31話 「平和ボケ」
帰国した王弟は。
すぐに父王へ進言した。
「軍を増強すべきです」
王の執務室。
父王は書類から顔を上げる。
「突然だな」
「突然ではありません。以前から考えていました」
王弟は机の上に地図を広げた。
「周辺国は軍備を拡張しています。北方では国境を巡る争いも増えている」
「知っている」
「ならば我が国も備えるべきです」
「備えている」
「足りません」
王弟は即答した。
「兵を増やし、装備を整え、国境の守りを強化する。それだけではありません」
地図を指す。
「いずれは周辺国が、我が国へ攻め込むことなど考えもしないほどの軍事力を持つべきです」
父王は息子を見る。
「そのための金は?」
「…………」
「兵を増やす。武器を作る。砦を築く。すべて金がいる」
「税を上げます」
「誰の?」
「……民のです」
父王は静かに書類を置いた。
「今、民は飢えているか?」
「いいえ」
「他国の兵が国境を越えてきているか?」
「いいえ」
「ならば」
父王は王弟を見る。
「まだ起きてもいない戦のために、今を生きる民へ負担を強いるのか」
「起きてからでは遅いのです」
「分かっている」
「なら!」
「だからといって、恐怖だけで国を動かすことはできん」
王弟は黙る。
「お前の言うことが間違っているとは言わん」
父王は地図を見る。
「国には力が必要だ」
「では――」
「だが」
言葉を遮る。
「力を持つために、守るべき民を苦しめてどうする」
「…………」
「国は軍のためにあるのではない」
父王は言った。
「軍が、国のためにあるのだ」
王弟は拳を握る。
「……父上は」
「何だ」
「この平和が、いつまでも続くとお思いですか」
「思っておらん」
「ならばなぜ!」
「続けるのだ」
王弟が止まる。
「続くと信じるのではない」
父王は息子を見る。
「続けるために、王がいる」
「…………」
「戦を避けることもまた、王の仕事だ」
王弟には。
その言葉が理解できなかった。
◇
それでも。
王弟は諦めなかった。
父が動かないのなら。
民に訴えればいい。
国を守るのは王だけではない。
この国に生きる者たちも。
きっと分かってくれる。
王弟は人々の前に立った。
「今、我々は平和です」
集まった民衆へ語りかける。
「だが、それが明日も続く保証はない」
周辺国の軍備。
過去に滅びた国々。
留学先で見た光景。
力を失った国がどうなるのか。
王弟は自分の言葉で語った。
「我々は、もっと強くならなければならない!」
声を上げる。
「誰にも脅かされない国を作るのです!」
だが。
返ってきたのは。
王弟が期待した声ではなかった。
「戦争でも始めるのか?」
誰かが言った。
「今は平和じゃないか」
「兵を増やしてどうする」
「その金は俺たちの税金だろ?」
「戦争なんて御免だ」
ざわめきが広がる。
「違う!」
王弟が声を上げる。
「戦争をするためではない!」
人々が王弟を見る。
「戦争を起こさせないために、強くなるのです!」
「でも今、戦争なんて起きてないだろ!」
笑い声が起きた。
「起きてからでは遅い!」
「起きるかどうかも分からないじゃないか!」
「…………」
王弟は言葉を失った。
「今のままでいいよ」
誰かが言った。
「平和なんだから」
平和。
その言葉だけが。
王弟の耳に残った。
◇
その夜。
王弟は一人。
王宮から城下を見下ろしていた。
灯りが並んでいる。
酒場から笑い声が聞こえる。
家へ帰る者。
家族と食卓を囲む者。
子供を抱く者。
平和だった。
確かに。
この国は平和だった。
「…………」
だから。
誰も恐れていない。
明日。
この景色がなくなるかもしれないことを。
他国の兵が、この道を歩くかもしれないことを。
家を奪われ。
家族を奪われ。
国そのものを奪われるかもしれないことを。
誰も。
知らない。
王弟は思い出す。
歴史から消えた国々。
平和を望み。
戦を避け。
それでも滅ぼされた国。
そして。
留学先で見た街。
民を守ることすらできなかった兵士たち。
「……なぜ分からない」
王弟が呟く。
父も。
民も。
誰も分かってくれない。
いや。
「…………」
違う。
王弟は城下を見つめる。
分からないのではない。
知らないのだ。
戦争を。
敗北を。
奪われるということを。
この国は長く平和だった。
だから。
平和が当たり前になった。
「なら……」
王弟の目が変わる。
知らないのなら。
知ればいい。
平和は。
ただそこにあるものではないと。
弱ければ。
いつでも奪われるものなのだと。
そのためには――
「…………」
一つの考えが。
王弟の頭をよぎった。
あまりにも愚かで。
あまりにも危険な考え。
すぐに振り払うべきだった。
だが。
王弟は。
振り払わなかった。
城下を見下ろす。
「一度……」
小さく呟く。
「負ければいい」
自分の口から出た言葉を。
王弟自身が聞いていた。
それでも。
訂正しなかった。
一度だけ。
この国が。
敗北を知ればいい。
そうすれば。
きっと。
皆も分かる。
平和が。
当たり前ではないことを。




