29話「英雄」
何年も前。
まだ王弟が、幼い少年だった頃。
王宮の一室。
大きな机の上に、一枚の地図が広げられていた。
「――かつて、大陸の半分を支配した王がいました」
老教師が地図を指す。
少年は身を乗り出した。
「半分も?」
「ええ」
「全部でいくつの国を倒した?」
「さて。小国まで数えれば、私にも分かりません」
「そんなに?」
少年の目が輝く。
「強かったのか?」
「非常に」
老教師の指が地図の上を進んでいく。
「若くして王となり、数多の戦に勝利し、その領土を広げ続けたと言われています」
「負けなかった?」
「記録に残る限り、大きな敗北はありません」
「すごいな……」
少年は地図を見つめる。
「先生」
「はい」
「この王が死んだのは、いつ?」
「何百年も昔です」
「何百年?」
少年が顔を上げる。
「なのに先生は知ってるのか?」
「もちろん」
「父上も?」
「ご存じでしょう」
「じゃあ、国中の人が知ってる?」
「歴史を学んだ者なら、多くが知っているでしょうね」
「…………」
少年はしばらく黙っていた。
そして。
「死んだのに?」
「ええ」
「何百年も前に死んだのに、まだ名前が残ってる?」
老教師は微笑む。
「それが、歴史に名を残すということです」
「歴史に……」
少年はもう一度、地図を見る。
広大な領土。
数え切れないほどの国。
そのすべてを手にした王。
「英雄だったんだな」
「そう呼ぶ者もいます」
「違うのか?」
「歴史とは、見る者によって姿を変えるものです」
少年が首を傾げる。
「どういう意味?」
「彼に国を奪われた者たちもいた、ということですよ」
「…………」
「ある国では英雄でも、別の国では侵略者です」
少年は少し考えた。
「でも」
地図を見る。
「名前は残ったんだろ?」
「……ええ」
「だったら、すごい人だ」
老教師は何も言わなかった。
少年は再び地図へ目を落とす。
その目には。
純粋な憧れがあった。
自分もいつか。
そんな王になれたら。
その程度の。
子供らしい夢だった。
◇
それから数年。
少年が学ぶ歴史は。
英雄の物語だけではなくなった。
「先生」
「はい」
「この国は?」
少し成長した王弟が、小さな国を指差す。
「もう存在しません」
「なぜ?」
「隣国に侵攻されました」
「同盟国がいただろ?」
「いました」
「助けなかった?」
「ええ」
「なぜだ」
「参戦すれば、自国にも被害が及びますから」
王弟は眉を寄せる。
「約束したのに?」
「国同士の約束とは、時にそういうものです」
「…………」
王弟の指が、別の国へ移る。
「ここは?」
「戦争を避けるため、領土の一部を隣国へ譲りました」
「それで戦争は起きなかった?」
「その時は」
「その時は?」
「五年後、再び領土を要求されました」
「また渡した?」
「ええ」
「その後は?」
「三年後に、また」
王弟は黙った。
「最後は?」
「国そのものが、なくなりました」
「…………」
静かな部屋に。
時計の音だけが響く。
「変だな」
「何がです?」
「戦争を避けたかったんだろ?」
「ええ」
「領土まで渡した」
「そうですね」
「それでも滅びた」
「…………」
王弟は地図を眺める。
そして。
今度は大きな国を指した。
「ここは?」
「大陸でも有数の強国です」
「最後に他国から攻められたのは?」
「百年以上前でしょうか」
「……百年」
王弟は椅子にもたれる。
「弱い国は戦争を嫌がっても攻められる」
「…………」
「強い国は戦争ができるのに、誰も攻めない」
老教師は答えなかった。
「先生」
「はい」
「平和って何だ?」
「難しい質問ですね」
「戦争をしないことじゃないのか?」
「一般的には、そうでしょう」
「でも」
王弟は地図を指す。
「戦争をしないようにした国が滅びて」
指を動かす。
「戦争に勝てる国が百年も攻められてない」
「…………」
「だったら」
王弟は呟いた。
「戦争をしないことと、平和って違うんじゃないか?」
老教師は少年を見つめる。
そして静かに言った。
「殿下」
「何?」
「歴史は、答えを教えてくれるものではありません」
「…………」
「答えを考えるために学ぶものです」
王弟は再び地図を見る。
「じゃあ、考えるよ」
その日から。
王弟は歴史を好んで学ぶようになった。
戦争。
外交。
同盟。
裏切り。
滅びた国。
栄えた国。
そして。
歴史に名を残した王たち。
学べば学ぶほど。
一つの疑問が大きくなっていった。
なぜ。
平和を望んだ国が滅び。
戦争に勝てる国が生き残るのか。
やがて。
少年なりの答えに辿り着く。
「先生」
「はい」
「分かった」
「何がです?」
王弟は地図を見つめたまま答えた。
「弱い国は――」
その指先には。
かつて存在した小国があった。
「平和を選ぶ権利すらないんだ」
老教師は何も答えなかった。
少年の視線が動く。
小国から。
強国へ。
そして。
かつて大陸の半分を支配した英雄の国へ。
最初は。
ただの憧れだった。
死してなお。
何百年も語り継がれる王。
だが。
少年は少しずつ知っていった。
英雄が歴史に名を残した理由を。
国を守るために必要なものを。
そして――
平和を選ぶために必要なものを。
力。
少年は。
そう信じるようになった。




