカーも。
笑わずに答えた。
「……うん」
「そうか……」
クラブの口元に。
僅かな笑みが浮かぶ。
「じゃあ……」
瞼が。
ゆっくりと閉じていく。
「また……三人で――」
声が。
止まった。
「…………」
「クラブ?」
王が呼ぶ。
「おい」
「…………」
「クラブ」
返事は。
なかった。
風が。
森を抜けた。
葉が揺れる。
川の音だけが。
静かに聞こえていた。
クラブの顔には。
僅かな笑みが残っていた。
まるで。
あの日。
三人で作った秘密基地に。
帰ったように。
その傍らには。
傷だらけの大盾。
最後まで。
それは変わらなかった。
王の前に立ち。
道化の前に立ち。
二人を守った。
近衛騎士団長。
クラブ。
王の最後の守り。
そして。
二人にとって。
ずっと。
兄貴だった。
その日。
王と道化は。
最期の盾を失った。




