2話「笑う奴隷」
「何がおかしい?」
男の声がした。
少年は顔を上げた。
石畳の向こうに、見たこともないほど立派な服を着た男が立っている。
その後ろには剣を帯びた騎士が二人。
少年には、それが誰なのか分からなかった。
ただ――偉い人なのだろうとは思った。
「聞いている」
男がもう一度言った。
「何がおかしい?」
少年は笑っていた。
頬には昨日殴られた痣が残っている。
左目は腫れ、ほとんど開かない。
痩せ細った身体には薄汚れた布が一枚。
右脚は、不自然な方向に曲がっていた。
それでも少年は笑っていた。
「……何も」
「ならば、なぜ笑う」
少年は少し考えた。
難しい質問だった。
なぜ、と聞かれても困る。
物心ついたころから、そうして生きてきたのだから。
「笑っておりますと」
少年は答えた。
「殴られる理由が、一つ減りますので」
後ろにいた騎士の顔がわずかに歪んだ。
男だけは少年を見ていた。
「誰に教わった?」
「誰にも」
「では、どうしてそんなことを知っている」
「笑っていないと、殴られます」
少年は笑ったまま言った。
「『何だ、その顔は』と」
「…………」
「『俺に不満でもあるのか』と」
男の眉がわずかに動く。
「だから笑います。そうすれば、少しだけ殴られません」
少年はそこで首を傾げた。
「……たまに、笑っていても殴られますが」
男の後ろで騎士の一人が拳を握った。
男は何も言わなかった。
代わりに、少年の前にしゃがみ込んだ。
「名は?」
「ありません」
「親は?」
「知りません」
「歳は?」
「たぶん、十くらい」
「たぶん?」
「生まれた日を知りませんので」
男はしばらく少年を見つめていた。
少年も男を見つめ返した。
正確には――その声を聞いていた。
怒ってはいない。
苛立ってもいない。
哀れんでいる……少し違う。
この男は今、自分を知ろうとしている。
そんな声だった。
「お前は、ここで何をしている」
「売られています」
「それは見れば分かる」
男の口元が少しだけ緩んだ。
「何ができる、と聞いている」
少年は自分の身体を見た。
力仕事はできない。
右脚はもうまともに動かない。
文字も読めない。
剣なんて握ったこともない。
料理もできない。
しばらく考えてから、少年は言った。
「喋れます」
「……見れば分かる」
「あと、人の話を聞くのが得意です」
「ほう」
「それと――」
少年はニッと笑った。
「人を笑わせるのも、少し」
「それは大した才能だ」
「そうなのですか?」
「ああ。少なくとも、余の宮廷では希少な才能だ」
そこで初めて、男が笑った。
男の後ろに立っていた騎士たちが、笑った。
少年は彼らを見る。
「どうした?」
男が尋ねる。
「……いえ」
「言え」
「怒りませんか?」
「内容による」
「では、やめておきます」
男が吹き出した。
「いい。許す。言ってみろ」
少年は少し迷ってから、男の耳元へ顔を近づけた。
「あの人たち」
「うむ」
「今の、面白くて笑ったんじゃないです」
男の表情が止まった。
「……なぜ分かる?」
「笑う音が違います」
少年は答えた。
「本当に面白い時は、もっと息が漏れます。でも、あの人たちは先にあなたの顔を見ました」
男がゆっくり振り返った。
二人の騎士は気まずそうに目を逸らした。
少年は続けた。
「あなたが笑ったから、笑ったんです」
しばらく沈黙があった。
やってしまった。
少年はそう思った。
余計なことを言った。
こういう時は殴られる。
だから反射的に笑顔を作った。
「申し訳――」
「ハハハハハ!」
突然、男が大声で笑った。
少年が目を丸くする。
さっきとは違う。
腹の底から出てくる、大きな笑い声だった。
「なるほど!」
男は膝を叩いた。
「これはいい!」
少年には、何がそんなに面白いのか分からない。
「おい」
男が立ち上がる。
「この子を買う」
少年の笑顔が消えた。
「……え?」
「聞こえなかったか?」
「聞こえました」
「ならば話は早い」
「どこへ連れていくんです?」
「城だ」
「城……?」
男は少年を見下ろした。
「今日から、お前は余のそばにいろ」
少年は困った。
知らない男に突然買われること自体は珍しいことではない。
奴隷なのだから。
だが、この男は妙だった。
「何をすれば?」
「そうだな」
男は少し考えた。
そして笑った。
「まずは余を笑わせろ」
「…………」
「できぬか?」
少年は男を見上げた。
その服。
剣を持った護衛。
周囲の人間が頭を下げる姿。
そして先ほど聞いた言葉。
――余。
ようやく少年にも分かった。
「もしかして」
「うむ?」
「王様ですか?」
「そうだ。余がこの国の王だ」
「…………」
「どうした?」
少年は数秒黙った。
それから、いつもの笑顔を浮かべた。
「王様でしたか。安心しました」
「なぜだ?」
「ここでは人間にも値段がつくでしょう?」
少年は自分の首から下がった札を持ち上げた。
「てっきり、この国で一番高い人が王様なのかと思ってました」
一瞬の沈黙。
そして。
「ハッハッハッハッ!」
王の笑い声が奴隷市場に響いた。
少年はその音を聞いていた。
嘘のない笑い声だった。
不思議だった。
人が笑っている。
なのに、自分は殴られない。
むしろ、喜ばれている。
そんな経験は初めてだった。
王は笑い終えると、少年へ手を差し出した。
「来い」
少年はその手を見た。
「余の城にはな、笑わぬ者が多すぎる」
少年は王の手を取らなかった。
まだ怖かった。
王は気にする様子もなく続ける。
「笑っている者は大勢いる。だが――」
王は後ろの騎士たちをちらりと見た。
「どうやら、本当に笑っている者は少ないらしい」
そして再び少年を見る。
「だから、お前が聞いてくれ」
「……何を?」
「皆の笑い声をだ」
少年には、その言葉の意味がまだ分からなかった。
自分がこれから暮らすことになる宮廷のことも。
そこで一人の王子と出会うことも。
いつか自分が、その王子にとって最も近しい友となることも。
そして――
何年もの時が流れたある日。
死の床についたこの王から、たった一つの願いを託されることも。
まだ、何も知らなかった。
――あの子が道を誤った時、お前だけは正してやってくれ。
それはずっと先の話。
この日。
名もなき奴隷の少年は、初めて王の手を取った。
後に王国中から、
『王の愚者』
と呼ばれる男の物語は――
ここから始まった。




