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王の愚者  作者: クロワ
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35話「決行の刻」

それから。


 王弟は各地を回るようになった。


 名目は――視察。


 地方の暮らしを見る。


 軍の駐屯地を確認する。


 領主たちから話を聞く。


 王族として。


 だが。


 王弟には。


 もう一つの目的があった。


 ◇


「この国は平和だ」


 集まった民を前に。


 王弟はそう言った。


「少なくとも」


 一拍。


「王都に住む者たちは、そう思っている」


 ここは北部。


 山と森の多い土地だった。


 険しい山々の向こうには国境がある。


 盗賊。


 山賊。


 そして時には。


 国境を越えて騎馬民族までやって来る。


 王弟は。


 焼け落ちた家を見る。


「この家は?」


「盗賊です」


 村人が答える。


「いつだ」


「五日前です」


「軍は?」


「来ましたよ」


「なら――」


「三日後に」


「…………」


「その頃には、とっくに山へ逃げた後でした」


 王弟は黙った。


 かつて。


 留学先で見た街を思い出す。


 国がある。


 軍もある。


 それでも。


 民を守れない。


 王弟は人々へ向き直った。


「王都の人間は言う」


「この国は平和だと」


 誰も答えない。


「だが」


 焼けた家を指す。


「お前たちは、本当にそう思うか?」


「…………」


「盗賊に怯え」


「騎馬民族に怯え」


「助けを求めても、軍が来るのはすべてが終わった後」


 王弟の声が強くなる。


「それを――」


 一拍。


「平和と呼べるのか?」


 誰も。


 平和だとは言わなかった。


「俺は戦争がしたいわけじゃない」


 王弟は続ける。


「むしろ逆だ」


「戦争を避け続ける国ではなく」


「戦争を仕掛けられない国にしたい」


 民が顔を上げる。


「盗賊が村を見て、襲うことを諦める」


「他国が国境を見て、越えることを諦める」


「敵が俺たちを見て――」


 拳を握る。


「戦うことそのものを諦める」


「そんな強い国を」


「俺は作りたい」


 静寂。


 やがて。


 一人の若者が拳を上げた。


「俺は殿下についていく!」


「俺もだ!」


「俺たちにも戦い方を教えてくれ!」


「自分たちの村くらい、自分たちで守りたい!」


 声が増えていく。


 王弟は。


 その光景を静かに見つめていた。


 ◇


 北部では。


 王都より遥かに。


 王弟の言葉が届いた。


 理由は。


 単純だった。


 彼らは。


 恐怖を知っていた。


 昨日までいた隣人が殺される。


 育てた家畜を奪われる。


 家を焼かれる。


 彼らにとって。


 平和とは。


 当たり前に存在するものではなかった。


 そして。


 噂も広がっていた。


 王弟は口だけではない。


 盗賊が来れば。


 自ら剣を持つ。


 民と共に戦う。


 その隣には。


 ガレスという恐ろしく強い男もいる。


 だから。


 若者たちは集まった。


「俺も戦えるようになりたい」


「家族を守りたい」


「この国を変えたい」


 農民。


 職人。


 猟師。


 商人の息子。


 少しずつ。


 北部から。


 若者たちが姿を消していった。


 だが。


 誰かに連れ去られたわけではない。


 彼らは。


 自分の足で。


 王弟のもとへ向かった。


 後に。


 王国を騒がせることになる――


 消えた若者たち。


 彼らは。


 消えたのではない。


 この国を。


 見限ったのだ。


 ◇


 王弟は急がなかった。


 一つの村から数人。


 一つの町から。


 また数人。


 何年もかけて。


 少しずつ。


 人を集めた。


 そして。


 ガレスが彼らを兵士へ変えていった。


 文字も満足に読めない者。


 兵法など学んだこともない者には。


 不思議なほど伝わった。


 農民だった者が。


 剣を振れるようになる。


 猟師だった者が。


 弓兵になる。


 若者たちは。


 少しずつ。


 兵士へ変わっていった。


 ◇


 そして。


 王弟の思想に共鳴したのは。


 若者だけではなかった。


 北部の教会。


「また一つ、村が襲われました」


 神父が言った。


「軍は?」


「間に合いませんでした」


「…………」


 神父は祭壇を見る。


「私は何年も祈ってきました」


「村をお守りください」


「民をお守りください、と」


 小さく笑う。


「ですが」


「祈っているだけでは、盗賊は剣を置いてくれないようです」


「神父がそんなこと言っていいのか?」


「神も」


 神父は王弟を見る。


「自ら立ち上がる者を、お咎めにはならないでしょう」


 そして。


 一つの袋を置いた。


「これは?」


「この教会に集まった献金の一部です」


 王弟の目が細くなる。


「……教会の金だぞ」


「承知しています」


「大神殿に知られれば、ただでは済まない」


「それも」


「ですが」


 神父は袋を引かなかった。


「神に捧げた金で」


「神の子である民を守れるのなら」


「私は、そちらを選びます」


「…………」


 王弟は。


 しばらく袋を見つめた。


 そして。


 受け取った。


 それが。


 最初だった。


 ◇


 一つの教会から。


 僅かな額。


 やがて。


 二つ。


 三つ。


 王弟の思想が北部へ広がるにつれ。


 協力する神父たちも増えていった。


 献金の一部を。


 修繕費。


 救済費。


 布教費。


 様々な名目に紛れ込ませる。


 一度に大金は動かさない。


 少しずつ。


 教会へ捧げられたはずの金が。


 王弟のもとへ流れていった。


 ◇


 物資も。


 同じだった。


 剣。


 槍。


 盾。


 鎧。


 食糧。


 薬。


 王国軍の倉庫から。


 地方の備蓄から。


 輸送される荷から。


 ほんの少しずつ。


 紛失。


 破損。


 廃棄。


 帳簿の数字だけを。


 僅かに変える。


 誰も気づかない。


 その裏には。


 王弟に共鳴した役人。


 兵士。


 そして。


 軍の将校たちまでいた。


 人。


 金。


 武器。


 食糧。


 少しずつ。


 少しずつ。


 王弟が蒔いた種は。


 王国の中へ。


 静かに根を張っていった。


 ◇


 そして。


 半年前。


 王弟のもとへ。


 一人の男が訪れた。


「遠路はるばる、ご足労だったな」


「お会いできて光栄です」


 男は。


 この国の人間ではなかった。


 他国からやって来た――


 宣教師。


「あなたのお噂は、国外にも届いております」


「どんな噂だ?」


「強い国を作ろうとしている王子がいる、と」


「…………」


 王弟の目が僅かに細くなる。


「布教に来たんじゃないのか?」


「もちろん」


 宣教師は微笑む。


「それも目的の一つです」


「他は?」


 宣教師が。


 一枚の書類を机へ置いた。


 王弟が目を通す。


「…………」


 そこに記された金額を見て。


 王弟の目が止まった。


「これは?」


「融資です」


「俺に?」


「ええ」


「随分と気前がいいな」


「あなたの理想に賛同している方がおられます」


「国外に?」


「ええ」


「誰だ?」


 宣教師は微笑むだけだった。


「……見返りは?」


「いずれ」


 宣教師は王弟を見る。


「新しい国が生まれた時にでも」


「改めてお話ししましょう」


「…………」


 王弟は書類を見る。


 善意だけの金ではない。


 そんなことは。


 分かっている。


 だが。


 これだけあれば。


 武器を揃えられる。


 兵を養える。


 拠点を増やせる。


 今まで。


 何年もかけて作ってきたものを。


 一気に大きくできる。


「……いいだろう」


 王弟は書類を手に取った。


「借りる」


 宣教師が微笑んだ。


「賢明なご判断です」


 その日を境に。


 すべてが加速した。


 武器が増えた。


 食糧が増えた。


 拠点が増えた。


 人も増えた。


 何年もかけて。


 少しずつ作り上げてきた集団は。


 僅か半年で。


 一つの軍と呼べる規模へ膨れ上がった。


 ◇


 そして――


 今日。


『余が直接、国境へ向かう』


 民を前に。


 兄はそう宣言した。


 王弟も。


 その場にいた。


「…………」


 国境。


 王都から離れ。


 王自らが動く。


 王弟は。


 その瞬間に決めた。


 何年も待った。


 人を集めた。


 金を集めた。


 武器を集めた。


 兵を育てた。


 将も集めた。


 すべて。


 揃っている。


 ◇


「……今日だ」


 王弟が言った。


 ガレスが顔を上げる。


「決めたのか?」


「ああ」


 王弟は剣を取った。


「始めるぞ」


 ガレスが大剣を担ぐ。


「待ちくたびれたぜ」


 王弟が笑う。


「なら――」


 扉へ向かう。


「国を取りに行こう」


 ガレスも。


 その後に続く。


 何年もの歳月をかけて。


 王国の中に。


 誰にも知られず作られた。


 もう一つの軍。


 後に。


 反乱軍と呼ばれる者たちが。


 この日。


 初めて動き出した。

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