32話「仕組まれた敗北」
――一度、負ければいい。
だがすぐに、一つの問題に気づいた。
ただ負けるだけでは意味がない。
辺境の小競り合いで一部隊が敗れたところで。
民はすぐに忘れる。
次は勝てばいい。
運が悪かった。
そう思うだけだ。
必要なのは。
この国は強い。
自分たちは安全だ。
そう信じて疑わない民の目を覚ますほどの――
敗北。
「…………」
王弟は軍の資料を眺める。
そして。
二人の名で手を止めた。
スペード。
ガレス。
大将軍になったばかりのスペードと。
最後までその座を争ったガレス将軍。
王国最強の二人。
人々は彼らを。
――王国の双璧。
そう呼んでいた。
「この二人が……」
王弟が呟く。
「負ければいい」
王国最強が敗れる。
双璧ですら国を守れない。
それを知れば。
民もようやく理解するだろう。
平和など。
いつ奪われてもおかしくないのだと。
◇
それからしばらくして。
王国は隣国との戦争に入った。
当然。
双璧も戦場へ送られた。
王弟もまた、王族として従軍していた。
スペードとガレス。
二人の戦い方を。
王弟はよく知っていた。
ガレスが突っ込む。
敵陣を力ずくでこじ開ける。
当然。
ガレスの部隊は突出する。
そこへ。
スペードが援軍を送り込む。
ガレスが開けた穴を広げ。
スペードが戦線を支える。
一見すれば。
あまりにも無茶な戦い方。
だが。
二人だからこそ成立していた。
ガレスは振り返らない。
自分が突っ込めば。
必ずスペードが後ろを埋めると知っているから。
スペードも止めない。
ガレスなら敵陣を突破すると知っているから。
互いの力を。
互いが誰よりも理解していた。
そして何より。
互いを信じていた。
王弟は。
その戦い方を利用した。
◇
夜。
王弟は一人の男に紙を渡した。
「敵へ届けろ」
男の顔が強張る。
「……よろしいのですか」
「ああ」
「これは……」
王弟は何も言わない。
紙には。
双璧の布陣と進軍経路が記されていた。
ガレスは必ず前へ出る。
敵が退けば、さらに追う。
そして。
ガレスが突出すれば。
スペードは必ず援軍を送る。
「正面から双璧と戦うな」
王弟は静かに言った。
「ガレスを誘い込め」
「…………」
「奴の前だけ、薄くするんだ」
敵が崩れたように見せる。
逃げる。
追わせる。
ガレスを。
敵陣の奥深くまで。
「そして」
王弟の指が地図をなぞる。
「ここだ」
ガレスへ続く道。
「スペードは必ずここへ援軍を送る」
「そこを……」
「ああ」
王弟は答えた。
「伏兵で叩かせる」
男は紙を見る。
「味方にも犠牲が出ます」
「分かっている」
「ガレス将軍も……」
「殺す必要はない」
王弟は男を見る。
「必要なのは、敗北だ」
国を滅ぼすつもりはない。
ただ。
一度だけ。
負ければいい。
「この国には」
王弟は呟いた。
「敗北が必要なんだ」
◇
戦いが始まった。
「押せええええ!!」
ガレスの怒号が戦場に響く。
大剣が敵兵を薙ぎ払う。
敵陣が崩れる。
「逃げるぞ!」
「追え!」
ガレス隊が前へ出る。
一つ。
敵陣を抜く。
二つ。
さらに奥へ。
「将軍! 少し出過ぎです!」
「構わん!」
ガレスは笑った。
「穴さえ開けりゃ、あいつが埋める!」
迷いなどなかった。
いつものことだった。
自分が前へ出る。
スペードが後ろを支える。
それで何度も勝ってきた。
「進めぇ!」
ガレスは。
敵が逃げているのではなく。
自分を誘い込んでいることを知らなかった。
◇
「……またあの馬鹿が」
報告を聞いたスペードが額を押さえる。
「ガレス将軍、さらに敵陣深くへ進んでいます!」
「分かっている!」
スペードは地図を見る。
「援軍を出せ!」
「はっ!」
「急げ! あいつが完全に孤立する前に合流しろ!」
命令は出された。
確かに。
スペードは。
ガレスを助けるために援軍を送った。
だが。
その進路を。
敵は知っていた。
◇
「敵襲!!」
叫び声。
援軍の側面から矢が降り注ぐ。
「伏兵だ!」
「盾を上げろ!」
森から。
丘から。
待ち構えていた敵兵が一斉に襲いかかる。
援軍の足が止まった。
そして。
その先では。
ガレスが待っていた。
◇
「援軍はまだか!」
「来ません!」
「んなわけあるか!」
ガレスが敵兵を斬り伏せる。
「スペードが送ってる!」
だが。
来ない。
一人。
また一人。
部下が倒れていく。
気づけば。
周囲は敵ばかりだった。
「……クソが」
ガレスは血を吐き捨てる。
身体中に傷を負っている。
それでも。
剣を握った。
「来いよ」
敵兵たちが囲む。
「全員まとめて――」
踏み込もうとした。
だが。
足が動かなかった。
「……っ」
膝をつく。
限界だった。
敵兵が迫る。
ガレスは最後の力で立ち上がる。
斬る。
斬る。
斬る。
そして。
背後。
もう。
地面はなかった。
「…………」
崖。
敵兵の刃が迫る。
ガレスは身体を捻る。
足元が崩れた。
「――っ!」
身体が宙へ投げ出される。
落ちていく。
崖の下へ。
◇
どれほど経ったのか。
ガレスには分からなかった。
身体が動かない。
血の味がする。
視界も霞んでいる。
それでも。
意識だけは残っていた。
足音が聞こえた。
「…………」
誰かが来る。
ガレスの口元が。
僅かに緩んだ。
「……遅えんだよ……」
足音が近づく。
「……スペード……?」
「残念だが」
男の声だった。
「違う」
ガレスの目が僅かに開く。
「……誰だ」
男は答えない。
「待っているのか?」
「……何を」
「援軍を」
ガレスは笑った。
「……来る」
「…………」
「あいつは……来る……」
「そうか」
男がしゃがみ込む。
「ならば、一つ教えてやろう」
「……何を」
「なぜ今回だけ、援軍が来なかったのか」
ガレスの目が動く。
「……伏兵に……」
「違う」
男は即答した。
「援軍など――」
一拍。
「最初から送られていない」
「…………」
ガレスの笑みが消えた。
「……何?」
「スペードは、お前を助けるつもりなどなかった」
「……ふざけんな」
「考えてみろ」
男は静かに続ける。
「王国の双璧」
「…………」
「大将軍の座を最後まで争った二人」
ガレスの拳が僅かに動く。
「お前は公言していたそうだな」
『大将軍の座を奪い返す』
「……それが何だ」
「スペードにとって――」
男が笑う。
「随分と邪魔な存在だっただろうな」
「…………」
「敵陣へ突出するお前」
「救援を求める部隊」
「そして――援軍を送らない大将軍」
「黙れ……」
「これほど自然にライバルを消せる機会もない」
「黙れ!」
ガレスが身体を起こそうとする。
「ぐっ……!」
激痛に倒れる。
「スペードが……そんなことするわけ……」
「なら待てばいい」
男は立ち上がった。
「…………」
「お前の言う通り、あの男がお前を助けに来るというのなら」
背を向ける。
「ここで待っていればいい」
ガレスは崖の上を見る。
「来れば――」
男が言った。
「私の嘘だ」
一歩。
男が離れていく。
「来なければ――」
足を止める。
「お前が信じた男の、嘘だ」
ガレスは答えなかった。
ただ。
来るはずの男を待っていた。
だが。
援軍は来なかった。
当然だった。
スペードは送っていた。
ガレスを救うために。
だが。
その道には。
最初から伏兵が待っていた。
ガレスの戦い方を敵へ教えた者。
スペードが援軍を送ることまで教えた者。
そして。
今。
スペードは援軍を送っていないと。
ガレスに嘘をついた者。
その男は。
遠ざかりながら。
静かに振り返った。
月明かりが。
その顔を照らす。
王弟だった。




